Saturday, November 5, 2016

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 7: サンクトペテルブルグ 1





< 1. アニチコフ橋の馬の像 >

今日から数回に分けてサンクトぺテルブルグを紹介します。
訪問したのは2016年9月29日と30日で、初日は曇りでしたが、次の日は晴れました。



< 2.サンクトペテルブルグの地図、すべて上が北 >

上の地図: バルト海とロシアを示します。
地図の横幅は約2000km。
赤丸は後でサンクトペテルブルグの歴史を紹介する時に出てくる地名で、Aはナルヴァ、Bはリガ、Cはシュリッセリブルクです。

中央の写真: ほぼサンクトペテルブルグ市域。
写真の横幅は約50km。
黄色の四角が今日紹介する観光の範囲です。

下の写真:今回紹介する観光地を黄色の数字で示します。
写真の横幅は約4km。
No.1: 新幹線が着いたモスクワ駅。
No.2: 宮殿広場。
No.3: エルミタージュ美術館。
No.4: 血の上の救世主教会。
No.5: ペトロパヴロフスク聖堂(遠くから眺めただけ)。
No.6: イサク聖堂(後日紹介)。


 
< 3. モスクワ駅 >

上の写真: 新幹線が着いたモスクワ駅。

中央の写真: 1917年の革命を記念して名づけられた蜂起広場です。
広場に立っているのが英雄都市(第3話で紹介)に贈られるオベリスク。
このサンクトペテルブルグの名前は、第一次世界大戦ではペトログラード、ソ連になるとレニングラードと改名され、ソ連崩壊後は元の名前に戻った。

下の写真: モスクワ駅横のリゴフスキー大通り。

到着した時は厚い雲に覆われたいたが、歴史を感じさせる建物が並んでいるのを見ると期待が膨らんだ。



< 4. 街並み 1 >

下の写真: アニチコフ橋から見たフォンタンカ川。

バスで走っていると、運河や川の多いのがわかる。
サンクトペテルブルグは沼地に造られた要塞から始まった。



< 5. 通りの様子 >

多くのロシア人の顔をじっくり見る機会はなかったが、気付いたことがある。
ここにはポルトガルのリスボンようにあらゆる大陸の人々が混住していない。
観光客は別にして、アラブやアフリカ、東南アジア、南アジア系の人々を見かけることはほとんどなかった。
だからと言って、ロシアの二大都市の人々は単一のスラブ人ではなく、北欧や中央アジアなどの血が混じっており、まさに歴史の流れを感じる。



< 6. 街並み 2 >

上の写真: この様な彫刻の飾りが大通りの建物に多く見られた。
下の写真: グリボエードフ運河の奥に見える血の上の救世主教会。






< 7. 血の上の救世主教会 >

下の写真: 隣接するミハイロフスキー公園の木々が色づき始めていた。



 
< 8. 血の上の救世主教会 >

この教会は、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建てられ、1907年に完成している。
サンクトペテルブルグの歴史的な建物のほとんどは西欧風(バロック、ネオクラシック)で、有名なものはイタリアの建築家の手によるものが多い。
それに対して、これは純ロシア風の再現とも言えるが、モスクワの赤の広場の1560年に建てられた聖ワシリイ大聖堂に比べ、自由で外壁の装飾が派手です。

ロシア教会の特徴である屋根の葱坊主は火焔を意味し、教会内での聖霊の活躍を象徴すると言われています。



< 9.血の上の救世主教会の内部 >


内部を拝観していませんが、素晴らしいので紹介します。






< 10. 宮殿広場 >

上の写真: 1827年に建てられた旧参謀本部。
中央の写真: 1834年、ナポレオン戦争の勝利を記念して建てられたアレクサンドルの円柱が左に見える。
左の奥にイサク聖堂のドーム、右奥に旧海軍省の建物が見える。

下の写真: エルミタージュ美術館。
後にエルミタージュ美術館になる冬宮が1762年に建てられ、サンクトぺテルブルグの中心となった。
内部は次回紹介します。



< 11.エルミタージュ美術館の周囲  >

上の写真: 美術館に沿って宮殿広場からネヴァ川側に回る。
下の写真: ネヴァ川と美術館入り口。



< 12.ネヴァ川  >

上の写真: エルミタージュ美術館側から対岸を見ている。

中央の写真: 対岸のペトロパヴロフスク要塞を拡大。
高い塔はペトロパヴロフスク聖堂。
サンクトペテルブルグはここに作られた要塞から始まった。

下の写真: ヴァシリエフスキー島と宮殿橋。
右手の赤い二つの塔は昔の灯台。


サンクトぺテルブルグの歴史
この都市の人口は現在500万人で、ロシア第二の都市です。





< 13. サンクトぺテルブルグの歴史 >

一番上の絵: ノヴゴロド公国の賑わい。

二番目の写真: デカブリスト広場のピュートル大帝像。

三番目の絵: 1753年当時のサンクトぺテルブルグ。
おそらく左岸がペトロパヴロフスク要塞、右岸が冬宮(エルミタージュ美術館)が建つ場所だろう。

四番目の写真: ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆。


この地は、古くはヴァイキングがネヴァ川を遡上してバルト海と黒海を結ぶ交易ルートに位置した。
ここはキエフ公国の分裂後、ロシアの北方で栄えたノヴゴロド公国に属した。
やがて公国はスウェーデンと国境を巡って争うことになる。
一時は、公国のアレクサンドル・ネフスキーが勝利し、それにちなんだ彼の名を冠した地名や建物がサンクトぺテルブルグに残っている。

やがてロシアのピュートル大帝は、東欧、バルト三国、北欧を巻き込む大北方戦争(1700~1721年)で、スウェーデンと雌雄を決することになる。
その過程で、1703年、この地にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始し、これがサンクトぺテルブルグの始まりとなった。

ピュートル大帝は、バルト海交易を確保し、西欧化を図ることがロシアにとって不可欠だと考えていた。
彼は皇帝でありながら、1年半ほど大使節団の一員として偽名を使いヨーロッパを視察している。
この姿勢が、サンクトぺテルブルグの街づくりにも反映されている。

1712年、ここに首都が移され発展を遂げることなる。
しかし、ここは1917年に始まるロシア革命の中心地となった。
そして、1922年、ソ連は首都を海外からの干渉を避ける為に内陸部のモスクワに移した。




< 14. 大北方戦争の激戦地 >

上の図: 地図A、1700年のナルヴァの攻防。
この城塞を後日紹介します。

中央の図: 地図B、1710年のリガの攻防。
この旧市街を後日紹介します。

下の図: 地図C、1702年、シュリッセリブルクの攻防。
ピョートル大帝は大きな犠牲を払って長年の抗争の地をスウェーデン軍から取り戻した。
サンクトぺテルブルグより東に35kmの所。


次回に続きます。





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