Monday, October 31, 2016

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 6: 新幹線の車窓から



 

< 1.車窓から >

今日は、モスクワからサンクトぺテルブルグまでの新幹線車窓から眺めを紹介します。




 

< 2. 新幹線の停車駅 >

私達の乗った新幹線サプサンは756号で、モスクワを6:40発、サンクトぺテルブルグ着は10:40です。
(前回紹介した754号は間違いでした。)
途中、地図のAとB駅で停車します。

撮影について
この日、走行中は曇りで、時折、小雨が降りました。
しかし、ロシア大陸を650km横断し、北に行くにしたがって変化する景色を写すことが出来ました。
私は列車の進行方向に向かって左側に座り、西南方向を見ている。
写真は撮影順に並んでいます。



 

< 3. モスクワから30分以内の景色 >

ここまで来ると、周囲は鬱蒼とした森林になり、その間に民家が散在するようになります。


 

< 4. 最初の停車駅、地図A >

駅は、モスクワから約1時間後に着きました。
下の写真が停車駅のホームです。
新幹線の駅と言っても、在来線の駅と共用しており古いようです。



 

< 5. モスクワから1時間半以内の景色 >

上の写真も、A駅のホームです。
中央の写真の民家はみすぼらしく、廃屋かどうか不明です。
木々の黄葉が目立つようになって来ました。

新幹線について
サンプサン(新幹線)の線路は在来線と一緒で、ホームも同じものを使用している。
サンプサンは2009年に、ドイツのシーメンス製車両を購入し運転が始まった。



 

< 6. 2番目の停車駅、地図B >

ここは距離的に中間点の少し手前になります。
新幹線が止まる駅なのですが、周辺の建物からは大都会のイメージはありません。
大自然に囲まれた小都市の趣です。

この駅は人口56000人の都市、Vyshny Volochyokの中央西端にあります。
この地はバルト海に注ぐ川とカスピ海に注ぐヴォルガ川の結節点になります
古くはヴァイキングがスカンジナビアとビザンチン帝国を結ぶ毛皮の交易路でした。


 

< 7. モスクワから2時間以内の景色 >

上の写真は、B駅ホームすぐ横の踏切の様子です。
普段着の雰囲気はよくわかります。
中央の写真はB駅ホームすぐ横の景色で、新幹線の駅と言っても、すぐ森になります。
下の写真は川です。



 

< 8. モスクワから2時間前後の景色 >


 

< 9. モスクワから2時間半以内の景色 >

この辺りは、なぜか木々が少なく、草原が増えて来ました。
一番下の写真も左側には、ヤギの飼育が見られます。


 

< 10. モスクワから2時間半前後の景色 >

今まで車窓からいくつもの大きな湖を見ました。
ここで始めて、大きな牧草地や丘陵地帯を見たように思います
こちらでは黄葉が進んでいました。


 

< 11. モスクワから3時間前後の景色 >

中央の写真は湿地帯のようです。
下の写真は大きな川です。
ほとんどの川は護岸工事がされておらず、いかにも自然のままです。




 

< 12. モスクワから3時間半以内の景色 >

中央の写真の奥にも民家が見えます。
下の写真は、比較的新しい家屋が並ぶ住宅地のようです。


 

< 13. サンクトペテルブルグまで30分以内の景色 >

アパート群が目立ち始めました。

ロシアの国土の大半は平地で日本の45倍あり、人口は日本より少し多い。
一人当たりのGDPは日本の60%ほどですが、車窓から見た暮らしぶりはもっと低いように感じます。
大都市部のアパートや家屋は文化的な暮らしが可能だろうが、少し離れれば不便で生活水準が低いようです。


 

< 14. サンクトペテルブルグまで15分以内の景色 >

上の写真で、遮断機の右側の車止めの装置が凄い。
工場古いのが多いようです。


 

< 15. サンクトペテルブルグに到着 >

私達が乗って来たサプサンが下の写真の左側に見えます。
下車した乗客には、集団の観光客ほとんどいないようです。


感じたこと
モスクワと新幹線からの景色を見て、ロシアの広大さと人口密度の低さを実感した。

平野は果てしない森林でおおわれ、北部は湿地帯が多い。
広大ではあるけれど、未耕作地が多く、不毛とまでは言えないが、豊かな恵があるとは言えそうにない。
私が見た地域は、ロシアの起源となるキエフ大公国(9~13世紀)の北半分の領域で、当時の主要都市ノヴゴロド近くも通過した。
この地から生まれた王国は農業や牧畜で経済基盤を築けず、勇猛な遊牧民族が去った後、豊かな実りを求めて中央アジアやヨーロッパへと向かったのだろうか。


次回に続きます。





Sunday, October 30, 2016

Bring peace to the Middle East! 40: chain of retaliation 8 : Why the Middle East war began? 1

中東に平和を! 40: 報復の連鎖 8 : なぜ中東戦争は始まったのか? 1




<  1.  Jerusalem mayor which surrendered to the British Army in 1917  >
< 1.1917年、英国軍に降伏するエルサレム市長 >

I looked back on the Middle East war last time.
Why did the Arabic countries deprecate nation-building of Israel and open war with Jew?
Before investigating this reason, I take up a rumor about the Middle East war.

前回、中東戦争を振り返りましたが、なぜアラブ諸国はユダヤ人の建国に反対し戦端を開いたのでしょうか?
この理由を探る前に、中東戦争に関するある風説を取り上げます。


About the rumor
"Arab opened war with Jew, and was defeated, so the present tragic situation of Palestinian is a natural consequence."
This is an excuse that Israelis often use.

Is it really true?
I regard this rumor as malicious false rumor due to the following reasons.



ある風説について
「アラブがユダヤに戦争を仕掛け、負けたことが悲惨な現状を生んだのであり、パレスチナは自業自得である。」
これはイスラエル側でよく語られる風説です。

本当にそうだろうか?
私は以下の理由で、この風説は悪意あるデマと考えます。




<  2.  The Middle East of 1920s  >
<2.1920年代の中東 >


1.  The Arab was not able to defeat Jew.
Around that time, the West and the Soviet Union banished Jew from own country, and gave anything including supply weapons in order to let Jew settle down in other area.
In a twist of irony, it did not need to be Palestine.
The world, particularly Christianity countries gave approval of it with atonement and antipathy in their eyes.

In order to win the war, the Arabic countries might have to have opened the war during 1920s.
But it was impossible in those days because the Arab was under the rule of Britain and France.


2. The conflict continued even if the Arab won.
The Jew must have counterattacked by thorough resistance and terrorism, and I think Israel defeated the Arab in some time or other.
We know the Jew ever practiced radical terrorism in the Middle East.


3.Even if the Arab did not open the war, Palestine could not change the situation.
It is difficult for us to understand this.
This reason is because the Jew had financial power, intellect, and network which had overwhelmed Palestinian Arab.
They connected to the world through the Mediterranean Sea by basing on Israel even if it was small.
This is almost same as the Solomon empire in 3,000 years ago.
Thus, Israel overwhelmed Palestine by economic power, military capability, and political might.

This is a typical pattern of the offensive and defensive battle that have been repeated between advanced colonist and indigenous people.
If left untreated, the result is clear.

In other words, the Middle East war did not cause the present tragic situation of Palestine, and was only one derived phenomenon.


1. アラブはユダヤに勝つことが出来なかった。

当時、欧米やソ連はユダヤ人を自国から追い出し、別の地域に定住させるために、兵器供与など何でも行った。
それはパレスチナでなくても良かったのだが。
世界、特にキリスト教国は罪滅ぼしと同情、そして嫌悪が混じる眼差しで、これに賛同した。

アラブ諸国が勝つには、ユダヤ移民が始まった1920代に開戦すべきだったかもしれないが、当時、アラブは英仏の統治下にあったので不可能だった。


2. もしアラブが勝っていても、紛争は続いた。

今度は、ユダヤ人が徹底抗戦とテロで反撃し、早晩イスラエルはアラブを打ち負かしただろう。
中東におけるユダヤ人の徹底抗戦と過激なテロは実績がある。





<  3.  Jewish settlement in 1947  >
< 3. 1947年のユダヤ人入植地 >


3. アラブが開戦しなくても、パレスチナのアラブ人の状況を変えることは出来なかった。

ここが分かり難いところですが、ユダヤ人にはパレスチナのアラブ人を圧倒する資金力と知力、ネットワークがあった。
彼らは小さくてもイスラエルの地を拠点することにより、地中海を通じて世界と繋がった。
これは3000年前のソロモン帝国に通じるものがある。
こうして、イスラエルは経済力、軍事力、政治力によって、パレスチナを圧倒した。

これは繰り返されて来た、先住民と先進の入植者との攻防のパターンです。
これを放置すれば、その結果は明白です。

つまり、中東戦争の有無が今のパレスチナ問題を決定づけたのではなく、中東戦争は派生した一つの現象にすぎないのです。


What! Is there a problem?
My point is, a fact unfortunately has been repeated, that a superior group tried to take in and rule an inferior group, and banished and eliminated if the latter did not the follow.

On the other hand, the Jew has been oppressed even though the Jew was an excellent race.
And, now, they seem to get their revenge for 2500 years.
Ironically, the people that were discriminated have oppressed other people adversely.

Even if there is Jew who recognizes the pain of others from the experience, the group's reaction is different unfortunately.
It is a historical fact that most come to overwhelm an enemy from a sense of fear and a chain of the retaliation happens at last.

On the next time, I will consider the situation the Middle East war began.


何が問題なのか
アラブの人々は、私の指摘に怒るかもしれない。
アラブ人を先住民と一緒にするのは言語道断だと!

私が言いたいのは、優勢な集団が劣勢の集団を取り込み支配し、従わなければ追い出し抹殺することは、残念ながら繰り返されて来た事実だということです。

一方、ユダヤ人は優秀な民族であるにも関わらず、虐げられて来た。
そして、今、2500年間の怨念を晴らしているかのようです。
皮肉なことに、差別され虐げられた人々が、逆にそれを繰り返しているのです。

その経験によって他者の痛みを理解するユダヤ人もいるでしょうが、残念ながら集団となると違うのです。
多くは恐怖心から、身構え敵を圧倒するようになり、ついには報復の連鎖が起きてしまうのが歴史です。



次回、具体的に中東戦争が始まる状況を考察します。



Thursday, October 27, 2016

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 5: モスクワ 4





< 1.レニングラード駅前 >

今日は、早朝、モスクワ発の新幹線に乗るまでを紹介します。


この日の動き
2016年9月29日、朝5時、ホテル近くのモスクワ川沿いまで少し散策しました。
そして5:30にモスクワのホテルをバスで出発し、レニングラード駅に向かいました。
6:30発のサプサン(新幹線)に乗って、3時間45分後にはサンクトぺテルブルグに着きます。





< 2. ホテル周辺  >

上の写真: 私達が宿泊したホテル、KATERINA CITYが運河の左側に見える。
この運河はモスクワ川と並行して流れている。
ここはクレムリンからモスクワ川沿いに東南へ3.5km行ったところです。
撮影は朝の5時頃です。

下の写真: ホテルの前の運河を挟んだ向かいにある建物群。
中央の白いタワーはホテルのSwissotel Krasnye Holmy、右側のドームはコンサートホールです。

周辺の道路はゴミ一つなく、ちょうど散水車が路面に散水していた。





< 3. モスクワ川  >
上の写真: ホテル近くのモスクワ川の河岸から南の方向を撮影。

下の写真: 北の方向、クレムリンの方向を撮影。
橋中央の遠方に微かに見えるのは高さ176mの芸術家アパート、Stalin skyscraper in Moscow(Residential building on the waterfront Tinkers)です。
この建物はスターリンがニューヨークの摩天楼に負けじと1950年代に建てさせたスターリン様式のビルの一つです。
モスクワには7つありますが、かつての共産国の首都ワルシャワやリガにも建っている。




< 4. レニングラード駅周辺  >

上の写真: レニングラード駅の向かいにあるカザンスキー駅。
これは中央アジア方面行きなどの始発駅です。

下の写真: レニングラード駅前からヤロスラフスキー駅の方を見ている。
ヤロスラフスキー駅はシベリア鉄道の起点です。

モスクワ・サンクトぺテルブルグ鉄道の駅はレニングラード駅だが、ここには大きな駅が三つ集まっている。




< 5. レニングラード駅前  >

上の写真: レニングラード駅正面。
下の写真: 朝6時、駅前を行く人々。




< 6. レニングラード駅構内 >

私達が乗るのは6:30発の754便です。
構内は、早朝なのに人で一杯でした。
集団客は少ないのですが、私達も含めて東アジア系の観光客が目につきました。




< 7. いよいよホームへ >

手荷物検査を受けてホームに進みます。
私達が乗るサプサンです。




< 8. いよいよ乗車します >

10両編成の前の方にある4号車に乗るので、ホームの先端に向かって歩きます。
いよいよ乗車です。
何か気ぜわしくもあり、心躍る瞬間でもあります。




< 9.列車内、他から借用 >

私達の4号車は2等座席で、1等座席と違って食事がついていません。
朝食は、ホテルが用意したパンの弁当を車内で食べました。
私達夫婦が座ったのは、地図の赤丸で、テーブルを囲んだ席でした。
車両は綺麗で、シートは狭くなく、音楽が聴けるイヤホーンも付いています。
4時間弱、快適に過ごしました。
チケット料金は1等座席の半分ぐらいでなので、私はこれで満足です。
スーツケースの置き場が車両毎に数か所ありますが、少し狭いようです。


次回に続きます。





Wednesday, October 26, 2016

Something is strange! 50: Wonder of the U.S. presidential election

何か変ですよ! 50: 米国大統領選の不思議



*1


There is what I always have wondered about.
Why will people look the other way on future crises?
I look at such example in current the U.S. presidential election.

私は常々、不思議に思うことがあります。
なぜ人々は未来の危機から目を逸らすのでしょうか?
その例を米国大統領選から見ます。


Wonder of the U.S. presidential election
To emerge from current distressed condition, certain people refuse existing politician, and appeal the necessity of Donald Trump being a shrewd manager.
Will they appeal it knowing who invited the current distressed condition?

At every presidential election, they have chosen certain political party which used the dangerous means (reduction tax, favorable treatment of a wealthy class, monetary increase, deregulation) under the pretense of economic revitalization.
As a result, the economy of the U.S. rose, but financial crisis was repeated, and income gap continued to spread.
Some economists always sounded an alarm bell for this crisis.


米国大統領選の不思議
トランプ氏を支持する人々は、今の窮状から抜け出すには、既存の政治家ではだめで、経営者トランプ氏の辣腕が必要と訴える。
彼らは、誰が今の状況悪化を招いたかを知って訴えているのでしょうか?

彼らは大統領選の度に、経済活性化と称して危い手段(減税、富裕層優遇、貨幣増発、規制撤廃)を使う政党を選んだ。
その結果、米国の経済は上昇したが、金融危機は繰り返され所得格差は拡大する一方でした。
以前から、一部の経済学者はこの危機に警鐘を鳴らしていた。





<  2.  The U.S. economic growth and a change of income  >
< 2.米国の経済成長と所得の推移 >

Upper chart:  a green line is the U.S. economic growth.
The economy increased to approximately 2.3 times between 1980 and 2010.

Lower chart:  a change of each quintile income.
The highest income class increased to approximately 2 times between 1980 and 2010, but the lowest income class only increased to approximately 1.1 times in the same period.

上のグラフ: 緑線が米国の経済成長。
1980-2010年の間で約2.3倍に経済は拡大した。

下のグラフ: 年収5分位の年収の推移。
1966-2010年の間で、最高所得層は約2倍、最低所得層は約1.1倍に過ぎなかった。




<  3.  changes of income differentials and political party approval rating in the U.S. >
< 3.米国の所得格差と政党支持率の推移 >

Upper chart:  a dark blue line is a change of Gini coefficient in the U.S.
Three green frames show the political administration by other political party.
The bigger the Gini coefficient, the larger the income differentials.

Lower chart:  a black line indicates the approval rating of unaffiliated voters.


The different political party have corrected the income differentials, so the Gini coefficient decreased, but it was like a drop in the ocean.

In addition, the ardent support to the political party decreased, and unaffiliated voters increased, and distrust of politics advanced.

They ignored these clear omen for 20 years, and only demanded near-term economic recovery.
In an extreme case, it may be said that they appealing invited this current distressed condition.
Furthermore, will they jump at the stopgap dangerous policy here?

I think this is mysterious.


上のグラフ: 紺色の線が米国のジニ係数の推移。
緑の枠が別の政党の政権時代。
ジニ係数の高い方が、所得格差が大きい。

下のグラフ: 黒線が無党派層の支持率。


別の政党は逆の手段を講じ格差を是正し、ジニ係数は低下したが、焼け石に水だった。
また政党への熱烈な支持が減り、無党派層が増えて、政治不信が進んでいた。

20年も前から、これら予兆は明らかだったのに、彼らはこれらを無視し目先の景気回復を求めた。
極論すれば、今、訴えている人々が、この窮状を招いたと言える。
さらに、ここで急場しのぎの危い政策に飛びつくのでしょうか?

私は、このことが不思議でならない。


Why will the people ignore omen of crisis?
The reason is mainly three.

1. Person does not notice the omen of the crisis.
This is because the person shows disinterest in it and is a lack of understanding about it.

2.  Person can not evaluate which crisis is the most important.
Even if the person interested about future crises, it is difficult to evaluate them because future crises are almost innumerable.
For example, these crises are war, economic ruin, global warming, resource depletion, and refugees.

Furthermore, there is an embarrassing situation.
The huge vested interest group makes full use of political ability and propaganda.
Because of this, it becomes hard to see more and more what is true crisis. 
For example, this vested interest group is people profiting from expansion of income gap, war, or oil consumption.

3.  Person does not know good measure.
People being amateur cannot but choose opinion of the expert, and this is also difficult.

Thus, it is considerably difficult that person foresees future crisis, takes measures beforehand.


なぜ人々は危機の予兆を無視するのでしょうか?
その理由は大きく三つあります。

1.危機の予兆がわからない。
これは人々の無関心と無理解が一番大きい。

2.どの危機を重視すべきかがわからない。
関心があったとしても、将来の危機はほぼ無数にあるため、何を優先すべきが分からない。
例えば危機には戦争、経済破綻、地球温暖化、資源の枯渇、難民などがあります。

さらに厄介なのが、巨大な既得権益層が政治力とプロパガンダを駆使していることです。
これにより国民は何が真の危機かが益々見え難くなります。
既得権益層とは所得格差や戦争、石油消費などの拡大で利益を得る人々です。

3.対策がわからない。
素人の国民は専門家の説を取捨選択するしかなく、これがまた難しい。

結局、将来の危機を予見し、事前に対策することは、かなり困難なのです。



At the end
But, when I look back on world history, there were many crises that we must prevent the buds of at an early stage.

One of a large number of crises approaches the limit, and the crisis comes out in the open in response to something suddenly.
And the people lose cool, and may take a wrong course to the opposite direction.
This often caused the worst situation.

The typical case is fascism that happened in Germany or Japan after the imperialism era.

The most important is that people deepen understanding about social problem and history, keep monitoring the political developments, and deal with buds of crisis calmly.


最後に
それでも歴史を振り返ると、危機の芽を早めに摘んでよけば良かったと言うことは多い。

多数の危機のいずれかが限界に近づき、何かを切っ掛けにして危機が突然表面化することになります。
そして人々は、冷静さを失い舵を大きく逆方向に切り過ぎることがあります。
これが往々にして最悪の事態を招いて来た。

帝国主義時代の後に起こった、ドイツや日本のファシズムなどがその典型です。

重要なことは、国民が社会問題や歴史について理解を深め、日頃から政治を監視し、冷静に対処し続けることです。






Sunday, October 23, 2016

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 4: モスクワ 3

 

< 1.マネージ広場の電飾 >


今日は、モスクワの赤の広場を紹介します。




 
< 2. クレムリンと赤の広場の地図、地図の上が南 >

前回に続いてアレクサンドロスキー庭園を出た番号5以降を紹介します。
赤線はグム百貨店の自由散策と夕食のレストランEへの道筋です。




 

< 3. マネージ広場 >
2枚の写真は地図の番号5から写した。
時刻は18:20頃です。

上の写真: 国立歴史博物館。
この後ろが赤の広場です。

下の写真: 国立歴史博物館の前から見たマネージ広場。
たくさんの屋台が出ていた。




 

< 4.いよいよ赤の広場へ 

上の写真: ヴァスクレセンスキー門。
手前に小さな礼拝堂があり、門を抜けると赤の広場です。

下の写真: 赤の広場に入って最初に出会うのが左側のカザンの聖母聖堂です。
この教会は1612年のポーランド軍の侵攻を防いだことを記念して建設された。
しかし、この聖堂もヴァスクレセンスキー門も共に、スターリンによって破壊されたが、1990年代に再建された。



 

< 5.赤の広場 

上の写真: 左がグム百貨店、中央はワシリー寺院、右がクレムリンです。
クレムリンの城壁でライトアップされている塔はスパスカヤ塔で、その手前にレーニン廟がある。

ワシリー寺院はモンゴルとの戦勝を記念してイワン雷帝によって1560年に建てられた。

中央の写真: ワシリー寺院と対峙するように国立歴史博物館がある。

下の写真: レーニン廟。
その左手に並ぶ像の内の一つがスタ-リンの墓です。
スターリンは初めレーニンと並んで安置されたが、1961年、スターリン批判の折に現在の場所に移された。
レーニン廟のひな壇は赤の広場で国家的行事が行われる際、首脳が観閲し演説する場所です。



 

< 6. グム百貨店 

広い石畳の広場に電飾で光輝き、夕闇に浮かび上がる堂々としたグム百貨店は感動ものでした。



 

< 7.グム百貨店の内部 1 

百貨店は三階建てで、中は三つのアーケードが並び巨大です。
全体にゆったりとしており、清潔で落ち着いた店が並んでいます。
ブランド店、土産物店、食品店などがあります。


 

< 8.グム百貨店の内部 2 

様々な店があり商品は豊富ですが、価格は高めです。
飲食出来る店は少ないようです。


 

< 9. グム百貨店の内部 3 

私はマンウオッチングをしていました。

訪問したのは水曜日の夜7時頃なので、観光客もいたが、近所の人や通勤帰りの買い物客が多かったようです。
結構、モスクワの人はスタイリッシュでスマートでした。
下の写真のような服装の人達はむしろ珍しい。

西欧と比べて、百貨店内では観光客を除いて黒人やアジア系、中東系の人をほとんど見なかった。
少ない観光客で、多かったのは東アジア、それも中国系(大陸か台湾)でした。
後に困惑することになるのですが。





< 10. 二コリスカヤ通り 

この通りは、地図の番号9です。

上の写真: クレムリンを振り返ったところ。
左がグム百貨店、右がカザンの聖母聖堂です。

下の写真: 上の写真と反対側を見ている。
ここをまっすぐ行くと旧KGB本部ビルがある。


感想
当初想像したいた以上に豊かな生活がそこにはありました。
ソ連崩壊後、テレビで見た品不足で並ぶ市民の姿は嘘のようです。
プーチン大統領になって、生活は良くなっているのでしょう。

訪問前、私はロシアのスラブ人男性は巨体で屈強なイメージを抱いていましたが、そのような人も見かけますが、全体としてはそうではなかった。


次回に続きます。




Saturday, October 22, 2016

Bring peace to the Middle East! 39: chain of retaliation 7 : the Middle East war



中東に平和を! 39: 報復の連鎖 7 : 中東戦争




<  1.  Palestinian refugees in Syria in 1848 >
< 1.シリアのパレスチナ難民、1848年 >

A background of the intifada in the previous description was Palestinian complaint that was due to that their territory had been reduced and ruled over by little and little.
I look back on the four Middle East wars that determined adverse circumstances of Palestine today.

前回紹介のインティファーダ(民衆蜂起)の背景に領土をなし崩しに減らされ、支配されていくパレスチナの不満がありました。
今日は、パレスチナの逆境を決定づけた4回の中東戦争を振り返ります。




<  1.  The Middle East war >
< 2. 中東戦争 >

A: The Israel forces of the first Middle East war.
B: The Egyptian forces of the second Middle East war.
C: The Israeli air forces of the third Middle East war.
D: The Syrian forces of the fourth Middle East war.

A: 第1次中東戦争のイスラエル軍。
B: 第2次中東戦争のエジプト軍。
C: 第3次中東戦争のイスラエル空軍。
D: 第4次中東戦争のシリア軍。


Summary of the Middle East war
*the first Middle East war, from May, 1948 to March, 1949.
After the British Mandate of Palestine, the Jew declared Nation-building of Israel, but the Arabic countries went to war against them.
The military forces of the Arabic countries was defeated, and they ceased fire by the good offices of the United Nations, but many Palestinians (Arab) became refugees and were robbed of their land.

*the second Middle East war, from October, 1956 to March, 1957.
After the Egyptian Revolution overturned an imperial rule, President Nasser declared the nationalization of the Suez Canal.
The U.K. was indignant at this, and confederated with France and Israel.
Then, Israel first invaded and attacked on Sinai Peninsula, and subsequently Britain and France attacked Egypt.
However, the United States announced the immediate withdrawal against this, and led the cease-fire through the United Nations.
By this, Egypt obtained the Suez Canal, and Nasser that alone fought with the three countries was praised as the leader of Arab.

*the third Middle East war, from 5 to 10 on June, 1967.
The military collisions of Palestine guerrilla and Israel occurred in a row, and tension had escalated in the region.
When Nasser heard that an offensive of Israel would be performed soon, he blockaded a
strait and put Egyptian forces on alert.
And Israel forces started the attack, and Egypt and the Arabic countries defended, but lost big.
By this, Gaza, Sinai Peninsula, Golan Heights of Syria , the West Bank were occupied, and Palestinian refugees increased more.


中東戦争のあらまし
*第1次中東戦争、1948年5月~1949年3月。
英国の委任統治終了後、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言したが、アラブ諸国はこれに反対し開戦した。
アラブ軍は破れ国連の仲介で停戦したが、多くのパレスチナ人(アラブ人)が難民となりその土地は奪われた。

*第2次中東戦争、1956年10月~1957年3月。
王政転覆を果たしたエジプト革命の後、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言した。
これに憤慨した英国はフランス、イスラエルと共謀し、先ずイスラエルがシナイ半島に侵攻し、次いで英仏がエジプトを攻撃した。
ところが米国はこれに反対し、国連で即時撤退を主導して停戦となった。
これによりエジプトはスエズを手に入れ、単独で3カ国と戦ったナセルはアラブから盟主と称えられた。

*第3次中東戦争、1967年6月5日~10日。
イスラエルとパレスチナ・ゲリラの武力衝突が続発し緊張が高まっていた。
イスラエルの攻勢が近いと知らされたナセルは海峡封鎖を行い警戒態勢を敷いた。
そして、イスラエルは攻撃を開始し、エジプトとアラブ諸国は防戦したが大敗した。
こうしてガザ,シナイ半島,シリアのゴラン高原,ヨルダン川西岸地区は占領され、パレスチナ難民はさらに増加した。




<  3.  The result of the third Middle East war >
< 3. 第3次中東戦争の結果 >


*the fourth Middle East war, from 6 to 24 on October, 1973.
This time, Egypt (President Sadat) in partnership with Syria made a surprise attack on Israel from both sides.
At the beginning of the war, Egypt and Syria was ascendant, but the Israel forces recovered in the latter half and ceased fire with advantage.
Arabic oil-producing countries united and decided that they perform an oil embargo until Israel withdraws, for applying pressure on the Israel support countries (the first oil crisis).

In 1979, Egypt-Israel peace treaty was concluded, and Sinai Peninsula was returned to Egypt.
After this, the full-scale war with Israel and the Arabic countries became a thing of the past.


*第4次中東戦争、1973年10月6日~24日。
今度はエジプト(サダト大統領)がシリアと組み、両方からイスラエルに奇襲攻撃を行った。
緒戦はエジプト側らが優勢であったが、イスラエル軍は後半立ち直り有利のうちに停戦した。
この間、アラブ産油国は結束しイスラエルが撤退するまで石油禁輸を行うことを決定し、イスラエル支援国に揺さ振りをかけた(第一次石油危機)。

1979年、エジプト・イスラエル平和条約が締結され、シナイ半島がエジプトに返還された。
この後、イスラエルとアラブ諸国との本格的な戦争は無くなった。




<  4.  A change of Israeli territory >
< 4. イスラエルの領土の推移 >

A red frame shows a change between the partition plan of the United Nations and after the third Middle East war.

赤枠が国連の分割案と第3次中東戦争の後の変化を示します。


What did the Middle East war bring?
The Arabic countries began this war, but they repeated defeat, and left out of the war last.
When it is over, Israel increased territories, Palestinian was shut in Gaza and the West Bank, their freedom was robbed, and colonization was strengthened afterwards.

In 1947, before the outbreak of the war, there were Jew 630,000 and Palestinian 1,310,000 in area of British Mandate of Palestine.
But in 1973 of the end of the war, it became Jew 630,000 and Palestinian 1,310,000 in reverse.
And the Jewish territory became 78% of the whole area.
Meanwhile, more than 700000 Palestinians lost houses, and now the refugees that became a total of 5,600,000 are forced to live hand-to-mouth in the autonomous areas of the Palestinians and neighbor countries.
Due to Israeli invasion in Lebanon in addition to it, the Palestinian government (PLO) weakened, and the radicals became widespread.


中東戦争は何をもたらしたのか
アラブ諸国がこの戦争を始めたが、敗戦を繰り返し、最後にアラブは手を引いた。
終わって見るとイスラエルは領土を増やし、パレスチナ人はガザとヨルダン川西岸に閉じ込められ自由を奪われ、その後、植民が強化されていくことになる。

開戦前の1947年、ユダヤ人63万人、パレスチナ人131万人だったが、終戦の1973年にはそれぞれ285万人、49万人に逆転した。
そしてユダヤ人の領土は、全体の78%になっていた。
その間、70万人以上のパレスチナ人が家を失い、現在総数560万人の難民がパレスチナ自治区と周辺国で耐乏生活を続けている。
その後のイスラエルのレバノン侵攻もあり、パレスチナ政府(PLO)は弱体化し、過激派が横行することにもなった。


What made the difference between winning and losing?
At the time of the outbreak of the first Middle East war, the Arabic side was superior as the size of the forces, but, they were just a jumble of militias.
On the other hand, Israel was desperate and bought many weapons abroad while a truces performed by the United Nations.
And they unified chains of command and was able to counterattack.

The armaments of Israel were clearly superior to the Arabic side after the second Middle East war.
This is due to economic force of Israel and Jews around the world.
But that's not all, Israel thoroughly had been supported by Britain and France that had an interest in the Middle East, and the United States during the Cold War.
There may not have been present Israel even though the weapon supply of the U.S. is  delayed for a couple of days.
The Soviet Union also supported Egypt and other Arabic countries, but there was a limit, and the Arabic countries were impoverished economically.

After the fourth Middle East war, the Arabic countries have opposed to each other, and it was triggered by the Iranian Revolution, petroleum, and some wars caused by the United States.
And they became to avoid the Palestine refugees than helping them.


何が勝敗を分けたのか
第1次中東戦争の開戦時、アラブ側は優勢であったが諸隊の寄せ集めに過ぎなかった。
一方、イスラエルは必死であり、国連仲介による休戦の間に海外で兵器調達を行い、指揮系統を統一し反撃することが出来た。

第2次中東戦争以降はイスラエルの軍事力はアラブ側より勝っていた。
これは自国と世界中のユダヤの経済力もあるが、中東の権益維持を図る英仏と冷戦中の米国が徹底的にイスラエルを支えたことにある。
もし米国の兵器支給が遅れるだけで、今のイスラエルは無かったかもしれない。
ソ連もエジプトやアラブ側を支援したが限度があり、アラブ諸国は経済的に疲弊していた。

第4次中東戦争以降、アラブはイラン革命や石油、米国絡みの戦争で敵対し、パレスチナを助けるよりも難民を避けるようになった。


Afterword
When I look at process of the Middle East war, I noticed Israel was very superior in the strategy, leadership and an intelligence-gathering operation.
I am amazed Jew, people without a country for 2000 years, established the nation-building at a dash.

However, on the other hand, I am surprised they are cold-blooded and use an insidious way.
I imagine the end of the North American Indian to Palestinian people.

This continues the next time.


あとがき
中東戦争の経緯を見ると、作戦指揮においてイスラエルが一枚も二枚も上手で諜報戦にも長けている。
よくぞ、亡国の民が一気に国を立ち上げ、ここまでになるとは驚きです。

しかし、その一方で、冷酷で狡猾な手口にも驚く。
私はパレスチナの民に北米インデアンの末路を想像してしまう。


次回に続きます。

Wednesday, October 19, 2016

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 3: モスクワ 2







< 1.トロイツカヤ塔からクレムリンを出る >


今日も、前回に続いてクレムリンを紹介します。
ロシアとクレムリンの歴史に簡単に触れます。



 

< 2. クレムリンと赤の広場の地図、地図の上が南 >

前回に続いて聖堂広場の裏手Sから、黄色の線に沿って徒歩観光した道順に従って紹介します
赤線はグム百貨店の自由散策と夕食のレストランEへの道筋です。
食事後、バスに乗ってホテルに行きました。

今回、紹介するのは番号1から4までです。



 

< 3.クレムリン内部 >

上の写真: 地図の番号1。
「鐘の皇帝」は18世紀前半に作れた世界最大の鐘だが、制作中に一部が欠けた。
右手奥に見えるのがスパスカヤ塔で、その向こうが赤の広場。
鐘の向こうの建物がロシア連邦大統領府。
しかしプーチン大統領はほとんどここにおらず、郊外の別の建物で執務をしている。

中央の写真: 「大砲の皇帝」。
16世紀後半に作られた当時世界最大の大砲で、口径が890mmある。
使用されたことはない。

下の写真: 地図の番号2から撮影。
中央にトロイツカヤ塔、右に兵器庫、左にクレムリン大会宮殿。
クレムリン大会宮殿は最も新しい建物で、1961年に完成した。
当初は、ソ連共産党大会などが行われていたが、今は国際会議場や劇場として使用されている。


 

< 4. クタフィヤ塔を出たところ >

上の写真: クタフィヤ塔を出ると広場があり、左手がロシア国立図書館、右手がモスクワ馬術学校。

下の写真: 右手がクレムリンの城壁外側に伸びるアレクサンドロスキー庭園で左手がモスクワ馬術学校
奥にこれから行くマネージ広場が見える。



 

< 5. クレムリン城壁周辺1 >

上の写真: 地図番号3。
兵器庫に接した塔の下に、「イタリアの洞窟」があり、右手に「ロマノフスキーのオベリスク」がある。
これらすべて、数度の戦いの破壊後に再建されたようです。

下の写真: 地図番号4の方を見ている。
城壁の角にある塔の手前に無名戦士の墓があり、その手前に英雄都市12の地名の石碑が並んでいる。

この城壁にそってアレクサンドロスキー庭園の上部(北側)が続いています。
庭園の木々は黄葉していたので、陽が差していればさぞかし綺麗だったのに、残念です。


 


< 6. クレムリン城壁周辺2、地図番号4 >

上の写真: これは12ある英雄都市の一つで、地名ケルチを示す。
下の地図の黒丸がケルチです。

中央の写真: 無名戦士の墓の灯火を二人の衛兵が守っている。
これは第二次世界大戦で死んだ無名戦士の墓です。

下の写真: 12の英雄都市の地図。
英雄都市とは、第二次世界大戦の独ソ戦(バルバロッサ)でドイツ軍の侵入に英雄的な戦いを行った都市に与えられた名誉称号です。


ケルチについて
ここは黒海北岸のクリミア半島の海峡に面した港湾都市で苦難の歴史を負っている。

ケルチは古代ギリシャ時代より交易路の交差点として栄え、後に東ローマ帝国に支配された。
紀元9世紀に興ったキエフ大公国がこの地を支配し、この国が後のウクライナやロシアの起源となった。
後にトルコとロシアの争奪の地となり、19世紀クリミア戦争で英国によって蹂躙された。
幾たびかの戦火を生き延びたが、第二次世界大戦の独ソ戦でロシア側は16万人以上の死者・捕虜を出し、戦後、英雄都市に指定された。

1991年、ケルチはソ連崩壊に伴い独立したウクライナに属した。
しかし、2014年のウクライナ騒乱により、クリミアは独立宣言を行い、プーチン大統領はロシアへの編入を表明した。
欧米諸国はこれをロシアの侵略として非難した。



 
< 7. クレムリン城壁周辺3、地図番号4と5の間 >

上の写真: アレクサンドロスキー庭園の門を出て振り返ると、トロイツカヤ塔がライトアップされており、夕闇が迫っていた。

下の写真: 城壁に沿って進むと赤の広場に至る。
中央の白と緑の塔はニコリスカヤ塔です。


ロシアの歴史
私達日本人にとって、ロシアは独裁的で侵略的な怖い国のイメージがあります。
そこで簡単に歴史を振り返ります。


 

< 8. ロシアの領土の推移 >

上の地図: キエフ大公国(882~1240年)。
ピンクがその領域。

中央の地図: モスクワ大公国(1390~1525年)。
緑がその領域。
二つの黒丸はモスクワとサンクトペテルブルグを示す。

下の地図: ロシアの領域拡大の推移。


ロシアの始まりは東スラブ人による9世紀後半に始まるキエフ大公国で、13世紀まで続きました。
この大公国は黒海からバルト海を結ぶように南北に伸びていました。
988年、東ローマ帝国からキリスト教を受け入れました。
この大公国の首都キエフは黒の矢印、重要な都市ノヴゴロドは白の矢印、先述のケルチは赤の矢印で示します。
キエフは現在のクライナの首都です。
二つの黄色の丸はモスクワとサンクトペテルブルグで、歴史に登場するのはまだ先になります。

13世紀末、モンゴルが大公国の南部を東方から侵略した。
最北部にあったノヴゴロド共和国はその支配を逃れたが、スウェーデンやドイツ騎士団の侵入に悩まされた。
やがて、その南部で接するモスクワ大公国が勢力を伸ばし、1472年イワン3世がモンゴルの支配を脱し統一を果たし、ロシア皇帝を始めて名乗った。
モスクワはカスピ海に至るヨーロッパ最長のボルガ川の水運の要衝であった。

このモスクワ大公国が周辺を併合しロシア帝国(1547~1917年)が誕生する。
1917年、第一次世界大戦中のロシア革命によって、ソ連が誕生した。
さらに1991年、ソ連崩壊により、他の共和国とロシア共和国が独立した。


クレムリンの歴史



 

< 9. クレムリンの歴史1 >

上の絵: 13世紀後半のモスクワが描かれている。
椅子に座っているのがモスクワ大公国の王だろう。

中央の絵: イワン3世の時代(1462~1505年)のクレムリン。

下の絵: イワン3世の時代の聖堂広場。
左下の人物はイワン3世で、アルハンゲルスキー聖堂の建設を監督しているようです。
前回紹介したアルハンゲルスキー聖堂の屋根の飾りと似ており、聖堂広場での配置も一致する。
この聖堂はイワン3世が命じて1505~1508年に建設された。


クレムリンは1475~1489年に掛けて、三つの教会・聖堂が最初に建築された。
続いて1485~1499年にクレムリンの20の塔が建設された。
壁の総延長は2kmを越える。
1712から1914年まで、首都がサンクトペテルブルグに遷ったので、クレムリンの増改築は停滞した。
この間の1812年、ナポレオンがモスクワを占領しクレムリンの一部が破壊された。



 

< 10. クレムリンの歴史2 >

ポーランド・モスクワ戦争(1605~1618年)はポーランド・リトアニアの軍が内戦に乗じてロシアに侵入した動乱時代と呼ばれる。
この絵は1612年、国民軍がモスクワのクレムリンを奪還し、ポーランド人を追い出している様子を描いている。
この絵は私達が歩いたトロイツカヤ塔と陸橋を描いているのだろう。
その奥に聖堂広場の教会群が見える。
この翌年より、ロマノフ王朝が始まった。




 

< 11. クレムリンの歴史 >

上の写真: 1820年当時のクレムリン宮殿。
現在はこの後地に大クレムリン宮殿が立っている。

中央の写真: 1908年当時のクレムリン。

下の写真: この絵の建物を壊して1961年に現在のクレムリン大会宮殿が建った。

中央のトロイツカヤ塔の先端にロシア帝国の国章「双頭の鷲」が乗っている。
この国章は東ローマ帝国との姻戚関係によって受け継いだ。
現在の塔の先端には赤い星が乗っている。

共産主義国家の創建者、レーニンとスターリンは共にクレムリンに住んだ。
しかしレーニンは大きな宮殿の片隅で慎ましく暮らしたが、スターリンは他をクレムリンから追い出したそうです。


次回は赤の広場の夜景やグム百貨店を紹介します。