Monday, November 30, 2015

社会と情報 68: 戦った報道 25




< 1. 現在も繰り返されるファシズム >

前回、軍人が暴走する様子を見ました。
今回は最も重要な「日本はなぜファシズム化したのか?」を検討します。

はじめに
ファシズムを広辞苑より引用します。
「全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」

ファシズム化の三段階を想定します。
A: 人々は社会と政治に絶望していた。
B: 人々は対外的なものに不安を感じ、かつ対外的なものにこそ活路があると信じ始めていた。
C: 人々は、この絶望と不安を解消し、一気に解決してくれるカリスマ的指導者を待望した。

これを同時期のドイツと比べてみます。



    

A: 絶望。
長く続いた元勲や軍閥の政治から政党政治に変わっても政治状況は良くならなかった。
人々が期待した政党政治(2、3党)も金権腐敗(賄賂、癒着、利権)と罵り合いに明け暮れるだけで、社会と経済は良くならなかった(既に見ました)。
1921年から1931年までは日本初の政党政治の開花時期だったが、未成熟なところに運悪く最悪の経済状況が圧し掛かり、うまく対応出来なかったことで混乱に陥った。
1920年代に連続した災厄や恐慌の半分は政府に起因したものではなかった。
また日本は集約農業から一気に重化学工業(資本主義経済、都市化)への転換と巨大な軍事費に喘いでいたので無理からぬものがあった。
私が注視するのは、累進性の無い苛税と貧弱な社会資本投資の為に農民が困窮し続けて、貧富の差が目立ち、やがて蓄積された不満のエネルギーが爆発したことです。

この状況はドイツの方がひどかった。


B: 対外的なものに抱く不安と活路。
明治維新以来、帝国列強の侵略と、1910年代以降、海外で吹き荒れた共産主義革命への恐れがあった。注釈1.
急激な都市部の発展に連れて盛んになる労働運動(一部過激なテロまで進む)、それを煽る反権力の新聞は政府や軍部にとって邪魔ものでしかなかった。
政府は体制批判に繋がるすべての社会運動と言論の封じ込めを強化していった。
一方、裏で左翼を嫌う右翼(国粋主義者)の利用と容認も進んだ。
こうして議会は国民が待望した普通選挙法を1925年(28年実施)に成立させる一方、同年に治安維持法を成立させた。
この言論弾圧の体制は徐々に進行していて、この治安維持法の前身となる法は議会で一度廃案になっていたが、緊急勅令(23年、天皇許可)で成立していた。
かつて憲政の父、尾崎行雄が、桂首相を罵倒した時も「・・玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の意思)をもって弾丸に代えて、・・」と指摘したように、天皇の口添えは幾度も繰り返されて来たことでした。
こうして国民は望むはずもない首輪を自らの首にかけることになった。

これにより政府転覆(左翼革命)への恐怖を取り除いたかに見えた。
これを望むのは、概ね体制を維持することで権益を守り発展させることが出来る人々です。ドイツなどでは中間層(保守層)がファシズムを支えたことがわかっています。
当然、このような形で社会への抑圧が進む時、二つのことが起きた。
一つは、底辺の人々の訴えと生活が無視されていくことになった(貧富の差拡大)。
不思議な事に、ファシズムのスローガンとは逆の事が起きて行きます(ドイツも同じで本質的)。
今、一つは敵対者を暴力で排除する社会になったことです。



 
    


一方で、1910年までに日清・日露戦争と朝鮮併合を終え、日本国民は植民地での抗日闘争の激化もあり、異民族への嫌悪を深めていた。
政府は植民地での都合の悪い事実を隠蔽・捏造し、さらに武力による制圧を繰り返す内に益々、両国において憎悪と蔑視が深まることになった。

軍部の考えは世界一を決する日米対立が最大の焦点であり、ソ連の恐怖は二の次とした。注釈2.
ソ連との決戦は満州に出ることにより必然となるが、当時ソ連は革命中で、外征は眼中になかった。
さらに政府は、平和ボケした米国が日本を相手に戦う気は無いと楽観していた。
中国については、相手にもしていなかった。
予測はすべて見事に外れるのだが。
当然、これら情報は必要に応じて針小棒大に喧伝された。

こうして、希望の実現の為に暴力で不安と恐怖を排除する合意が出来上がりファシズム化が始まりました。
人々は、一致団結して海外の不埒な民族を武力で制圧することで、国民は新たな天地を得て絶望から脱せると信じ始めた。
当時、五族共和とか大東亜共栄圏と謳われ、多くの人々が願いまた信じたが、結果は一方的な武力制圧に終始したので侵略に他ならなかった。

この経緯はドイツと日本では多少異なるのですが、暴力と外征に向かう状況は一緒でした。


 
    

C: 立ち上がった軍人達がいた。
ここから日本とドイツのファシズムに大きな違いが出て来ます。
この前段階の「絶望」「対外的な不安と活路」は基本的に同じと言えます。

ドイツと異なるのは、右翼勢力(ナチス)を率いる独裁者(ヒトラー)が日本には存在せず、多数の軍人(文民政治家も)が入れ替わり立ち替わり戦争拡大を担ったことです。
言い方を変えれば、「皆で渡ろう・・・」(集団無責任体制?)に似ている。

ヒトラーは絶望する民衆に「かつての大帝国の復活(領土を取り戻す)、ユダヤ人排斥、反共産主義」を訴えることで国民の絶大なる信認を得た。
日本も「大帝国を築く(満州からアジア全域)、他民族の上に立つ(五族共和)、反共産主義」と、基本的なスローガンは一緒でした。
ドイツでは社会主義革命以降、既に国軍(幹部は貴族出身)が政権を握っていたが、初めヒトラーを信用しておらずファシズムとまでは言えなかった。
ヒトラーは初めこそ労働者の不満を利用したが、政府転覆の為に資本家と国軍トップに擦り寄り、ナチス独裁を成し得た。

日本では長らく軍事大国への道を突き進み、成功体験もあり、さらに未発達な民主主義の下、クーデターの混乱に乗じ軍閥が再度政権をより完璧に掌握することが出来た。
国民の一致団結に必要なカリスマ的指導者に、ここでも天皇が祭り上げられた。
こうして、この象徴の下に一丸となって進むことが出来た。

この軍閥を中堅将校が暴走し牽引する形で、容易に戦争を拡大させ、ここにファシズム体制が完成した。
日本では、右翼の存在は左翼潰しと言論封じ込めに利用され、混乱を招いて軍閥政治移管に利用されただけに見える(ドイツに比べて)。

次回で最終話になります。

注釈1: 今回のテーマでは一貫して海外列強の脅威を大きく扱っていません。
これは重要なのですが、話が複雑になることもあり割愛しました。
それに変わるとも劣らない大事なことがあります。
日本が日清戦争から太平洋戦争へに至る過程で、敵国が初めから立ちはだかっただけでなく、日本の侵略行為が相手の敵愾心を増大させたことです。
例えば太平洋戦争中盤(1943年)になると、米国は日本の北方領土割譲を餌にソ連の参戦を促しました。
このように自国の軍事行動が戦争拡大を招くる過程はあらゆる戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、イラク戦争などで見られます。
もう一つは、戦争が敵国の存在云々よりも自国の内部要因により起こることが多々あります。
その典型がドイツのファシズムです。
したがって国内状況の分析が非常に重要なのです。


注釈2: 1920年代以降の帝国国防方針、石原莞爾の「我が国防方針」、陸軍幕僚による木曜会の満蒙領有論から推察した。






Sunday, November 29, 2015

社会と情報 67: 戦った報道 24


  
< 1. 2・26事件 >

今回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。
いままで日本の軍事大国化と経済の問題、さらに中国の状況を見ました。
社会状況は悪化していましたが、もし軍部や右翼の暴走が無ければ戦争へと進まなかったかもしれません。
なぜ暴走が頻発するようになったかを考察します。

何が問題か?
要点は二つある。
一部の軍人の暴走が次々と戦争を拡大させた。
暴力が常態化する社会になっていた。

日本の政治の何処にこの原因があったのか?
前者は主に軍人組織の問題で、後者は一般的なファシズム化(全体主義、国粋主義)を指します。





< 2. 2・26事件の報道 >


なぜ軍人は暴走したのか?
ここで、国内で起きた主な暗殺事件を振り返り、暴力が蔓延していた状況を見ます。
暗殺は以前もありましたが、第一次世界大戦後の戦後恐慌あたりから急速に増加しました。

1919年の財閥の長に始まり、21年に首相、29年に体制批判の議員、31年に首相、32年の血盟団事件で大蔵大臣と財閥の長、五・一五事件で首相が暗殺された。
34年に体制批判の新聞編集者、35年に陸軍軍務局長(内部抗争で)、36年の二・二六事件で首相と侍従長、元内大臣が狙われ、大蔵大臣、内大臣、陸軍高官(内部抗争で)が暗殺された。
暗殺の標的は、政治・経済政策への不満による内閣の責任者、天皇の御心を妨げたとして天皇側近、体制批判者や財閥関係者、それに陸軍内部の抗争相手だった(注釈1)。

これら暗殺は最初右翼(国粋主義者)の単独犯で始まり、後に集団化し、軍人によるクーデターとなった。
ここで特徴的なのは、彼らは革命政権の具体像を持ってクーデターを起こしたのではなく、憎い者を誅殺し、後は天皇に任せようとしたことでした。
結局、軍の不平を抑える為に軍部に頼らざるを得ず、日本は軍閥時代へと一気に突入し、1937年の日中戦争へと進む。




< 3. 満州事変 >

張作霖爆殺事件や柳条湖事件(満州事件の端緒)では少数の軍人が勝手に戦闘を開始し、後に軍中央が渋々戦闘続行を追認し、戦争は拡大して行きました。
他に、国内で起きた一大尉による市民虐殺の甘粕事件、一司令官が軍中央の方針を無視して上海事変から南京(虐殺事件)へと戦域を拡大したことなど、当時、将校の規律や命令違反は慢性化し戦争拡大の一端となっていた。
ところが不思議なことに、この類の張本人はほぼ罰せられることがなく、長期の禁固刑が確定しても、数年もすればこっそり釈放された。
むしろ、その意気(愛国心)と能力を買われてか、大陸で出世する人も多かった。
一方で、公になった右翼の暗殺者は極刑となった。

こんなことがまかり通れば、勝手に撤退する将校はいないから、戦争が拡大するのは当然でした。
これこそ勇気がいるのだが、無謀なインパール作戦では数少ない例外、一部隊による命令違反の撤退があった。

日中戦争が始まる頃、関東軍参謀の武藤が中央の意向を無視して戦争拡大を画策していたため石原莞爾が止めに出向いた。
しかし、当人は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論して、石原は絶句せざるを得なかった。
結果はご承知の通りです。

こんな馬鹿げた事がなぜまかり通っていたのか?
軍部内では、彼らが「憂国の士」であるとして咎めるべきではないとの意見が強く、軍は身内が可愛く、甘かったと言うことらしい(世界共通とも言えるが、これは酷い)。
当時、この軍部の幼稚な判断に誰も逆らうことが出来なくなっていた。

一つは、社会全体がファシズム化し軍部独裁が進んだからとも言えるが、軍事は天皇の大権(統帥権)に関わるとして、他からは口出し出来なかったことも大きい。
もう一つは、日本の組織文化に起因している。
これは個人の行動規範が、社会が共有する正義(法の理念)に基づくのはなく、属している組織の意向に沿う形で決まることによる。
このことは戦場でも現代の企業でも、様々に社会の適応を阻害する要因になっている。
もちろん良い面もあります。
これは村意識とも呼ばれ、ダブルスタンダードや本音と立前を生む。

次回、ファシズム化を検討します。

注釈1: 二・二六事件で殺害された政府高官(内閣)に軍人が多かったのは、当時軍閥政治が始まっていたからで、要職を軍人が占めていたからです。
内部抗争とは陸軍内で、天皇による急進的な革命を望む皇道派と陸軍大臣による政治的な改造を企図した統制派の対立です。
結局、二・二六事件を起こした皇道派を処分する形で、統制派が軍閥政治の中心となった。




Saturday, November 28, 2015

Went around Croatia and Slovenia 13:  Seafaring country Dubrovnik 3


クロアチア・スロベニアを巡って 13: 海洋都市ドゥブロブニク 3




< 1.  A view of Saint Blaise church from Luža Square >
< 1.ルジャ広場から聖ヴラホ教会を望む >

Today, I introduce the inside of Dubrovnik.
This is a small fort city, but I seem to have slipped back in the Middle Ages.

今日は、いよいよ内部を紹介します。
小さな城砦都市ですが、すっかり中世にタイムスリップしたようです。




< 2.  Our sightseeing route >
< 2.私達の観光ルート >
Legend:
A yellow line shows our walking route of the rampart.
Blue lines are sightseeing routes that I introduce this time, and these alphabets indicate approximate photography point.

凡例:
黄色線は城壁の散策ルートです。
青線は今回紹介する散策ルートで、アルファベットは写真の撮影地点を示しています。



< 3.  The inner side of Pila Gate 1 >
< 3.ピレ門を抜けた所1 >

The front side is Placa street of the main street.
Once, this street was a strait, and the Slav lived in left side of it and the Latin lived in the right side.
But it was filled in the 12th century.
The right side is seen Big Onofrio’s fountain.
A church and a tower of Franciscan monastery line up on the left side from the near side.

正面はメイン通りのプラツァ通りです。
昔、ここは海峡で左(山)にスラブ人、右(海)にラテン人が住んでいたが、12世紀に埋め立てられた。
右手にオノフリオの大噴水が見える。
左手に救世主教会とフランシスコ修道院の鐘楼が見える。



< 4.  The inner side of Pila Gate 2 >
< 4.ピレ門を抜けた所2 >

B:  Chrach. Height rampart was seen in the left.
C:  Big Onofrio’s fountain.
Water was valuable in this Dalmatian area, therefore water was higher than wine.
Thus, this water supply installation was built by irrigating from a back mountain being 12 km away from in the 15th century.

B: 救世主教会。左に高い城壁が見える。
C: オノフリオの大噴水。
このダルマチア地方一帯は水が貴重で、ワインよりも高かった。
そこで15世紀に12km離れた山側から水を引きこの水道施設を造った。



< 5. Franciscan monastery >
< 5.フランシスコ会修道院 >
D:  The courtyard side of the corridor. This corridor is Romanesque of the 14th century.
E:  The wall side of the corridor.  The frescoes show a life of St. Francesco.
F:  The courtyard.
Toward this corridor, there is a pharmacy that followed for 700 years, and we visited it.
This is the third oldest in existing pharmacy in Europe, and it indicates Dubrovnik was so advanced city of the welfare.

D: 回廊の中庭側。この回廊は14世紀のロマネスク様式です。
E: 回廊の壁側。壁画は聖フランチェスコの生涯が描かれている。
F: 中庭。
この回廊に面して、700年も続く薬局があり、見学しました。
現存するヨーロッパで三番目に古い薬局であり、如何にドゥブロブニクが福祉の先進都市だったかがわかる。





< 6.  Placa street >
< 6. プラツァ通り >
G:  A bell tower of Luža Square is in the east direction.
H:  A tower of Franciscan monastery is in the west direction.

G: 東方向にルジャ広場の鐘楼を望む。
H: 西方向にフランシスコ会修道院の鐘楼を望む。



< 7.  Luža Square 1 >
< 7.ルジャ広場 1 >
I:  The bell tower.
If go through a gate at the left of the tower, we can go to the old port.

J:  Palaca Sponza.
This was built as a customs house in the 16th century, and valuable documents have been kept since the twelfth century in here.

I: 鐘楼。
鐘楼の左にある門を抜けると旧港に出ます。

J: スポンザ宮殿。
ここは16世紀に建てられた税関で、12世紀からの貴重な文書が保管されている。
著名な歴史家ブローデルはここの資料にヒントを得て「地中海」を書いたと言われている。



< 8.  Luža Square 2 >
< 8.ルジャ広場 2 >
K:  Roland statue and Saint Blaise church.
A knight statue in the center is Roland statue that symbolizes freedom and independence of European city.
The length between the elbow of the right arm and the wrist was the standard of the length of the commercial transaction.
The church to enshrine the saint in the front was damaged by a major earthquake in 1667, and a fire at later, and was rebuilt in the baroque in the 18th century.
An earthquake often hit this place, and the dead of this big earthquake was more than 5000 people.
Many buildings were rebuilt, but the rampart had only suffered slight damage.

L:  I overlook Placa street in the west direction.


K: ローラント像と聖ヴラホ教会。
中央の騎士像が、ヨーロッパ都市の自由と独立を象徴するローラント像です。
右腕の肘から手首の長さが、商取引の長さの基準とされていた。
正面の聖人ブラホを祭る教会は1667年の大地震と火災で損傷し、18世紀にバロック様式で再建された。
この地は度々、地震に見舞われ、この大地震で5000名以上が死亡した。
多くの建物は再建されたが、城壁はわずかな被害にとどまった。

L: 西方向にプラツァ通りを望む。



< 9.  Dubrovnik Cathedral >
< 9.大聖堂 >
N:  The outward appearance.
O of the right side:  The inside.
A picture in the middle is " Assumption of Virgin Mary " of a great master Titian in the golden age of Renaissance.
He is a representative painter of the Venetian School, and there are a lot of pictures in the Prado Museum of Art in Madrid.
El Greco of Toledo learned painting in his youth in Venice.
This Cathedral was Romanesque first, but, after the big earthquake, was rebuilt in the baroque.


N: 外観。
右側O: 内部。
中央の絵は盛期ルネサンスの巨匠ティツィアーノの「聖母被昇天」です。
彼はベネチア派の代表的画家で、スペインのプラド美術館にもたくさん絵があります。
トレドのグレコは若い頃、ベネチアで絵を学んでいました。
この大聖堂は最初ロマネスク様式であったが、大地震後、バロック様式で再建された。



< 10.  in the front of the Cathedral >
< 10.大聖堂の前から >
P:  I overlook Luža Square from the front of the Cathedral. 
Q:  Knezev dvor.
Governor-general lived in this residence, and was the center of the politics of the Republic of Ragusa that Dubrovnik was central of.

P: 大聖堂前からルジャ広場を望
む。
Q: 旧総督邸。
ここは総督が住んだ邸宅で、ドゥブロブニクを中心とするラグーサ共和国の行政府が置かれ、政治の中枢だった。

There were many tourists in here, and groups of tourists of Chinese and Korean were seen, too.
This is an indispensable port of Adriatic Sea cruises.

This continues next time.


ここは、さすがに観光客が多く、中国系や韓国の団体客もいました。
ここはアドリア海クルーズの無くてはならない寄港地です。


次回に続きます。











Friday, November 27, 2015

社会と情報 66: 戦った報道 23



    

前回、ファシズムを牽引した右翼と軍人の言説を見ました。
今回は、政府首脳が当初から抱いていた大陸感と中国の状況を見ます。




< 2.桂太郎(左)と大隈重信 >


外征は初めから首脳たちの念頭にあった  
前回見た石原や軍の中堅将校が、なぜ焦ってまで満蒙に火を着けたのだろうか?
その淵源は明治維新の攘夷論まで遡ることも出来るだろうが、ある時期から政府首脳の言説に明確に現れ始めた。

日清戦争後の1896年、桂太郎台湾総督(長州閥、陸軍軍人、後に首相)の提出した「台湾統治意見書」より。
「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国内部に日本の利益権を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」

日露戦争後の1906年、政界で活躍していた大隈重信(後に首相)の雑誌の特集「戦後経営」への寄稿より。
「日本国民は、これからは航海業、商業、移民業を拡張していかなければならない。商業的に発展していく地域は、東亜から・・南北アメリカである。移民を待ち受けている地域は、人口希薄な南北アメリカ、・・・、満州である。・・日本は戦勝の結果として得た満州における利益を基礎として、大陸に向かって経済的に発展していくべきである」

二つの戦争を勝利してロシアへの脅威が薄れ、また多大な犠牲を払ったことも加わり、首脳達は台湾や満州を手始めに拡大策を公然と訴えるようになっていた。

しかしこれは大きな危険を孕んでいた。
大陸侵攻が拡大すれば、中国やソ連、さらには欧米列強を次々と敵に回すことになる。
そうなれば日本の国力では太刀打ち出来ないことは国防戦略の立案者には明らかだった。
一方で、最強の複数国と戦うにはアジアの資源と商圏も絶対必要だった。
そこで軍の戦略立案者はある制約条件「最大の敵は攻めてこない」と「敵一国だけとの短期決戦」を設けざるを得ず、他は想定外とした。
さらにまずい事に薩長閥以来の遺恨が続く陸軍と海軍で敵国(ソ連か米)の想定が異なった。
こうして軍首脳は現実に目をつむり、勝ちたいとの思いだけで、一貫した戦略なしで右往左往しながら、沼るみに足を取られるように深入りしていった(注釈1)。

私が奇異に思うのは、勝つ可能性がゼロに等しく、莫大な消耗をもたらす敗戦に向かっているのに、最高のエリート集団の作戦本部や軍令部から誰一人として疑問の声が上がらなかったことです。
少なくとも国民には国益の為と公言してはばからなかったのですから。
始まった戦争のブレーキ役を軍人に期待出来ないのかもしれないが、これは異常です。
これは今も続く実に日本らしい精神の原風景で原発産業にも見られる組織文化です。





< 3. 中国の勢力図 >
解説: 上の地図は日露戦争後の中国、下の地図は1910年代の中国の勢力図。
この勢力の変化は、第一次世界大戦と世界恐慌、民族独立運動によって起こったと言える。
 
当時、中国北部(満蒙)は狙い目だった
軍部はなぜ満蒙を真っ先に狙ったのか?
満州事変が始まる前、1930年前後の世界と中国の状況を確認します。

第一次世界大戦と世界恐慌が尾を引き、欧州は国内政策で手一杯、ドイツではヒトラーの大躍進で暗雲が立ち込め始め、欧州勢はあれほど奪い合った中国から手を引いていた。
そこで欧州は日本の満蒙侵略を国連で批難はするが、躍進する共産国家ソ連を東方に釘付けする役割を日本に期待した。
ソ連はまだ革命の混乱が続き、スターリンが体制固めに奔走している時期であり、外には目が向いていなかった。
一方、米国は深刻な経済不況で貿易額を往時の30%に落とし、平和志向に戻り日本との貿易継続を重視した。

日本は日露戦争で南満州鉄道を租借した後、満州の軍閥に肩入れし傀儡政権樹立によって世界の批判をかわしながら権益を拡大して来た。
第一次世界大戦以降、青島(山東省、上地図の青塗り部)を手に入れ、対華21カ条要求により中国全土にも権益(商圏)を拡大していた。

中国は、1911年の孫文による辛亥革命以降、内戦状態に突入にしていた。
北部(満州)では軍閥が割拠し続けていたが、やがて中央で共産党軍と覇権を争っていた国民党軍が北伐を1926年に開始し、北部の軍閥は日本の手から離れようとした。
そこで関東軍は1928年、傀儡軍閥の張作霖を爆殺した。
こうして、満州事変へと繋がっていった。


まとめ
軍の中堅将校の思想で一番重要なのは以下の点です。

最強の国になることが国を災厄から守ることであり、その為に隣国の莫大な資源と商圏を領有し、自給圏と軍需産業を早急に育成しなければならない。
それは同時に国民の窮状を救うことにもなる。
その為に、少ない損害で勝利を確実にする奇襲や謀略による侵攻を当然と考えた。
この考えは、太平洋戦争にも持ち込まれ、これが逆効果になるとは露ほども考えなかったようです。
彼らは欧米や中国の干渉と反感を抑える為に満州に傀儡政権を立て、国内の反戦気運を削ぐために国民には虚偽報道で戦意を煽ることも忘れなかった。

ここに長年の軍事大国化が生んだ弊害を見ることが出来る。
戦争を牽引し、反乱事件を操った当時の陸軍将校はすべて陸大のエリートでした。
満州で謀略を行った板垣、河本、石原らはいずれも1980年代生まれで、日清戦争から日露戦争の間に14歳前後で陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業している。
首相となった東条英機も彼らと同様でしたが、彼の父は軍人(陸軍中将)で、彼は軍人2世でした。
彼らは、小さい時から軍人だけの隔離された学校社会で、また戦争の世界で出世を夢見て来た人々でした。
そう単純ではないが、日本流の組織文化に生きる精神がそうさせたとでも言うべきでしょうか。
軍人としては優れていても、視野狭窄になりやすい。

善意に解釈して、憂国の士であった彼らは現状打開の為に先ず戦端を開くことに賭けた。

次回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

注釈1: 二つの相反する戦略があり、陸軍は対ソ連戦想定で満州以北への「北進」で、海軍は対米戦想定で東南アジアへの「南進」であった。日本の国力から見ればどちらかに限定すべきだったが、両者の対立に折り合いが着かず両論併記で国防方針が決まっていった。常識的に見て、この時点で国力の違いから戦争続行は不可能であり、軍首脳や戦略立案者の脳裏には「破れかぶれ」が去来したことだろう。

参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「図説ソ連の歴史」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>




Thursday, November 26, 2015

I visited colored leaves of Nara prefecture 2


奈良の紅葉を訪ねて 2



< 1.  A main hall in the right side and A main gate in the left >
< 1. 右が本堂、左が楼門 >

I introduce Chogakuji temple of Nara prefecture.
I went to see colored leaves, but our sightseeing time was over by an explanation by a picture of hell almost.
However, this was very good.

今日は奈良県天理市の長岳寺を紹介します。
紅葉を見に行ったのですが、ほとんど大地獄絵の絵解き説法で観光時間が終わりました。
これが非常に良かった。



< 2. the main gate >
< 2. 楼門 >

This is the oldest main gate with bell house that a bell once was set up the upper part of, and was built in the last of the 12th century of the Heian era.

日本最古の鐘楼門で、上層に鐘を吊った遺構があり、平安時代末期頃(12世紀頃)の建築です。




< 3. a view of prayer hall from the main hall >
< 3. 本堂前から拝堂側を見る >



< 4.  a view of a pond from the main hall >
< 4. 本堂の縁側から放生池を望む >



< 5.  a view of the main hall from the pond >
< 5. 放生池から本堂を望む >



< 6.  Amida Triad statue in the main hall >
< 6. 本堂にある本尊の阿弥陀三尊像 >

Zocho-ten that was one of the Four Guardian Kings is seen to the left, and there is Tamon-ten that was one of the same in the right side.

向かって左に増長天が見え、その右には写っていないが多聞天がある。

About Chogakuji temple
This temple was built in 824, and there were as many as 48 sub-temples and about 300 Buddhist monks at the peak.
Amida Triad statue was made in the last of the Heian era (about the 12th century),
And Zocho-ten and Tamon-ten was older than it.
Now, this temple became little, but seasonal flowers in the vast precincts seem to be famous.

I was surprised that I can look near the 5 statues being National Important Cultural Property.

長岳寺について
ここは真言宗の寺で、創建は824年と古く、盛時には48の建物、僧侶300名ほどを要したそうです。
阿弥陀三尊像は平安末期(12世紀頃)、増長天・多聞天は平安中期と更に古い。
今は寂れた寺だが、境内12000坪の花が有名だそうです。

私が驚いたのは、国指定重要文化財の5体の仏像を間近でじっくり味わえることでした。



< 7.  the left is the Amida statue, and the right is Tamon-ten >
< 7. 左が阿弥陀如来像、右が多聞天像 >

When I sat near front of Tamon-ten and I heard the explanation by a chief priest about a picture of hell along with seeing it, I was overcome by deep emotion.
The exposition of the picture of hell is limited at this time of year.
Once, Many believers would feel an intimate connection with a crime and the Pure Land by seeing a similar picture of hell, and they would be assured of Buddha’s help with seeing gentle Amida Buddha and rageful Tamon-ten.

多聞天の直ぐ前に座り、壁に掛かった地獄絵を見ながら住職の絵解き説法を聞いていると
感慨深いものがあった。
大地獄絵の御開帳はこの時期に限定されています。
かつて、多くの信徒が地獄絵で罪と浄土を身近に感じ、憤怒の多聞天と柔和な如来に接して救いを確信したことだろう。



< 8.  large picture of hell >
< 8. 大地獄絵 >

The main story of this picture: After cremation, dead persons go through Hades in numerical order, and it judged whether they are sent to hell or the Buddhist paradise at the last.

地獄絵のストーリー: 死者は火葬された後、番号順に冥界を進み、最後に地獄か極楽行きかが決まる。

About large picture of hell 
This was drawn in the early of the Edo era (the 16-17th century), the mean size of 9 hanging pictures is about 90 cm in width, and about 250 cm in length.
The story of this picture originates in Buddhist scripture "Ojoyoshu" of the 10th century, and furthermore its origin is from the Pure Land Faith birthed in India in about the first century.

この大地獄絵について
これは江戸時代初期(16~17世紀)の作で、一つ掛け軸の巾約90cm、縦約250cmで9幅の連作です。
地獄絵のストーリーは10世紀の源信の仏書「往生要集」が元になり、さらにその起源は1世紀頃に生まれたインドの浄土信仰(大乗仏教の経典「阿弥陀経」など)に遡る。



< 9.  the main points of the large picture of hell >
< 9. 大地獄絵の要点 >
Upper picture:  In upper part of No. 5, Emma Daio judges merits and demerits of a dead parson.
Central picture:  In central part of No.6, person having had crime gets dropped into the blaze hell.
Lower picture:  In central part of No.9, Buddha comes to pick up good person to the Buddhists' paradise.

“ Keep on doing good deeds” of Buddhism and “devote to own parents” of Confucian still are living teachings in our mind.


上図: 掛け軸5番の上部。閻魔大王が、死者の功罪を審判している。
中央図: 掛け軸6番の中央部。 罪ある者は火焔地獄などに堕とされる。
下図: 掛け軸9番の中央部。 善行ある者は如来が極楽浄土へと迎えに来てくれる。

今も日本人の心に、仏教の「善行を積む」と儒教の「孝徳を尽くす」の教えが息づいている。



< 10.  A sacred book and Buddhist invocation
< 10. 経典と念仏 >

Very roughly speaking, the Japanese Buddhism was divided into popular religion of believers chanting the Nenbutsu (Buddhist invocation) and Zen Buddhism of samurai attaching importance to discipline own mind.
I think the Nenbutsu became very popular among the common people under favor of the picture of hell and "Ojoyoshu".   
The Pure Land Faith preached the Nenbutsu as means to go to the Buddhists' paradise.
On the other hand, sacred books of Buddhism had been written in Chinese character, and many people were not able to read.
Thus, the explanation by a picture of hell became very popular across the whole country by street performers and priests in the Edo era.

Afterword
Accidentally, I was surrounded by Buddhist statues of the Heian Period and could hear the explanation of a picture of hell.
I could contact a Japanese culture descending from ancient times.


日本の仏教は大雑把に言って、念仏を唱える民衆の宗教と、精神修養を重視する武士の禅宗に別れました。
南無阿弥陀仏など、仏の名前を唱える念仏が広まったのは、「往生要集」と「地獄絵」のおかげとも言えます。
浄土信仰は、極楽浄土に行く手段として念仏を説いていた。
一方、仏教の経典は中国の漢字で書かれており、多くの民衆は読むことが出来なかった。
こうして地獄絵の絵解き説法は江戸時代には大道芸人や僧侶によって全国に普及するようになっていた。


あとがき
私は偶然にも、平安時代の仏像に囲まれて地獄絵の絵解き説法を聞くことが出来ました。
いにしえからの日本の文化に触れる思いがしました。








Wednesday, November 25, 2015

社会と情報 65: 戦った報道 22



< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。
この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。
この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

何がくすぶっていたのか
1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。
前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。
後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ
1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。
これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。



< 2. 北一輝 >

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。
彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。
さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。
彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。



< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。
これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。
世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。
またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。
すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。
この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。
この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。
如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。


参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>