Thursday, July 13, 2017

フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2





*1


今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。
この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。




< 2. ノートルダム大聖堂 >

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。






< 3. 正面 >

聞きしに勝る高い尖塔です。
赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。
ゴシック建築の特徴が良く表れている。

下の写真: 中央の入口。



< 4. 正面中央入口の彫刻 >

正面中央の入口の彫刻。
無数の彫刻で埋め尽くされている。

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。
キリストの生涯が描かれている。

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。



< 5. 内部 1 >

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。
下の写真: 側面。
側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。




< 6. 内部 2 >

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

左下の写真: 側廊を見ている。

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)





< 7. 天文時計 >

左上の写真: 大オルガン。

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。
大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。
最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。
この右に天文時計がある。

下右の写真: 高さ18mの天文時計。
毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。
この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。
これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。




< 8. 正面右手の入口 >

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

右上の写真: 尖塔の先。
八角形をした不思議な形をしている。

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。
右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。




< 9. ロアン宮 >

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。
18世紀の司教の宮殿。
テラスの直ぐ前をイル川が流れる。




< 10. イル川  >

上の写真: イル川の桟橋。
下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。




< 11. イル川に架かる橋から >

上の写真: 下流(東側)を望む。
遊覧船がここから発着している。
左手直ぐ奥にロアン宮がある。

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。
12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。



ストラスブールとノートルダム大聖堂



< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。




< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

フランスの代表的な教会建築を示す。
色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。
赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。


ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。
これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。
これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。
それまではロマネスク様式でした。
一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。
しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?
4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。
ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。
ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.
こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。
途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。
この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。
そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。
残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。



< 14. 15~16世紀のストラスブール >

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。
下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。


この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。
そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。
他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。
この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。
既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。
このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。


次回に続きます。



注釈1
ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

注釈2
ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。
これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

注釈3
これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。
しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。





Tuesday, July 11, 2017

何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方




*1


今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。
日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。



結論は・・
一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。
しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。
ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。


ある人々が言い募る説とは
第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。
当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。
さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」
「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」
「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

目立つのは、こんなものでしょうか?
これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。
どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。


 
*2


何が変なのか?
敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。
GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。
彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。
ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。
当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。
軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。
地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?
ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。
これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。
つまり、下地が既に出来ていたのです。


 
*3

可笑しさはこれだけに留まらない
それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?
安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。
この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

さらにこんな反論が出るかもしれない。
今の米国とかつての米国は違うはずだと!
少し、話が怪しい。

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。
植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?
もちろん侮蔑され差別された。

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?
一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。
それが戦争です。
日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。
よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。


 
*4


この御説はどうでしょうか?
東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。
「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。
当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。
しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。
どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。
これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。
しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。
そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

一方、日本はどうでしょうか?
いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

実に、不思議な国があるものです。



さらに、これはどうでしょうか?
もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。
これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。
しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?
おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。


まとめ
ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。
何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。
別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。
このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。
つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。
つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。
この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。
これは本質的な心性のひとつです。

分かり易い例があります。
実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。
一番、鮮明なのはチンパンジーです。
チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。
しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。
時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。


 
*5



最後にお願い


どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。

Monday, July 10, 2017

フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1




*1


いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。
プチットフランスと大聖堂が有名です。
今回は、前半を紹介します。


なぜストラスブールに惹かれたのか?
以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。
さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。
その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。
この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。


 

< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。
この日も素晴らしい天気でした。
青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。
その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 
 

< 3. クヴェール橋 >

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。
上の写真から順次、北から東の方を見ている。

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。
こちらの川が南側を流れるイル川です。
ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。
この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。
戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。
きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。
だが、後で私の勘違いとわかりました。

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。
1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。


 

< 4. ヴォーバンダム >

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.
13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。
右手のガラスの建物は近代美術館。

下の写真: ヴォーバンダムの内部。
私達はそのアーチの上を歩いている。
写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、
1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。


 

< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。


 

< 6. プチットフランス 1 >

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。
これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。
この景観は16~17世紀に始まる。

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。
その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。
またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。
どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。
この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。


 

< 7. プチットフランス 2 >


 

< 8. プチットフランス 3 >

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。
川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。





 

< 9. 通り 3 >

地図番号4から5の間の通り。


 

< 10. サン・ト―マ教会 >

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。
そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。
そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。
その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。



 

< 11. グーテンベルグ広場 >

グーテンベルグの像が立っている。
彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。
この広場はこれを記念したものです。

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。
その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。
またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

後半は、次回紹介します。


ストラスブールの城郭について
帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。


 

< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

上の地図: Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。


 
< 13. ストラスブールの城郭図 >

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.
この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。
現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。
中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。


中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。
上の俯瞰図の平面図と考えられる。
Pプチットフランス、Cが大聖堂です。

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。
この時期になると、更に城郭は拡大している。

Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。
ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。
ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。
17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。
これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。
これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。




次回に続きます。

Saturday, July 8, 2017

何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛



*1


今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。
共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。
なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。


浜田先生のお言葉
この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

僭越ながら抜粋要約します。

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。
つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。
これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。
この点、タカ派の安部首相が最適です。

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。
さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。
この二人もタカ派(共和党)でした。
                      』

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。
しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。


 
*2


「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ
これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。
しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。
例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。
とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。
人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。
「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

・・・
これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。
つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。
                       』

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?
まったく正反対の解釈に思えます。
おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。
この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。
この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。


多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。
単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。
経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。
実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。
これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。
是非とも精進して欲しいものです。


 
*3


事実は奇なり
浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。
よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。
基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。
それ以上に進むこともありますが。
詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。
残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。
これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。


 
< 4. トラッキング・ゲームの図 >

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。
曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。
但し、相談は出来ません。

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。
しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。
これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。


 
*5


浜田先生の歴史観のおもしろさ
彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。
確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。
つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。
しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

レーガンが大統領になったのは1981年でした。
一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。
また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。
大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.
また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。


1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。
この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。
周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。
また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。
要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。
もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?
一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。


最後に
せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。
興覚めです。
諦めないで、また初めから読むつもりですが。




注釈1.
二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

注釈2.
1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。
そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

注釈3.
動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。
このジャンルの本を推奨します。
「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。
「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。
「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。
「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

注釈4.
創元社刊「世界の歴史10」JM.ロバーツ著。
p186~188に、似たような記載があります。