Tuesday, June 20, 2017

フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ





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今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。
これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。
すべてバスの車窓からの景色です。




< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >
左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。
赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。
アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。
また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。
撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。
写真は撮影時間順に並んでいます。

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d'Arc です。



< 3. ポン・デュ・ガール付近 >



< 4. 今から高速道路に入ります >

午後になると、雲が増えて来ました。
一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。
今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。



< 5. ローヌ川を渡る >

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。




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中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。
13:30に撮影。

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d'Arcがあるのでしょう。
上の写真と同時刻に西側を写した。






< 7. ローヌ川の景色 1>



< 8.ローヌ川の景色 2 >



< 9. ローヌ川の景色 3 >


< 10. リヨンに近づいた >

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。



<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。
この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

中央の写真: 新市街。

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。



プロヴァンスに別れを告げて


< 12. プロヴァンスとは >

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」
左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。
彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。


今回でプロヴァンスと別れることになります。
プロヴァンスについて記します。

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。
中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。
この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。
その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。
不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。


プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。
そしてローヌ川はその通り道でした。
ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。
やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。


このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・
このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。
それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。
それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。


次回に続きます。





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