Saturday, June 17, 2017

フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1





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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。
ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。
2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。


アヴィニョン観光 
アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。
この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。



 

< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。
如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。
赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。
城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

S: 観光を開始し、終えた場所。
G: ローヌ門。
B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。
C: 時計台広場。
P: 法王庁広場。
R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。
M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。



 

< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

下の写真: ローヌ川。


 

< 4. 観光の開始 >

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

下の写真: サン・ベネゼ橋。
これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。
12世紀に造られた当時は全長約900mあった。
アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。
度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。
上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。
これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。
おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。
後に紹介します。


 

< 5. いよいよ城内に入ります >

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。
聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。


 

< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >


 

< 7. 時計台広場 >

上の写真: オペラ劇場。
下の写真: 市庁舎。


 

< 8. 法王庁広場 1 >

上の写真: 広場の通りの石畳。
古さを感じさせるが歩き難い。

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。
巨大さに驚いた。
いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。
宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。
今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。


 

< 9. 法王庁宮殿 >

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。
壁の高さは50m、厚さ4mもある。

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。
1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。
アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。
残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。
入場はしていません。






 

< 10. 法王庁広場 2 >

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。


 

< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

上の写真: 進行方向を望む。

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。
大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。


 

< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。
展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。
この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。



 

< 13. 展望台から対岸を望む >

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。
 
下の写真: 少し望遠で撮影。
森が広がっている。


アヴィニョンの謎
なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?
その背景を少し見ておきます。

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。
この王とはフランスの王です。



 

< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。
アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。
この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。
この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。
この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。
11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。
第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。
これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。
また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。
しかしフランス王は南下を伺っていた。


 

< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。
これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。
フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。
この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。
しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。
この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。
批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。
この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。


下の地図: 1477年の領土を示しています。
ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。
この教皇領は、フランス革命まで存続した。
両側の赤線はフランスの国境を示す。

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。
しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。


なぜアヴィニョンだったのか
先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。
そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。
この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。
さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。
これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。
この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。



アヴィニョン捕囚の歴史的意味
イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。
この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。
ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。
一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。
こうして互いが激しく抗争するようになった。

しかしこれには前段があった。
それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。
長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。
これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。
これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。
その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。
一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。
これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。
こうして教皇の権威は高まった。

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。
この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。
これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。
捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。
しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、
アヴィニョンとローマに分立した。
その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。
完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。
そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。




次回に続きます。

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