Wednesday, September 30, 2015

社会と情報 54: 戦った報道 11






< 1. 張作霖爆殺事件 >

今日は、日本がやがて泥沼に足を取られることになる中国侵攻に大きく踏み出した状況を見ます。
この頃、戦争を画策していた者だけでなく、半信半疑だった国民も大陸侵攻に大いに沸き立つようになっていた。
その潮目は、1920年代中頃から1930年代初期、大正から昭和にかけてであった。



< 2. 山東省と済南 >

はじめに
当時の大きな変化を単純化することには無理がありますが、あえて特徴的な二つの事件報道だけを取り上げ、後にその変化の要因を概観することにします。
この特徴的な事件とは、1928年5月の斉南事件と1931年9月の柳条湖事件です。

済南事件の報道
「天津四日・・発 唯今当地に入電せる確報によれば昨日南軍に虐殺された邦人は280名に達し、これらはいずれも我軍警備区域外居住者である。」注釈1
これ以外にも様々な被害を伝える外電が新聞社に飛び込んで来た。

「東京日日」はこの電報を社説で取り上げ、謀略性を追及した。
「この北京、天津からの電報は、そのほとんどが、我が官憲、軍憲から発信されたものと見るほかない。しかるに彼らは直接本国に向かって、何ら責任ある報告を発しておらぬ。・・ただ新聞電報だけによって、いたずらに感情を刺激し、興奮せしめておるのみである」

事件の要点
1914年、日本軍は第一次世界大戦に乗じて山東省に侵攻し、青島と斉南を手に入れ、当時、この地に邦人17000名が居留するまでになっていた。
しかし中国の反発は強く、各地で暴動が起き、日本軍は居留民保護の為に1926年から派兵を行っていた。
当時、中国は革命後の内戦状態にあり、北伐中の蒋介石率いる軍と日本軍の間で武力衝突が起き、日本の死者は居留民14名、軍人26名であったが、中国軍の死者は6000名近くあった。
これ以降、益々排日運動は高まっていった。

軍部の謀略と情報操作は既に常態化しつつあったが、まだ新聞は軍部に逆らい真実を追究する姿勢を持っていった。



< 3. 朝日の柳条湖事件報道、9月19日付け >

柳条湖事件の報道
「三四百名の支那兵が満鉄巡察兵と衝突した結果、ついに日支開戦を見るに至ったもので明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭になった」注釈2
事件は満州において9月18日夜半に発生したが、翌日の朝には「朝日」の号外に載った。


事件の要点
この事件は関東軍(現地派遣部隊)が満州占領の口実にするために、中国軍による列車爆破と発表した自作自演の謀略だった。
以前、斉南事件の1ヶ月後、関東軍は同じ満州で列車爆破による要人暗殺(張作霖爆殺事件)を起こしていた。

実は、柳条湖事件の翌日、奉天総領事は外相にあてて「軍部の計画的犯行」との電報を打っていた。
しかし政府と軍部はこの謀略を隠し、さらに新聞各紙も軍の行動は時宜を得た快挙であると讃えた。
こうして関東軍の意図通りに戦端は開かれ、中央は後追いの形で満州事変を拡大することになり、やがて日本は中国に深く侵攻し、よって米英の反感を買い、ついには太平洋戦争へと進むことになる。



< 4.柳条湖事件の発生場所 >

なぜこのようなことが起こったのだろうか
実は、号外の一報を送った現地の朝日記者は関東軍の首謀者の一人石原中佐とは意気投合していた。注釈2
彼は自らも「日本の人口問題と食糧問題の解決には満蒙大陸が必要」とし、それは侵略によらずに可能と考えていた。

しかし、事は一人の問題で留まらず、軍部への同調は今や新聞の中枢に及んでいた。

憲兵隊秘密報告書に以下の記載があった。注釈3
「大阪朝日新聞社今後の方針として軍備の縮小を強調するは従来の如くなるも、国家重大事に処し、日本国民として軍部を支持し国論の統一図るは当然の事にして、現在の軍部及び軍事行動に対しては絶対批難批判を下さず極力これを支持すべきことを決定・・」注釈3
これは柳条湖事件の約1ヶ月後、重役会にて行われていた。

一方、「毎日」は「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」と銘打ち、「読売」は他社に遅れまいと満州事変報道のために夕刊を発行し始めた。
こうして日本の報道は無道な転向を始めた。



< 5.柳条湖事件の捏造証拠、中国軍の所持品 >

この事件の重要な点
当時、軍部と官憲は暴力や謀略で国内外の問題を解決することに躊躇せず、また事実を捏造し情報操作し、かつ秘密裏に行うことが出来た。
また過激な一部軍人は他国を軍事力で制圧することに躊躇なく、政府と国民はそれにつられるように深追いすることになった。
これらが太平洋戦争敗戦まで巧妙かつ大規模に行われるようになり、国民は真実を知らぬまま暴挙を止めるどころか盲目的に献身することになった。

この暴挙を止める社会的機能としては政党や議会があり、また報道にもその役割があったが、1920年を越える頃からどれも徐々に機能しなくなっていった。
そこには国民と国家、民族を巻き込む「戦争の甘い罠」に呪縛されていく状況が、繰り返されていた。
これは古代ギリシャやユーゴ内戦、米国のベトナム戦争とイラク戦争にも通じる。


次回、なぜこのような報道の転向がわずか3年ほどの間に起こったかを見ます。


注釈1:「戦争とジャーナリズム」P224から引用。
注釈2:「新聞と戦争」(朝日新聞出版、2008年刊)P182185から引用。
注釈3:「戦争とジャーナリズム」P261から引用。






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