Wednesday, September 23, 2015

社会と情報 53: 戦った報道 10



 


< 1.石橋湛山 >

今日は、大正時代後期(19201926年)の報道と政府、そして民衆の動きを見ます。
そこからは既に行進する軍靴の音を聞くことが出来るかもしれません。
今回は、一人の人物と一つの事件を追うことで、当時の社会が見えてきます。



< 2. 尾崎行雄 >

事の始まり
1921年2月(大正10年)、「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄より「軍備制限決議案」が提出されたが、圧倒的多数で否決された。
増強に次ぐ増強で膨れあがる国防費はこの前後9年間で2.5倍に膨れ上がっており、さらに第一次世界大戦後(1920年~)の恐慌が追い討ちをかけて財政は困窮していた。
しかし、議会の大半は軍部を恐れ、この法案を通すことが出来なかった。

3月より「朝日新聞」は「軍縮縮小論」を連載し、世論も軍縮が大勢になっていった。
11月、米国より要請のあったワシントン軍縮会議に日本は参加し、艦艇比率を押さえられ、中国進出に釘を刺されることになった。

この1ヶ月前、雑誌「東洋経済新報」に社説が載った。
それは度肝を抜く、当時の風潮に真っ向から逆らうものだった。

『一切を棄てる覚悟』と題し、「ワシントン会議を従来の日本の帝国主義政策を根本的に変える絶好の機会として歓迎する」とした。
彼の提言を要約すると、
1.経済的利益を見るに、現状の4ヵ所の植民地を棄て、米英との貿易促進こそ重要。
2.植民地放棄こそ戦争を起こさせない道だ。
3.植民地は排日などで騒然としており、既に帝国主義の時代は去った。

これを書いたのは石橋湛山(戦後総理)で、彼は終始一貫して経済的合理性の立場から軍閥の肥大化、侵略に反対し続けた唯一のジャーナリストと言える。
彼は第一次世界大戦参戦に反対し、日本の新聞があげて賛同した対支21か条(1916年)をも批難した。
当然、「東洋経済新報」は政府から監視され、インクや紙の配給を制限されたが廃刊は免れた。

もしこの年、尾崎行雄と石橋湛山の思いが政府に通じ転換が図られたら、太平洋戦争へと向かわなかったかもしれない。



< 3.関東大震災 >

関東大震災がもたらしたもの
1923年9月1日、大地震により焼失戸数45万、死者10万、罹災者340万人の被害が発生した。
しかし、「報道と社会」の面から見ると、このどさくさに引き起こされた朝鮮人虐殺と甘粕事件、亀戸事件が重要です。
この三つの事件に共通しているのは、デマに振り回される民衆と官憲が関わっていたことであり、これ以降思想統制が露骨に強化されていくことになる。

少し言論と思想弾圧の流れを見ておきます
政府は、自由民権運動を抑える為に、1875年、新聞紙条例(発禁処分)と誹謗律(懲罰)、続いて集会条例(許可制、解散)、保安条例(放逐)を制定していた。
1920年代、労働争議は年数百件、小作争議は年2000~3000件へと増大していた。
大正デモクラシーで盛んになってきた労働・社会運動を禁圧する為、政府は1900年、治安警察法(解党)を制定し、その後の1925年には治安維持法で弾圧体制を完成させることになる。

三つの事件の概要
朝鮮人虐殺事件
「朝鮮人が放火し、井戸に毒を入れ、数千人が大挙して日本人を襲っている。戒厳令を敷いたので、厳密なる取り締まりを加えるべし。」
警視庁は、地震の翌日には、このような通達を出し、4000もの自警団が組織された。
この手のデマは地震の3時間後には警視庁に記録されていた。
こうして、朝鮮人虐殺が始まり、日本人と中国人を含む2000~6000人が民衆によって虐殺された。


< 4.亀戸事件の被害者 >

亀戸事件
以前から警察署に労働争議で睨まれていた平沢ら10人が、震災で混乱していた9月4日に捕らえられ、署内で騎兵連隊の兵によって拷問を受け刺殺された。
治安当局は10月10日、この事件を公表した。



< 5.甘粕大尉 >

甘粕事件
9月16日、社会運動家(無政府主義者)で名を馳せ睨まれていた大杉栄と妻ら三人が、憲兵隊司令部に連行された夜に憲兵大尉甘粕によって虐殺され、遺体は井戸に遺棄された。
陸軍省は24日、大杉殺しを発表し、軍法会議で裁く旨を報じた。
甘粕は懲役10年を言い渡されたが秘密裏に2年で出所し、満州で特務工作を担い、満州建設に一役買い、満映の理事長を務めた。


震災時、報道はどうしていたのか
まだラジオも電話も普及する前で、東京の新聞社の多くは焼失し、交通網は途絶していたので新聞機能は麻痺していた。
新聞の中には「東京全域が壊滅・水没」「三浦半島の陥没」「政府首脳の全滅」等のデマを取り上げるところもあった。

政府の言論統制が即刻始まり、新聞記事の取り締まり-検閲、前述事件の取り扱い禁止等、が11月末日まで続いた。
この間、発禁処分は新聞48、雑誌8であった。
こうなると、上記三つの事件は当局の都合の良いように報じられることになる。


「報知」は9月3日、朝鮮人虐殺事件について号外でこう報じていた。
「伝えるところによれば、昨日程ヶ谷方面にて鮮人約200名徒党を組み・・・暴動を起こし同地青年団在郷軍人は防御に当たり鮮人側に10余名の死傷者をだし・・」

また「読売」は当局による亀戸事件発表の翌日、こう報じた。
「・・署長が平沢らの収容所内の騒ぎが他に及ぶのを恐れて・・近衛騎兵連隊を呼んだ。・・平沢らを中庭に連れ出した兵士らは『静粛にしろ』というと、平沢らは一斉に『お前達は資本家の走狗として俺たちを殺すのだろう』と叫び、・・・『革命を見ずして死ぬのは残念だ』と絶叫し、・・胸部を刺されて・・死体を横たえた」
彼らの遺体の拷問跡や他の証言により、これはデタラメであることが判明している。

地震当日、朝日新聞の経理部長石井(戦後衆議院議長)は警視庁に非常食を分けて貰う為に使者を使わし、庁内の状況を探らせた結果、朝鮮人暴動のデマの発信源は警視庁だと判断した。
彼は記者に取材にあたって「朝鮮人騒ぎは嘘で、騒いではいけません」と触れ回るように伝えた。

民衆はどうだったのか
10月9日、「東京日日」は甘粕大尉を「残忍冷酷、正に鬼畜の所業である」と報じた。
しかし、民衆には憲兵が不逞の輩を退治したのであって、甘粕を国士と見る支持者も多かった。
在郷軍人会なども動き、一般から集まった彼の減刑嘆願書の署名数は実に65万に達した。

何が変わっていったのか
既に社会は保守的傾向-国粋主義的で排他的な傾向、を強めており、民衆もそれに引っ張られていった。
多くの報道機関はまだ政府に抵抗していたが、報道規制やあらゆる手を使う政府の弾圧の前になす術は限られ、御用新聞や飼われていた右翼の教宣活動は力を持ち始めていた。

一番重要なのは、警察や軍隊、政府がこれで味を占め、報道規制だけでなく露骨な謀殺・謀略を行うようになっていたことです。
甘粕大尉の扱いは、1931年、満州事変の首謀者石原中佐の扱いと同じです。
また上記デッチあげ事件は1928年の済南事件(中国)に通じ、これらの扱いは敗戦までエスカレートして行くことになる。

こうして日本は、政府の権力と暴力によって報道は麻痺し、民衆は思うままに踊らされることになった。

次回に続きます。



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