Saturday, September 12, 2015

社会と情報 52: 戦った報道 9




< 1.シベリア出兵 >

今日は、報道が権力に屈服する瞬間を追います。
この年は、奇しくも日本が大陸進出へと大きく踏み出した年でもありました。




<2. 米騒動を伝える新聞 >

1918年に何が起きたのか
この年の7月、富山で米騒動が起こり、またたく間に全国に飛び火した。
8月、日本軍73000人がシベリアに出兵し、1922年まで駐留した。
9月、寺内内閣が総辞職し、次いで初の政党内閣が誕生した。

そして10月、新聞「大阪朝日」の社長と編集局長らが大挙辞任し、政府に陳謝する事態が起きた。



この事態が起きた背景を見ます
1914年に第一次世界大戦が起きたことにより、日本は好景気に沸いたが、インフレと経済格差が貧困層を襲った。
またこの大戦とロシア革命(1905年、1917年)は日本の軍事状況を大きく変えることになった。
一つに、1914年、同盟国英国は極東で戦闘が始まれば援助を希望すると伝えて来たが、日本はその前に軍隊を派遣し中国に駐留した。
さらに1918年、英仏米はドイツを牽制しロシア革命を阻止する為に、シベリア出兵を日本の7000名派兵で合意した。
しかし日本は10倍を越える派兵を行い、停戦で英仏米が撤退した後も駐留し、領土的野心を露骨にした。
この年、軍事費は国家財政の30%を越えた(日露戦争では80%)。

これらことも重なり米価は高騰し、地方の不満を爆発させ米騒動の引き金になった。




< 3. 当時の日本帝国の占領地 >

なぜ日本は軍事侵攻を押し進めたのか
前回見たように、1914年、不満を持つ国民は国会を取り囲んで海軍の山本内閣を打倒したが、この時、もう一つの不満要因があった。
1913年、南京で邦人3人が中国軍によって殺害されたが、その対応で政府は弱腰外交と批難され、右翼により外務省局長が暗殺されていた。

1914年、日本がドイツに宣戦布告した時、新聞「東京朝日」と「東京日日」は、この政府の方針について、軍事的・経済的利益拡大の意義を強調し、中国領土の侵犯を容認する社説をかかげて支持していた。
こうして軍部と右翼だけでなく国民世論も大陸侵攻へと傾斜しつつあった。

反権力をかかげて部数を伸ばして来た大手新聞も、国家主義から抜け出すことが出来ず、また政府を非難することで民衆の関心を惹く一面もあった。

但し、論説誌「東洋経済新報」のみ、これに警鐘を鳴らした。
「野心を遂げようとするならば、それこそ我が国家を危険に投ずる事件を発す」
これは30年後に実証されることになる。

結局、日本は日清戦争で得た領土(遼東半島)を三国干渉(露・独・仏)で放棄せざるを得なくなったことへの恨みと、大陸への権益拡大に釣られて侵攻を容認するようになっていた。



< 4. 襲われた神戸の鈴木商店 >

1918年の報道を追います
7月3日、富山で漁港の主婦達が積み出される米を見て米価高騰に業を煮やし、米屋を訪れ「米をよそへやらないで」と陳情した。
これが8月にかけて県内に広がっていった。
これを報じた富山の「高岡新報」の記事を県外紙が誇張した。
「2百余名の一隊が高松家を襲いたるさい、高松の妻が『苦しけりゃ、死んでしまえ』と言い放ち、一隊は大いに憤り、・・その女房を袋叩きにして引き揚げたり(高岡外電)」
これは「大阪毎日」の記事だが、「大阪朝日」も変わりはなかった。
この報道は事実ではなかったが、これが引き金になり、9月には日本全国に騒動が飛び火した。
各新聞は騒動を同情的に
報道し政府を非難する大キャンペーンをはった。
この間、打ち壊しや放火が起き、炭坑では出動した軍隊に対してダイナマイトで抵抗する事態が発生し流血事件も起きた。

政府は、先の「高岡新報」を発禁処分にし、米騒動に関する一切の報道を各紙に禁じた。
8月15日、これに対して新聞各社は報道禁止令の解除を求める決議を行い、内務大臣に申し入れを行い、大臣は折れた。
8月25日、その余勢をかつて大阪で朝日新聞社長が座長となり86社が集まり、「米騒動の責任追及、シベリア出兵と言論弾圧の反対を掲げて、内閣弾劾」を決議した。

この状況を「大阪朝日」は報じた。
「・・誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の裁きの日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の火とが呟いた不吉な兆しが黙々として、・・・人々の頭に、稲妻のように閃く・・」

政府はこの文言を問題にし記事を発禁処分にし、さらに9月9日、政府転覆を目指すものとして朝日を起訴した。

9月21日、報道攻勢にさしもの寺内陸軍大将の率いる内閣も倒れた。
彼は日露戦争で貢献し、韓国併合を推し進め、巨額資金(西原借款)を中国軍閥に注ぎ中国に深く関わり、武断政治を行っていた。

9月28日、右翼が朝日の社長を襲う事件が起きた。
10月15日、「大阪朝日」は突如として、社長以下、多くの編集局長が辞任し退社した。
12月4日に判決が下され、朝日の執筆記者は禁固二ヶ月と軽微で済んだ。



< 5. 寺内首相 >

朝日に何が起きたのか
政府は「白虹日を貫けり」が秦の始皇帝暗殺を暗示させ、天皇や政府を害するものとした。
この因縁のつけ方は、秀吉が大徳寺三門の件で千利休を、家康が方広寺の「国家安康」で秀頼を追いつめるのに使ったものと同じです。

こんなことで簡単に大新聞が転向するものなのでしょうか

当時、関西では不買運動が起こり、右翼系新聞は朝日攻撃のキャンペーンを張り他紙も追随していた。
この右翼系新聞を動かしたのは内務大臣の後藤新平で、後に官僚出身の正力松太郎が読売を再建する際に多額の資金援助をしている。

一番、朝日が恐れていたのは新聞の発行停止の判決が出ることだった。
これを防ぐには判決が出る前に、朝日自ら政府に陳謝の礼を尽くすことで、政府はこれを待っていた。
そして、朝日は判決日の直前12月1日に、自ら違反したことを認め、改めることを新聞に載せた。

これを期に反権力の先鋒だった大手新聞は沈黙し、やがて迎合していくことになり、日本は太平洋戦争へとひた走ることになる。
記者たちの抵抗は続くが、さらなる一撃が待ち受けていた。


次回に続きます。





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