Friday, January 24, 2014

社会と情報 9: ホワイトハウスとどのように闘ったか

博士の告発を描いたドキュメンタリー映画 


< 1.博士の告発を描いたドキュメンタリー映画 >

最初、エルズバーク博士はベトナム戦争収束のために、ホワイトハウスの最上級スタッフに働きかけた。
しかし、それは総べて徒労に終わった。
彼は、大統領率いるホワイトハウスを敵に回すことを覚悟しなければならなかった。


ホワイトハウス

< 2.ホワイトハウス >

闘いの火蓋は開かれた。
1969年10月、彼は国防総省の極秘ペンタンゴン・パーパーをコピーし始めた。
最初、議会の有力議員にこの7000頁の極秘資料の公開を依頼した。
最初興味を示した良識派の議員も、土壇場になるとリスクに恐れをなし、公開を拒絶する。
そこで71年春、博士はニューヨーク・タイムズ紙の記者にコピーを渡した。
しかし公表の確約はもらえなかった。
告発を決心してから2年が経とうとしていた
博士は、さらに頼れる議員を捜し、徴兵に抗して議事妨害を行っている議員を新聞で知った。
その議員に演説ネタとしての極秘資料を渡す為に、現地に飛び妻とホテルで待機していた。
その71年6月13日、ニューヨーク・タイムズが極秘ファイルの連載を始めた。
その新聞社は、公表すれば責任が持てないと弁護団から見放されていた。


現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ

< 3.現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ >

夫婦でホテルのテレビを見ていると、FBIが博士の自宅乗り込む様子を生々しく放送していた。
博士は匿名で動いていたのだが、誰かが彼の名を漏らした。
博士は、命の危険と逮捕を予想して数多くのコピーを協力者に配布しておいた。
その後、夫婦でホテルに潜伏することになる。
一方、ニクソン大統領はホワイトハウスで彼を潰す為に、FBI長官と秘密部隊にハッパをかけていた。
政府の申し立てで、地裁は新聞社に連載停止の仮処分命令を出した。
すると次いで他の新聞社が、そのコピーの公開に踏みだしたが、またもや連載停止命令が出た。
しかし政府の意向に逆らってでも、勇気ある新聞社や出版社がこれに続いた。
さらに17日後、新聞社の申し立てで最高裁は素早く掲載を認める判決を下した。


ニクソン大統領とキッシンジャー

< 4.ニクソン大統領とキッシンジャー >

遂に、博士は逮捕され、機密文書の不法所持やスパイ容疑などの12の罪状で禁固110年を越えていた。
素晴らしい協力者もいたが、裏切りもあり、ついに絶体絶命となった。

CIAと元FBIで編制された秘密部隊「鉛管工グループ」に、大統領は博士の身辺を調査し、マスコミを使って彼の信用を失墜させることを命じた。
彼らは博士かかりつけの精神分析医事務所に忍び込み、書類をあさった。
ところが思わぬ展開が待っていた。
その鉛管工グループが翌72年、大統領選挙の内情を探る為に民主党のビルに不法進入し、逮捕された(ウォーターゲート事件)。
このことから、鉛管工グループの博士に対する犯罪行為や電話の盗聴が判明し、73年、地裁は博士に対するすべての控訴を棄却した。


1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン)

< 5.1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン) >

こうして博士は自由の身となり、圧勝で2期目を手に入れたが大統領は、74年、この事件で弾劾され去ることになった。
彼の行動が、ベトナムからの撤兵を大きく押すことになった。





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