Friday, May 15, 2020

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





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今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。



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