Friday, May 1, 2020

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 3: 福知山城





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今回から、福知山の中心部、福知山城と城下町を紹介します。
今回は主に福知山城です。


 
< 2. ドライブルートと由良川、上が北 >

上: ドライブルート
元伊勢内宮を出発して、福知山城横の駐車場までのドライブルートです。
ほとんど宮川と由良川沿いを走ります。

下: 由良川、太い青線、赤矢印が福知山。

京都府、滋賀県、福井県の府県境に源を発し、西向きに流れ、福知山で急激に折れて、北東に向きを変え、若狭湾に注ぐ。

福知山は東の綾部に続く盆地にあるが、標高の低い所では10mに過ぎない。
しかし福知山城から由良川が注ぐ若狭湾まで直線で30kmもある。
この事と折れ曲がっている事で、福知山の城下は幾度も洪水に襲われていた。


 
< 3. 由良川の眺め >

由良川の東岸から撮影。
上から順に、下流側、真横、上流(福知山城方面)を見ている。


 
< 4. 旧山陰街道と明智の丹波攻め、上が北 >
赤矢印が福知山。

上: 旧山陰街道
京都から亀山、福知山を抜け、山陰側の鳥取、米子を通り、次いで山陽側に向かい津和野、最終、山口小郡に辿り着く。
福知山から若狭湾に出て丹後に近い旧宮津街道もあった。
福知山は交通の要衝だった。

下: 明智の丹波攻め
福知山が発展する端緒は明智光秀がここに「福智山城」を造ったことにある。

16世紀後半、明智は信長に命じられ、丹波攻略を始める。
最初、福知山城(旧横山城)の南にある強敵の黒井城を攻める。
しかし背後から八上城の裏切りに遭い苦戦し、信長の命で石山本願寺との戦いに向かいます。
再度、亀山城の攻略から始め、西に順次、城を落とし、最後に黒井城を攻め落とし、丹波攻略を3年かけて終えます。

そして亀山城と福知山城を築城し、光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とし、娘婿に福知山城を与えた。
光秀は福知山城築城の際、大規模な治水工事を行い、善政を敷いたことでで住民から慕われ、今に「福知山音頭」に唄われ続けている。

福知山音頭(江戸時代に出来た)
「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ
明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山
お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり
・・・・・・・・               」

その二年も経たない内に、近畿一円を任されていた光秀は本能寺の変を起こし、滅亡した。

江戸時代、福知山城は福知山藩の居城でした。


 
< 5. 福知山城に到着 >

上: 城のすぐ横にある無料駐車場。
売店やレストラン、トイレもあります。

下: 駐車場から太鼓橋を渡って城に向かう。



 
< 6. 太鼓橋の頂点から >

上: 太鼓橋の頂点からの眺め

下: 城壁の坂道に来た。
これを登って、天守閣に向かい直ぐに着いた。


 
< 7.天守閣 >

天守閣にはコロナの関係で入場出来ませんでした。
この天守閣は1986年に再建されたものです。
構造は鉄筋コンクリート造ですが、外観は忠実に再現されているとのことです。
木張りの外壁が美しく、優しさすら感じる。



 
< 8. 転用石 >

天守台と本丸の石垣は当時のもので、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用している。
また寺などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。
下の写真の所々に見られる。

私は天主台の石積みにある小さな自然石に触ってみたが、今にも抜けそうで不安に感じた。
逆に言えば、素晴らしい石積み技術と言える。


 
< 9.表側 >



 
< 10. 豊磐井 >

上: 井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。


 
< 11. 天守閣の敷地から望む >
見ている方向は、次の地図の矢印通り。

上: 黒矢印、ほぼ東を望む。
中央: 赤矢印、由良川の上流を望む。
下: 茶色矢印、城下町を望む。
遠くに由良川の堤が見える。
私が散策するのは、主にこの写真の右半分です。


 
< 12. 福知山の中心部、上が北 >

矢印の中心に福知山城があり、東側から来た由良川が急激に折れ曲がって北上し、さらに土師川(ハゼ)が南側から合流している。


 
< 13. これから城下町を散策 >

上: 城を下って、北側に進みます。
写真の奥に見える小さな陸橋を渡り、由良川の堤に向かいます。

下: 旧松村家邸宅。
これは堤から迫り出した土地に建っています。
明治時代以降、大規模な築堤工事を請け負った松村組が、堤防の安全性を証明するために、この地に家を建てたそうです。




 
< 14. 明智藪(蛇ヶ端御藪) >

光秀が福知山城を築城する際、由良川の向きを変え、巨大な築堤を行い、
城下を洪水から守ろうとした。
さらに堤防の前に、この竹藪を造り、由良川の水流の衝撃を和らげるようにした。

これだけでも、光秀はなかなかの知恵者だったと思った。


次回に続きます。



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