Friday, January 19, 2018

何か変ですよ! 91: 何が問題か? 14: 英国はなぜ衰退したのか?



< 1. ロンドンの万国博覧会、1851年 >


今回は、繁栄を享受していた大国がなぜ没落したかを見ます。
そこでは今の日本とまっく同じことが起きていた。
誰しも自分の不幸の予兆を知りたくはないが、知れば心構えが変わるかも!



 

< 2.栄枯盛衰 >

上は1876年のロンドン、下は20世紀初頭の米国の写真です。


*はじめに
かつて大英帝国は軍事的・経済的に世界を席巻し西欧文明、いや人類文明の模範でした。
しかし、その絶頂期にあった19世紀の後半からわずか数十年、急激に生気を失い、覇者の座を失った。
覇権国の栄枯盛衰は世の習いではあるが、資本主義社会で起こったその衰退過程が日本の低迷と恐ろしく似ているとしたら、どうでしょうか?

皆さんにこの英国の歴史から感じて頂きたいことが三つあります。

A: 衰退の原因はその社会が作り出していた。
B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。
C: 間違った手段で起死回生を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

歴史は過ぎ去ったものであり、まして外国のことなど関りがないと思われるかもしれないが、恐ろしいほど似たことが起きていたのです。


 

< 3.英国の繁栄と衰退 >

赤枠は繁栄を極めた英国が19世紀後半から転落していく様子を示す。


*繁栄を極めた英国
17世紀、英国はピューリタン革命と名誉革命を経験し、いち早く議会が王権を牽制するまでになった。
16世紀以来、海外の領土を拡張していたことと、上記の社会体制の変化が相俟って、世界で最初の産業革命が英国で1760年代に興った。
19世紀半ばには「世界の工場」と称され、1851年にロンドンで始めて開かれた万国博覧会はその自信の現れだった。


 

< 4. 帝国主義に拍車がかかる >

上は1886年の英国の植民地、下は1921年のものを示す。
この間に英国は中東とアフリカに侵略を開始した。
英国では何が起きていたのか?


*一方で破滅への道が準備されていた
1825年、過剰生産による恐慌が英国で始めて起こり、その後ほぼ10年ごとに恐慌は起こったが、19世紀前半の恐慌は主として英国内にとどまっていた。
しかし1857年に初の世界恐慌が勃発し、1873の恐慌ではヨーロッパ(英国も)は22にわたる経済不況へと突入した。

一方、ヨーロッパ大陸ではフランス革命(1789年)が起こっていたが、その後のナポレオン戦争への勝利が列強による軍事同盟(ウィーン体制)を生み、逆に国内の自由主義を19世紀半ばまで抑圧することになった。

恐慌の翌年の1874年、英国では総選挙で帝国主義的外交を唱える保守党(貴族、大資本家が支援)が圧勝し、スエズ運河買収(1875年)、インドを直轄領からなる帝国化(1877年)へと推し進めることになった。

こうして英国を含めたヨーロッパ諸国は競い合って世界を植民地化し、ついには二度の世界大戦へと突き進んだ。


 

< 5. 英国の衰退要因 >

上左のグラフは1914年の英国の資本輸出、上右のグラフは英国の資本輸出の推移(1816-1914年)を示し、下のグラフはその結果として工業生産高が伸びなくなっている状況を示す。
英国が衰退した最大の理由は膨大な資本輸出(他国の建設や設備への投資)にあり、これが国内投資を激減させ、国内産業の競争力の低下を招き衰退に至った。



*英国は自ら衰退の道を歩んでいた
二度の大戦で多くの国は戦火を被ったが、衰退する英国を尻目に米独日などは経済大国へと躍進することになる。
英国の衰退は1880年代には始まっており、20世紀の初頭には米独に追い抜かれていた。
衰退は英国で進行していた社会・経済の変化にうまく対応できなかったことによる。

英国は産業革命をやり遂げてはいたが、鉄と石炭の産業が中心であり、次代を担う電気やガスを中心とする重化学工業には対応出来ていなかった。
これは新規技術導入に消極的だったことによるものだが、かつての企業家精神は半世紀余りの間に完全に廃れていたからでした(保護政策)。

何が英国で起きていたのか?
産業革命により貿易は拡大し、人口は都市に集中し、都市労働者の生活スタイルが変わり、食料品や日用雑貨の大量輸入が不可欠になり、自由貿易が進められた。
すると国内生産の農作物価格が暴落し、大規模農場経営は行き詰まり、貴族(ジェントルマン)は資産を不動産から金融資産へと変えていった。
一方、勃興した産業資本家も金融資産を増やしていた。

産業革命当初、英国の輸出は旺盛で貿易黒字は優勢であったが、やがて輸入が上回り万年赤字になった。
しかし、世界トップシェアを占める海外貿易に伴う船賃収入や、それまでに蓄えた外貨(貿易黒字)による海外投資の利益が貿易赤字を上回るようになった。
こうして英国は世界の新興国や発展途上国に投資し、ますます資本家は貪るように海外投資で利益を得るようになっていった。
こうしてロンドンシテイは世界の金融をリードするようになったが、英国内への産業投資は尻すぼみとなり、競争力は衰えるばかりだった。
金融資本家は急成長し資金が不足する米国やドイツの産業や産業基盤(鉄道)に競って投資し、競合国の経済成長を助け、自国産業の衰退に加勢すらした。

さらに植民地への投資資金と植民者の安全確保の為と称して、植民地への軍事行動が国民の合意の下に行われることになり、帝国主義は国を挙げて行われていった。


*英国社会では何が起きていたのか
大英帝国の貿易と経済、植民地のシェアは世界で群を抜いてトップだった。
また大英帝国には莫大な資本蓄積があり、多数の大金融資本家(ロスチャイルド家)がおり、人々は繁栄を謳歌していた。

19世紀末から20世紀初頭の英国の人々の暮らしや意識を追ってみます(注釈1)。

・大都市の暮らしに憧れ、都市生活を享受した。
・その一方で地方暮らしや海外赴任を嫌い、遂には外貨を稼ぐ船員も激減した。
・添乗員兼通訳付きの海外向けパック旅行が大ブームとなった。
・国内旅行では温泉がブームになった。
・都市では展覧会、博覧会、スポーツ競技などのイベントが花盛りになった。
・古典は疎まれ、イラストの無い読み物は敬遠されるようになった。
・健康ブームとグルメブームが興った。
・理想主義、犠牲や粘り強く行うべき改革は嫌われ、「勝手気まま」が合言葉のポピュリズムが持てはやされた。

この時代は英国が築き上げた繁栄から半世紀以上が経過し、所得の増加や福祉向上が進み、都市生活が定着し、大量の中産階級が生まれていた。
しかし19世紀後半には経済が陰り始めたが、人々(中産階級)は更なる繁栄を求め、保身と海外展開に望みを託し保守化していった(注釈2)。

残念なことに、1世紀前の苦労やかつての克己心は忘れ去られ、快楽追及や利己的なものが重視されるようになっていた。


 

< 6. 今繰り返されようとしている英国の世紀末 >

上のグラフは19世紀末の資本(投資利益)が労働(賃金収入)よりも如何に稼いだかを示し、凡そ7倍あった。
中央のグラフは、その結果として20世紀初頭、如何に所得格差が開いていたかを示し、両グラフから21世紀初頭も同じことが起こりつつあることを示している。
下のグラフは、最近の日本の民間資本の肥大化を示している。

この三つのグラフは、日本を筆頭に差はあるものの先進国では莫大な資本が百年前の世紀末を再現しつつあることを物語っている。


*日本と比べて
おそらくここまで読まれた方は、あまりにも現在の日本に似ていることに驚かれるはずです。
政治家、企業家や資本家、中産階級の嗜好と目指すものは両国で酷似しています。

内憂(恐慌や衰退)を国内で解決するのではなく、海外の植民地拡大に矛先を転じていました。
実は植民地政策は搾取する割には軍隊派遣や植民地への投資で赤字になるだけでなく、多くの自国民の血も流した。
現在の日本も似ていますが、1910年代の好景気を経て30年代に大陸進出する大正から昭和の初めとも似ています。

企業家や資本家はやがて保守的になり、蓄積した膨大な金融資産は国内に向かわず、海外に利を求め、国内投資は漸減し、自国の競争力は失われた。
これは国としては自分で自分の首を絞めるに等しいのですが、個々には最適な利殖行動の結果なのです。

中産階級の浮かれ具合は両国でまったく同じです。
しかも当時、この英国の浮かれ具合を古代ロ―マの衰退期と同じだと指摘した出版物が出たと言うから、歴史は繰り返すようです。

実は、もう一つ共通していることがあります。
それは社会が本当に衰退している時ほど、楽観論(衰退を無視)がまかり通るようです。


*まとめ
冒頭で述べた以下の三点について皆さんはどのように感じられたでしょうか?

A: 衰退の原因はその社会で生まれていた。

経済発展が経済(産業や金融)と社会(主力の階層)を変え、今度はこの社会が経済の不具合(業界保護と国内投資減)を制御出来なくなってしまった。


B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

国の発展を牽引するはずの企業家や資本家は利益を求めるだけで、社会や国の衰退を顧みることはなかった。

C: 間違った手段で挽回を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

政治家や資本家は、国内経済の低迷打破に安易で国民の反発が少ない海外進出に舵を切った。
そして植民地の関係は泥沼化し、また列強との競争が激化し、やがて戦端を開くことになった。


*あとがき
英国の衰退を説明し、かつ日本の現状との類似を指摘することは難しい。
したがって、分かり易さと大きな流れを掴んで頂くために、かなりの歴史的事実や経済データーなどを割愛して、極端に論理を圧縮しています。
関心のある方は、以下の参考文献を参照してください。


次回に続きます。


注釈1: 文献「なぜ国家は衰退するのか」中西輝政著、1999年刊。
記事は主に第三章から抜粋。

注釈2: 文献「概説 西洋社会史」野崎直治編、1994年刊。
この分析は、-17の「帝国主義時代のイギリス社会」に詳しい。

ドイツ国民がナチスに傾倒して行った過程でも、保守化した中産階級(定義は異なるかも)が主役を成した(別の文献)。


参考文献
*「21世紀の資本」トマ・ピケティ著、2015年刊。
*「新版 概説イギリス史」青山吉信共編、1995年刊。
*「図説 イギリスの歴史」昭博著、2002年刊。
*「概説イギリス経済史」米川伸一編、昭和61年刊。
  今回の英国経済衰退について最も詳しく書かれている。
*「概説世界経済史Ⅱ」ロンド・キャメロン共著、2013年刊。
  今回の英国経済衰退についての要約と世界経済の関係が分かる。
*「現代のイギリス経済」中村靖志著、1999年刊。
今回の英国経済衰退について第一章に少し書かれている。
*「世界の歴史25 アジアと欧米世界」中央公論社刊、1998年刊。
今回の英国衰退期の歴史(社会、貿易、帝国主義)について詳しい。
*「世界経済の成長史1820~1992年」アンガス・マディソン著、2001年刊。
今回の英国経済衰退について世界経済の関係が分かる。
*「イギリス病・イタリア病・日本病」中村忠一著、昭和52年刊。




Thursday, January 18, 2018

フランスを巡って 54: パリ散策2





*1


今日はサン・ジェルマン・デ・プレ教会を紹介します。
この教会はパリに現存する最古の教会でロマネスク建築です。
このセーヌ川左岸の教会でパリの始まりを偲ぶことが出来るはずです。





< 2. 散策の地図 >

上の地図: 乗り継いだ地下鉄と散策の場所を示します。上が北。
今日紹介するのは黒字No.2の青枠です。

中央の地図: おそらく6世紀頃のパリ。上が北。
フランク王国の最初の王朝(メロヴィング朝)が506年にパリを始めて首都にした。
セーヌ河の中州のシテ島に王宮が見え、ノートルダム大聖堂が後に出来ることになる。
赤い矢印がおそらくサン・ジェルマン・デ・プレ教会だと思います(地図の表記は異なりますが)。

下の地図: おそらく10世紀頃のパリ。左側が北。
シテ島を中心に左岸(地図右側)と右岸が城壁に囲まれ、町が拡大発展している。
この城壁は幾度も拡張され、19世紀に造られた城壁が現在のパリを囲むようになった。
赤い矢印がおそらくサン・ジェルマン・デ・プレ教会だと思います(表記は不明)。





< 3. 地下鉄駅 >

上の写真: サン・ポール駅から地下鉄を乗り継ぎ、サン・ジェルマン・デ・プレ駅を目指す。

下の写真: 途中、地下鉄を乗り換えたシャトレ駅。






< 4. 車内にて >

上の写真: 地下鉄の車内でカメラを向けると笑顔を返してくれた人。
今回のフランス旅行では、街角の人々のさりげない表情を撮りたいと思い、至る所でカメラを向けました。
中には嫌悪感を示す若い男性の視線に躊躇することはあったが、圧倒的に多くは笑顔で対応してくれ、ポーズを取る男性も居た。
フランス人の気さくさに惹かれました。

下の写真: サン・ジェルマン・デ・プレ教会の全景。




< 5. サン・ジェルマン・デ・プレ教会外観 >

この教会は王都パリの最初期の歴史を物語る。

古くは、パリにはケルト人が住んいたが、紀元前後にローマ人に支配された。
当時は、シテ島と左岸に小さな集落があっただけだった。
その後、東方の異民族の侵略などにより荒廃した。
やがて勢力を拡大して来たフランク王国の初代王朝(メロヴィング朝)のクローヴィス王が506年にパリを首都にした。

542年、この王の子(キルデべルト王)がスペイン遠征の際、サラゴサで殉教した聖人の遺物を持ち帰った。
パリ司教サン・ジェルマンはこれを納めるためにこの教会を建築した。
この王はここに埋葬され、この教会は初代王朝の霊廟となった。

その後、フランク王国の分裂、バイキングの度重なる襲撃を経て、パリは王都から一地方都市になっていた。
987年、ユーグ・カペーはフランスの初代国王(カペー朝)に選ばれ、パリを首都にした。

この頃から12世紀にかけてパリは帝国の首都、学術と教会の拠点として発展していった。
政治と宗教生活の拠点であったシテ島では1163年、ノートルダム大聖堂の建設が始まった。
左岸(セーヌ川の南側)は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心であり、後に大学の町へと発展した。
逆に対岸の右岸(セーヌ川の北側)は商業と経済の中心として発展していった。

こうして、1136年頃にパリ北端のサン=ドニ大聖堂ゴシック建築で改造され、ゴシック建築がフランスで開花し、ヨーロッパに広がった








< 6. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 1>

教会は修復工事中で観光客も少なかった。
教会内は暗く、ロマネスクらしい重厚で質素な趣がある。
この教会はロマネスク建築だが、後にゴシック様式で改造されている。




< 7. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 2 >

右下の写真: パリ司教サン・ジェルマンの像と礼拝堂。
彼がこの教会を建て、鐘楼の下に眠っている。





< 8. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 3 >

今は小さな教会だが、かつて8世紀と17世紀は大規模な修道院で隆盛を極めたが、フランス革命で多くを焼失した。




< 9. サン・ジェルマン・デ・プレ教会前の交差点 >

上の写真: 右奥がレンヌ通りで南側を望む。
下の写真: サン・ジェルマン大通りの西側を望む。






< 10. 地下鉄駅 2 >

上の写真: 路線が異なるのでオデオン駅まで歩き乗車。
マピヨン駅が近かったが、迷ってしまって次の駅まで行った。

下の写真: クリュニー・ラ・ソルボンヌ駅で降車。
ここから大学街を歩き、アラブ世界研究所に向かう。


次回紹介します。



Tuesday, January 16, 2018

何か変ですよ! 90: 何が問題か? 13: 過去・現在・未来に生きる



*1



日本は平和で、人々は豊かさを享受しているようです。
しかしこのまま突き進むと、いずれ経済も平和も失う事態が来るとすれば・・
今、懸念すべきことはないのだろうか?


*はじめに
現在、進められているアベノミクス(円安誘導、株価下支え、金融緩和、リフレ策、規制緩和)に不安はないのだろうか?

確かに、円安になり株価は上昇し失業率は低下した。
一方で、インフレは起こらず、経済成長は芳しくなく、賃金は低下し続けている。
ゼロ金利政策と日銀の莫大な国債買い上げが続き、そして累積赤字は減少するどころか増大している。

多くの人々は、いずれ経済が上向くとの希望を抱いてるのだろうか?
そうなれば賃金が上昇し、累積赤字が減り、年金や医療介護体制も維持できると考えているのだろうか?

この楽観はどこから来るのだろうか?


*楽観論の陰にあるもの
政府や取り巻きが唱える楽観論の根拠は正しいのだろうか?

この楽観論の前提は非常に単純明快で、日本経済は刺激さえすれば昔のように高い成長を維持できると言うものです。
そして概ねアベノミクスはヘリコプターマネー(通貨増発)によるインフレ誘導で投資や消費を拡大させ、長期の経済停滞から脱却すると言うものです。

当初の円安は輸出企業を刺激し、また株高によって一部には好転の兆しがありましたが、それ以外では実体経済への好影響はあまりなく、効果は持続していないと言えます(つまりトリクルダウンがない)。
なお失業率の低下は、主に団塊世代の退職による代替え雇用によるものです。

ここで、楽観論で見えなくなっている懸念や問題点について考えてみます。
(難しい理屈は不要です)

日本経済は刺激さえすればほんとうに成長を始めるのでしょうか?
または一時成長しても後に大きな歪や災いが生じないのでしょうか?

A インフレになりさえすれば消費が増え、ほんとうに経済は上昇し続けるのか?

B 日本の経済は本当に成長出来るのか? 

C かつてない金融緩和が破滅的な金融危機を招くのではないか?

D 日銀や政府の政策が将来、国民の負担や財政破綻に繋がらないのか?

E 高い経済成長が起きても、米国のようにならないのか?

楽観論を唱える識者はすべて上記の問題点を無視するか否定している。



*上記問題点に共通すること
それぞれの問題について様々な経済学者が激論を戦わせており、素人にはその正否を判断することは困難です。
右派左派、保守革新、米国寄りかで見方は大きく対立している。
しかも多くの人はこれらを予想出来ない不安な事として無視しているようです。

しかし、上記5つの問題が現実に進行しているか、過去に起きていた事を知れば、皆さんは問題の大きさを識ることになるはずです。
つまり、これは現実の問題なのです。


*グラフから読み解きます

 

< 2. 日本と主要国の失業率、社会実情データ図録より >

失業率はリフレ策などの金融緩和によって繰り返されるバブル崩壊で増大している。

赤の縦線は米国のバブル崩壊の始まりを示し、米国の失業率(赤の折れ線)はバブル中に低下していても、崩壊後に急上昇を繰り返している。
黒の縦線は日本のバブル経済の崩壊の始まりを示す、その後の「失われた20年」の長期にわたる失業率の上昇が深刻です。
つまり、リフレ策を含む金融緩和は概ね経済の疲弊を繰り返すだけなのです。



A インフレになりさえすれば消費が増え、ほんとうに経済は上昇し続けるのか?
結論から言えば、アベノミクスのリフレ策は2013年から2017年の5年間の結果から見れば効果がなかった。

ただ円安と株高は当初効果があったが、これは2012年の欧州金融危機解消と海外投機筋の安倍政権誕生への期待によって起こったもので、いつまでも続くものではない(ファンダメンタルの改善ではなく海外の投機動向によるもの)。
物価上昇が起きない理由として原油安が足を引っ張っているとの指摘があるが、本来、原油安は進行している賃金低下を補うべきもので、むしろ円安による物価高が災いして消費全体が伸びなくなっている。

リフレ策の先輩である欧米の経済状況から、リフレ策は成功しているとは言えず、クルーグマンは財政出動が重要だと言っている(グラフ2はその一例)。



*グラフから読み解きます

 

< 3.日本の潜在成長率、 日本銀行より >

このグラフは低下し続ける日本の潜在成長率(黒線)を示し、設備投資(資本ストック)の減少と生産性(TFP=全要素生産性)の低下が顕著です。
この潜在成長率の低下は1990年代の急減によって始まっているが、これはバブル経済(1986年12月から1991年2月までの51ヵ月間)の反動がもたらしたものです。

これ以来、経営者は資金(内部留保など)を長期に固定し予測困難な設備投資に使うより、手早く高利を稼げる海外証券などに投資するようになった。
つまり、経済を牽引すべき人々は実体経済への意欲を完全になくし、あり余る資金は金融経済、それも海外に儲けを求めるようになってしまった。
この資金が逆流しない限り、幾ら通貨が増発されても設備投資に向かず、金融商品に向かいバブルを煽るだけなのです。

この国内の実体経済を軽視する風潮が日本の衰退の元凶であり、かつて英国が没落へと突き進んだ道でもありました。
いま日本は戦後3位のアベノミクス景気と浮かれているが、またバブルが弾けると、かつて言われた「失われた20年」よりさらに長い衰退が待ち受けることになる。
人々は、幾度繰り返せば悟るのでしょうか?



B 日本の経済は本当に成長出来るのか? 
結論は、日本経済は衰退の道を進んでおり、抜本的な対策を講じないと手遅れになる。

大規模な経済刺激策が一時、功を奏しても、その後に大きな反動が来るか、手遅れを招く。
アベノミクス(特に金融緩和)は一時的な興奮剤か、むしろ常習性の麻薬であり、真の経済・社会問題から目を逸らしてしまうことになる。

日本経済の成長力については潜在成長率や需給ギャップなど専門的な理解が必要になる。
しかし、今の日本とまったく同じ状況が19世紀の英国であったことを知れば、衰退の恐ろしさを実感できるはずです。
豊かで世界をリードしていた経済大国が半世紀の間に没落したのです。
つまり、衰退の真因に手を付けず、一方で成長力以上に通貨増発することはバブル崩壊とデフォルトを招くことになる。


*グラフから読み解きます

 

< 4. 株価の推移 >

上のグラフ: 日経平均の推移。ウイキペディアより。
バブル経済で株価は高騰し繁栄したが、その後20年に及ぶ景気後退と手痛い後遺症を負ってしまった。

下のグラフ: 日経平均とNYダウの推移。YAHOO!ファイナンスより。
リーマンショック後、米国は直ぐに破綻の連鎖を食い止める為に大規模な救済(約200兆円)と金融緩和を行い、株価は上昇を始めた。
当時、日本は日銀のおかげで被害を抑えることが出来たが、現在アベノミクスにより株価は高騰している。

つまり、我々はいつか来た道を(バブル)をまた懲りずに進んでいる。



C かつてない金融緩和が破滅的な金融危機を招くのではないか?
金融危機はほぼ10年毎に繰り返されて来ており、ここ数年以内に確実に起きるでしょう。

バブルの発信源である米国を振り返ると、前回は2008年初頭のリーマンショック、前々回は2000年末のITバブル、さらに1987年のブラックマンデーと、その間隔は8~13年でした。

米英日中が行っている歴史上始まって以来のGDP成長率を上回る通貨増発は、莫大な資金が実体経済ではなくあらゆる高配当の投機(証券や為替)に注がれ、やがてバブル崩壊に至る。
このバブルを生む金融業界の体質は金融危機後、一時規制されることはあっても、後に景気刺激策として規制緩和され、元の木阿弥か一層酷いものとなる。

不思議な事に、日本政府寄りのエコノミストは当然としても、アベノミクスに異論を唱える民間シンクタンクのエコノミストでさえ、バブル崩壊をまともに取り上げていない。
政財界から距離を置いている少数の学者や識者は、これについて警鐘を鳴らしている。
米国も同様です。

このことは既に日本のエスタブリッシュメントが完全に一色に染め上げられ、国が衰退の道から抜け出せなくなっている証左でしょう。


*グラフから読み解きます


 

< 5. 日銀の保有国債残高、By Bloomberg >

単純に考えて、政府が赤字国債を毎年30兆円発行して、それを直ぐ日銀が買い取る、これを永遠に続けて弊害が無ければ、こんな楽な財政運営はありません。
2017年末、日銀の保有国債残高は既に400兆円になり、アベノミクスの2013年初頭以来5年間で300兆円が買い足されています。

これこそ打ち出の小槌の大発明ですが、世界で日本の中央銀行ほど大量に購入している国もなければ、これを続けている国もありません。
米のFRBは金融緩和を止めて出口戦略を取り、国債を市中に戻しています。

つまり、日銀は早晩出口戦略を取らざるを得ず、かつスムーズな実施が必要なのですが、なぜかまったく沈黙を守っているのが不気味です。



D 日銀や政府の政策が将来、国民の負担や財政破綻に繋がらないのか?
私は国民の負担増と財政破綻の可能性はより高まっていると考える。

残念ながら自信を持って、現在の日銀と政府の金融政策が上記問題を招くと断言できません。
しかし、この恐れはアベノミクスによってより高まると感じています。

この理由は大きく二つあります。
一つは政府が現状のように赤字国債を発行し財政を拡大し続けるなら、早晩、国債を国民の資金だけで消化できなくなるでしょう。

日銀が大量の国債を買い取ってくれる現状では財政規律が緩み、国債増発は続くでしょう。
さらに家計資産の伸びの減少に加え、団塊世代の老後資金の預金引き出しが今後現実のものになります。
法人資産は増加していますが、これは低金利の内国債ではなく益々海外の高利の証券投資に向かうことになります。

当然、真の衰退の問題にメスを入れない限り、持続的な景気上昇が起こらないと考えます。
もしインフレが起きた場合、リフレ派が仮定するように金利上昇が経済成長率よりも低ければ良いのですが、恐らくは逆に金利の方が高騰する可能性もあります。
このようなことになれば、金利1%の上昇で累積赤字1000兆円の利払いだけで年間10兆円増え、利払費は現在の2倍を越え、累積赤字を減らすどころではない。
(逆の場合、GDP成長率が金利より高ければ数十年かけて累積赤字は減って行きます。)
こうして破綻(デフォルト)は近づくでしょう。

もう一つは日銀の出口戦略に関するもので、莫大な保有国債を市中に吐き出す時に問題となります。
私はこの問題の金融メカニズムを完全に理解出来ないのですが、複数の元日銀理事が警鐘をならしています。

結論は、将来、日銀の負債(おそらくは十数兆円から数十兆円)を国民が負担しなければならないと言うものです。



E 高い経済成長が起きたとしても、米国のようにならないのか?
結論は、確実に米国の二の舞になります。

つまり経済成長が起きても所得格差が拡大し、30年以上国民の90%が所得を減らしている米国社会が将来の日本の姿になるでしょう。
(「何か変ですよ! 87: 何が問題か? 10: そこにある未来」に詳しい)

今までと同様の政策、アベノミクスだけでなく自由主義経済と金融重視の米国追従の政策を取り続ける限り、この道を突き進むことになる。


*グラフから読み解きます


 

< 6.主要国の経済推移、 日本経済復活の会より >

19世紀前半まで世界経済をリードしていた英国は半世紀(赤枠)ほどで衰退してしまった。
この衰退は今の日本の姿でもあるのです。


*次回は、かつての英国衰退から日本の現状を理解したいと思います。









Saturday, January 13, 2018

フランスを巡って 53: パリ散策 1




*1


これから4回に分けて、パリの街を紹介します。
午後一杯かけて、中心部の5か所を巡りました。
この日も快晴で、パリの町と気さくな人々に触れ合いました。


はじめに
散策したのは、2017年5月27日の12:00~20:30です。
ルーブル美術館を正午に出て、ラ・デファンスに戻るまで地下鉄と徒歩で市内を巡りました。
この日は土曜日で至る所に市民が楽しく、くつろいでいました。

主に巡った所は市民が集い食事を楽しめるアンファン・ルージュの市場とムフタ―ル通です。
また歴史あるサン・ジェルマン・デプレ教会を訪れました。
さらに大学が並ぶエコール通りからセーヌ川沿いのアラブ世界研究所、ここからシテ島のノートルダム大聖堂まで歩きました。

交通機関はすべて地下鉄を利用しました。

 
< 2. パリの散策マップ、上が北 >

地図の見方
赤矢印は地下鉄の乗車駅で、黒矢印は下車駅です。
赤の番号は乗車の順序です。
黒の曲線は乗り継ぎを示す。
青枠は散策した地域で、黒の番号は散策した順序を示す。

今回は、青枠の1番になります。


 
< 3.地下鉄駅 >

上の写真: 最初の乗車駅、赤番号1のパレ・ロワイヤル ミュゼ・デュ・ルーブル駅。

下の写真: 最初の降車駅、アールゼ・メティエ駅。



 
< 4. アールゼ・メティエ駅から歩き始める >


 
< 5. アンファン・ルージュの市場に到着 >

この市場は「Rue de Bretagne」通りの交差点の角にある30m四方の市場です。
まさに庶民の市場の風情です。
観光客をほとんど見かけなかった。


 
< 6. 昼食時 >

訪れたのが13:00頃だったので、食事処はごった返していました。

 
< 7. アラブ風の料理を食べました >

上の写真: 右端の女性が注文を受付てくれる。

右下の写真: 注文した料理。



 
< 8. アンファン・ルージュの市場を去る >


 
< 9. カルナヴァレ館 >

下の写真: パリの歴史が見られる貴族の館であるカルナヴァレ館はあいにく閉館していました。


 
< 10.サン・ポール駅まで歩く >


次回に続きます。