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Thursday, February 26, 2015

社会と情報 43: 新聞と検察、相克と癒着 4






< 1. ベトナム戦争 >

記者クラブは誰にとって利益なのだろうか? 
新聞か検察か、それとも国民か・・


記者クラブは政府や官僚にとって都合がよいか?
記者クラブの加盟社が特権を手放したくないのは当然と言えますが、情報発信側にも利益があります。

外国の例を見ます。
第二次世界大戦当時、米国は戦争報道のすべての記事を徹底的に検閲していました。
一方、ベトナム戦争において、検閲ではなく現地で記者クラブのような「アメリカ合同広報局」が戦局報告を毎日行い、他からの情報収集を不可能にして管理しました。
フィリップ・ナイトリー著「戦争報道の内幕」において、後者の方が戦争報道を阻害したとしている。

その理由は、概ね以下の通りです。
大戦時の記者は情報収集が比較的自由で、記事を工夫することにより検閲官を出し抜くことが出来た。
しかしベトナム戦争では、広報局からだけの隠蔽された一律の情報を待つ記者達は、工夫も意欲も無くしてしまった。
他にも、報道を歪曲する力がホワイトハウスから働いていたが、この「記者クラブ」の悪影響は大きかった。
一方、テレビ報道は新たな役割を果たし、戦争の真実を伝え始めていた。

連載16~18:報道特派員の苦悩1~3、に詳しい。



< 2. 裁判所 >

なぜ癒着が蔓延し、自律回復が困難なのか?
これまでの説明でも、納得出来ない方はおられるかもしれません。
例え新聞に期待出来なくても、他に救いがあるはずだと。

     裁判官や弁護士は、なぜ問題を明らかにしないのか?
これについて、「検察が危ない」で著者は明快に「出来ない」と述べています。
著者は例外ですが(笑い)。
この公僕達は実態を知ってはいるのですが、職業的に繋がっているため(転職しあう仲間だから)、互いに傷付け合うことは避けているのです。

     なぜ検察は横暴になっていくのか?
これについて著者は、検察の不甲斐なさを責め立てる新聞(世論)が一端になったことを挙げています。
政界を大きく巻き込む疑獄事件があって、それを検察がうまく暴けない時などがそうです。
このような時、検察は被告側が弱ければ生贄(冤罪)にし、被告側が巧みであれば法の適用を逃してしまいます。
郷原氏は、これについて、検察はセクショナリズムに陥っており、法適用が旧態依然だからと指摘しています。
こうなると、次の事件で名誉挽回に躍起となり、検察一丸となり軍隊式の白兵突撃を敢行することになる。
そして、特捜部が快挙(被告有罪)を成せば、検察上層部は出世に繋がると指摘する人もいます。


最後に
一番重要なことは、こと検察と新聞の癒着だけの問題ではなく、社会全体が網の目が張り巡らされたように癒着を起こし停滞し、やがて腐敗していくのです。
このような、官僚化=官僚制の逆機能(責任回避、秘密主義、権威主義、セクショナリズムなど)はいつの世にも起こります。
しかし、それを見張り、国民に知らせる立場の新聞(マスコミ)が、癒着してしまえば自力回復は不可能です。

これを打破するには、新聞(マスコミ)が本来の機能を果たせるように、何が重要であるかを国民が正しく認識することから始めないといけない。




Tuesday, February 18, 2014

社会と情報 22: 目次と要約 1~21話


これまで21話の記事を書き、約半分が終わりました。
これまでの記事の目次と要約を一覧にします。

目次と要約



 

9話まで、米国の内部後発を振り返り、社会と組織が再生する様子を見ます。
告発が起きる理由、告発者の葛藤、告発の価値について考えます。
国境警備で起きた内部告発を見ます。
 


内部告発に対する色々な見方を検討します。
タバコ産業を敵に回した内部告発を見ます。



タバコの害を訴えた告発が世界に与えた影響を見ます。
告発の経緯を見ます。



この告発事件は映画「インサイダー」で描かれました。
告発者が企業から徹底的に迫害され、最後に勝利する様子を見ます。



告発者のその後の活動を見ます。
内部告発を生みだす米国文化と告発者保護を見ます。



米国において、なぜ内部告発が注目されるようになったのか?
その背景を見ます。



19話まで、ベトナム戦争を振り返ります。
そこには政府と報道機関、国民を結ぶ情報が如何に重要な役割を果たしているかを見ます。
ベトナム戦争を概観し、政府が隠蔽する真実を告発する経緯を見ます。
この告発は米国の反戦ムードに油を注ぐことになった。




この告発事件はドキュンメンタリー映画になった。
巨大な国家を敵に回す孤独な闘い、ついには社会が彼を認める様子を紹介します。



ベトナム戦争へのレールは第二次世界大戦後から敷かれていたのです。
その原動力は情報によって作られた目に見えないイデオロギーでした。

11.       戦争拡大の道のり


ベトナム戦争はジャングルと水田で長い年月繰り広げられた。
5人の大統領に引き継がれ拡大していった様子を見ます。
 
The society and the information 12:  I would be grateful for your understanding in the United States.



この戦争を扱う以上、どうしても米国のミスを取り上げてしまいます。
この戦争を反省材料に扱えることに感謝します。


 

ベトナム戦争を指揮した大統領府の行動パターンを見ます。
告発者エルズバーグの分析を参考にします。
 


大統領府の戦略や判断、行動の問題点を見ます。
そこには情報操作や機密扱いの問題もあります。 
 
15.       真実は如何にして

 

この戦争中、米国では大規模なデモが起こったが、直ぐには終戦とはならなかった。
それは巧みな世論操作と、真実が国民に伝わらなかったことにある。


 

ベトナム戦争で活躍した記者達の記録から、真実が如何に伝わらないかを見て行きます。
戦場の様子と主要な問題点を拾います。

17.       報道特派員の苦悩 2


テレビや新聞は、莫大な量の情報を流すことが出来た。
しかし、政府はあらゆる手段を使い、真実の漏洩防止と情報操作に手を染めた。

18.       報道特派員の苦悩 3


戦場で取材する記者は、現地政府と米軍に目をつけられると仕事が出来ない。
さらに記者も人の子、米国民だった。
  
19.       国民にとって真実とは


報道する側にとって何が真実なのか?
また国民にも知りたい真実とそうでない真実がある。

20.      他者への無知 


当時のベトナム戦争を指揮した二人が30年後に会った。
両国は、この戦争を何処で間違ったかを検証する会談を行った。
それは非常に勇気のいる画期的なことだった

21.      他者への無知 2

 

両国の討議は、たわいない誤解の連続が戦火を拡大したことに気づかせた。

今後もよろしくお願いします














































Saturday, February 15, 2014

社会と情報 21: 他者への無知 2



ベトナムの王宮 

< 1.ベトナムの王宮 >

国の指導者達が如何に互いを誤解しながら戦端を開いたかを見ます。
前回に続いて、ベトナムとアメリカとの会談を参考にします。

戦争はどうして始まったのか
ベトナム戦争の始まりは、普通、60年のケネデイによる軍事顧問団派遣と考えられています。
しかし多くの戦争がそうであったように、開戦へと次第に高まる状況があったのです。
最も重要なのは国の指導者の意識で、それが誤解によるものであれば悲劇です。


蒙古がベトナムに襲来

< 2.蒙古がベトナムに襲来 >

幾多の誤解
開戦に向かわせた誤解を会談から拾います。

マクナマラ元国防長官
「我々は、ベトナムと中国の堅い同盟関係を信じて疑わなかった。だからベトナム戦争の終了後、わずか数年の間に中越紛争が勃発して、・・、私は心底びっくりしたんだ」

解説
当時、米政府はベトナムと中国が一枚岩だとし、ベトナムは中国の共産化の橋頭堡であると考えていた。
このことが米国のベトナムに対する、反共勢力への援助開始、南北分断、統一選挙反対、傀儡政権支援へと向かわせた。
不思議なことに、米紙府内に、誰一人としてベトナムが独立を目指して中国と2千年もの間、戦い続けて来たこと指摘する者はいなかった。

元米国務省ベトナム専門官
「私は第二次世界大戦中、中国に行きましたが、・・、自分が中国の何が理解できないのかさえ、わからなかったのです。・・中国にいたというだけで、・・アジアの専門家ですよ!
今ベトナムの出席者から、45年にホー・チ・ミン主席からアメリカに独立を支持してくれるように働きかけた時のことが持ち出されました。・・」

解説
当初、北ベトナムは、米国を反植民地主義の旗手と考え期待もしていた。
そしてホー主席がトールマン大統領宛に先ほどの親書を出した。
しかし米国は、それに対処することなく、ベトナムは失望することになった。
そこで彼はベトナムに理解を求めたのです。
当時、米政府のアジアへの関心は中国と日本だけでした。
その中国すら理解出来ず、ベトナム語も解らない人々が情報分析官であり、当然、ベトナムからの親書の重要性を理解出来るものは居なかったのです。


ホー・チ・ミン主席とボー・グエン・ザップ将軍

< 3.ホー・チ・ミン主席とボー・グエン・ザップ将軍 >

米のベトナム戦史学者
「アメリカは確かにアジアについて無知だったかもしれません。しかし無知の責任の一端はベトナム側にもあるのではないですか。あなた方はアメリカの政策責任者に対して、ベトナムが何を目指しているかということや、平和的解決を望んでいることなどを、全く説明しなかったのではないですか」

解説
米側は、ベトナムは当初から民族独立を目指していたことを会談で確認していた。
当時、なぜベトナムはこの説明努力をしなかったのだろうか。


元北ベトナム外務省対米政策局員
「我々は、アメリカと戦争を始める前に、10年間もジャングルの中でフランスとの独立戦争を続けていたのです。我々は、世界の情勢についてほとんど知るすべはありませんでした。・・・、アメリカというこの新しい敵についてはほとんど何もしらなかったのです。・・、私にはそんなことが可能だったとは到底思えません」


同時多発テロ事件

< 4.同時多発テロ事件 >

まとめ
この誤解は、ほんの一部で、最初の引き金になったものです。
後に、誤解と報復、力による脅し、血を厭わない徹底抗戦へと進んだのです。

実にたわいない話で、当時の指導者達の誤解とミスに呆れてしまいます。
当然、当時は戦意鼓舞のために、政府はこのような疑いに触れず、国民には敵と敵意を断言していた。

この4年後の2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件の報復に、米国はまた戦へと深入りしていきました。

今回で、ベトナム戦争関連は終わります。










Wednesday, February 12, 2014

社会と情報 20: 他者への無知

ハノイ紅河の夕陽

< ハノイ紅河の夕陽、Wikipedia より >

米国は圧倒的な軍事力で攻撃することが、早期に解決する手段と信じていた。
一方、米国からみれば北ベトナムは徹底抗戦を続ける無謀な敵でした。
この食い違いの真相は30年後の会談で判明することになった。
それは両指導者が、互いを知らず、憶測と誤解を重ねての結果だった。
このことを見ていきます。


参考文献
「我々はなぜ戦争をしたのか」東大作著、2000年刊。
この本は、1997年、ベトナム戦争の元指導者達が、一同に介して会談した記録の要約です。
この会談はマクナマラ元米国防長官が要請し、北ベトナムと米国の元要人が出席した。
彼らは真摯に戦争の過程を検証し、「機会をなぜ逃したのか?」の答えを探し求めた。


95年、ボー・グエン・ザップ将軍とマクナマラ元国防長官

< 95年、ボー・グエン・ザップ将軍とマクナマラ元国防長官 >

マクナマラの快挙
私が読んだ日本の近代戦争を扱った多くの本は、二度と戦争を起こさない目的には役に立ちませんでした。
右派左派の学者や評論家の書いた本には、戦争を主導した人々の判断や意識に不明瞭さがあります。
たとえ詳細であっても、公的記録の不足(焼却)、さらに発言や記録は一方の立場からだけの論証で正確さに欠けました。

それに比べ、マクナマラの行動は人類初の快挙と言えると思います。
彼は三代の大統領の下で、ベトナム戦争を推進した国防のトップであった。
その彼は、米国が間違いを犯してことを認めた上で、対戦相手の元北ベトナム側と、当時を振り返り、討議を通じて検証しようとした。

この会談の実現には多くの壁があった。
当時、戦った兵士やその遺族、将軍にとって、自国の非を前提に話し合うことは、屈辱に他ならない。
日本では、個の正義よりも社会のメンツ(国益)を優先するので、このようなことは到底困難だろう。



< 著書 >

もう一人の勇者
それは、この会談内容を日本で公開する為に奔走した一人の報道マンです。
彼は、この本の著者であり、このドキュメンタリー番組を製作したNHKのディレクターです。
彼はマクナマラの回顧録から、米とベトナムの対談の可能性を知る。
そして米国のマクナマラに接触し、議事録の公開と番組製作の許可をもらおうと奔走する。
当然、公開については多くの了解(米国とベトナム)が必要で、忍耐と時間を費やした。
最後には快諾され、各出席者へのインタビューも可能になった。
今までのNHKには、このように歴史的事件にとことん食らいつき、事実を深く掘り下げる気迫のあるディレクターがいる。
今後もこの気風が残ってくれると良いのだが。


65年、南ベトナムを訪れたマクナマラ

< 65年、南ベトナムを訪れたマクナマラ >

マクナマラの発言
「ベトナム戦争のベトナム側指導者と直接向かい合って対話をしたい。ベトナム戦争がどうして起きてしまったのか。それぞれの局面で互いにどんな情勢判断と命令を下して戦争に突入したのか、そして戦争を回避するためにはどうすればよかったのかを本気で議論し、後世に残したい」
彼はこのように言って会談の開催を友人に持ちかけ、プロジェクトは始まった。


ベトコン兵士

< ベトコン兵士 >

重要なこと
彼らの歴史に向き合う姿勢、メンツにこだわらず事実を重視する姿勢、他者への無知を潔しとしない姿勢に、米国の良心と偉大さを見る。

次回、幾つかの具体例を通して他者への無知が招く悲劇を見ます。














Tuesday, February 11, 2014

社会と情報 19: 国民にとって真実とは

 ホーチミン(旧名サイゴン)

< 1.現在のホーチミン(旧名サイゴン) >

今まで、ベトナム戦争を通して真実が如何に国民に伝わらないかを見て来ました。
一方で、必ずしも国民がすべての真実を欲しているわけではないのです。
今回、この問題を見ます。

何が真実なのか?
戦場の記者にとって真実とは何か?
一枚の華々しい戦闘シーンの写真、それとも残虐シーンでしょうか?
それとも戦略の適否か、兵士や人々の苦境でしょうか?
テレビや日刊紙の記者は日々追われるように、眼前に広がる光景を切り取るだけだった。
また記者にとって、戦争は最大の事件であり、その記事や写真は商品でもあった。
本国の編集者にとって、それは視聴率や購読量を増やすネタに過ぎないのかもしれない。

もし真実があるとしたら
戦争の正否や非人道性を判断し、その意味でどの記事が最適だと決めることは難しい。
南ベトナムの民衆の立場に立てば、記事は虐殺行為を訴えるのが最適かもしれない。
一方、米国民にとっては、犠牲を払って共産勢力を食い止めているのだから、記事は自国の被害と勝利こそが重要です。

1973年、和平による米兵の帰還

< 2.1973年、和平による米兵の帰還 >

伝わる真実とは
政府と戦場に都合の悪い情報は遮断され、都合の良い虚偽の情報が国民に与えられる。
記者と編集者の偏見や悪意のない選択が情報の偏りを生む。
しかし、さらに大きな障害が最後に待ち構えていた。
それは国民のムード、知りたい知りたくないことの揺らぎです。
これは日本も含めて、世界に共通する現象と言える。


ソンミ村事件

< 3.ソンミ村事件 >

ある虐殺事件を通して
一つの虐殺事件が世論を反戦へと押したが、ことはそう簡単ではなかった。
68年、ベトナムのソンミ村で、米兵の無差別射撃により無抵抗の村民(男女、乳幼児、妊婦)約500人が虐殺された。

その1年後、状況の改善を求めて、一人の兵士がその事件を多数の議員に手紙で告発した。
それを受けて一人の下院議員が軍事法廷を開始させたが、陸軍はもみ消そうとしていた。
元国防総省詰めのフリー記者が、これを嗅ぎつけ調査し、各新聞社に発表を働きかけた。
しかし、どこも本気で取り上げず、やがて半年が経とうとしていた。
その頃、ヨーロッパではこれが主要記事になり、米国の一地方紙が大量虐殺場面の写真を掲載した。
その後一気に米国を「良心の呵責」へと追い込んだ。
その後、急に多くの虐殺事件が報道されるようになった。

一方、この年、公約通りに米軍撤退が開始されていた。
政府は、爆撃による戦争拡大を秘密にし、終結に向かっていると国民を信じさせた。
すると、やがて国民は虐殺事件に関心を示さなくなっていった。


ベトナム戦争における米軍死者の推移

< 4.ベトナム戦争における米軍死者の推移 >

この現象の背景にあるもの
先ず、戦場では残虐行為は日常茶飯事であり、記者にとってニュースではなかった。
ソンミ事件以前にも、残虐な事件がわずかに報道されてはいたが、注目されなかった。
また報道の編集部は、国益に反し、国民の忌避が予想されたので、最初に残虐な写真を扱うには抵抗があった。
ところが68年から69年にかけて急激に死傷者が増え、30万人以上に達し、国民に厭戦気運が高まっていた。
そこで一気に火がついた。

しかし、国民が終戦は時間の問題だけと考え、関心を持たなくなると、編集部は、それを見越し戦場の報道を急速に減らしていった。
その結果、虐殺への関心は色褪せていった。
虐殺写真で一世風靡した写真家はその名声ゆえに、戦後、何処にも就職出来なかった。

それはあたかも、最大に膨らんだ風船を大きく破裂させる針の一刺しも、その前後では威力がないようなものです。

次回は、戦争当事国が互いに情報を持たないことで起こる失敗を見ます。












Friday, February 7, 2014

社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3

 戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

戦場は真実を嫌う
ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。
63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。
記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。
告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。
これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。
これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。
その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。
秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。
すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。
むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。


戦場カメラマンの石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

記者の葛藤
私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。
彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。
私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。
最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。
彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。
とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。
しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。



戦場カメラマンの岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

戦後、特派員が振り返って
前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。
「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。
そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。
『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。
なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

ある老齢の記者は言う。
「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。
ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」


ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。
一時は最大700名に上る特派員がいた。
検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。
しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。
爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。
さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

極論すれば
記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。
またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

次回、真実の報道と国民の関係を追います。