Monday, August 17, 2015

社会と情報 47: 戦った報道 4



 < 1. 日本の位置 >

明治維新後の社会変動で重要なポイントを見ておきます。
そこから報道の役割が見えてきます。
今回は、明治維新成功の背景を簡単に見ます



< 2. 日本は1910年代に巨大戦艦を建造できるようになった >

明治維新が成功した理由
なぜ日本は資本主義国家への転換を素早くこなし、半世紀ほどで日米英仏四カ国条約(1921年)を締結するほどの大国になり得たのだろうか。

混乱なく明治維新が進んだ理由
江戸時代末期、幕府と各藩は莫大な累積赤字を抱え、民衆は海外交易による急激なインフレに困窮し、抜本的な改革を望んでいた。
また西国(薩長土肥の4藩)は古来より海外接触の先進地域であり、海外交易の重要性や欧米の脅威と先進技術を最も身近に感じていた。
いち早く西国の各藩は、先進の知識を得た者を登用し革新的な藩政改革を行った。
特に薩摩はいち早く赤字財政を脱却し、欧米の最新産業技術を導入していた。

初めこそ、西国はパニックになり幕府の対応を批難し攘夷論を唱えたが10年ほどでこれを取り下げた。
この間、西国は攘夷実行と敗戦を経験し、一方で海外視察と長崎での情報収集を通じて方針を転換していった。
特に、開国で対応を誤ったアジア諸国、特に大国中国の教訓は大きかった。
この若き改革者達がやがて西国の連合による幕府打倒を主導していった。
この4藩の連合軍は最新式の兵器を有し、さらに商人や民衆の協力も得られた。
この時、欧米の参戦が無かったことで内戦の拡大が起き無かった。
これは、南北戦争を抱えていたように欧米各国の事情もあったが、おそらく幕府と西国の連合軍が共に海外勢参入を望まなかったこともあるだろう。



< 3. 長崎の出島は唯一海外との窓口だった >

維新後の改革が素早く進んだ理由
なぜ日本はこれほど素早く外国の文物の受け入れが出来たのだろうか。
元来、日本は他国の高度文明(中国やオランダ)を吸収し続けており、受容への抵抗はない。
この時の西国各藩の改革者達が、維新後の改革を主導したことは幸いした。
維新後の10年以内に、江戸時代の藩主と武士団はすべて解雇されたが、下級武士団出身の改革者達にとって失うものは少なく、利害関係も希薄だったろう。

外国の革命では、多くの場合、流血と破壊によって過去の支配層を葬ることになるが、日本では徹底的な破壊を避けつつ、大きな転換を成し遂げた。



< 4. 明治維新の完成を見ずにこの世を去った功労者達 >
左から、土佐の坂本竜馬、長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛。

さらに日本には好条件が揃っていた。
江戸時代後期、幕府は貨幣経済への対応で遅れたが、多くの地方都市において勤勉で近代的な経済活動が既に定着していた。

また空前絶後の改革が皆に共有出来たのは、日本列島の長年の安定で一体感のある文化が育まれていたからだろう。
このことは一重に、大陸の端にあり、適度に狭い海峡を隔てた島国で、大国から適切な距離にあったことが大きい。
それは侵略されず、文化の受容が可能な距離だった。
さらにこの島は大きな人口を、皆が自制することにより養える規模の豊かな自然(畑、森、海)を有していたことに尽きる。

さらに、第一次世界大戦の勃発は、日本を一気に経済大国に押し上げることになった。
当時、膨大な軍需物資を賄えたのは米国と発展途上の日本だけであった。


この成功の影に次の問題が萌芽しつつあった
国内の士族の反乱を押さえる為、徴兵制による直轄軍が誕生し、征韓論の過熱を経て台湾出兵へと繋がる。
最終的に明治政府首脳は4藩の内、薩長閥の軍人が握るようになり、軍主導によるアジア侵攻に繋がっていくことになった。

今一つは、この地理的な長所が問題でもあった。
それは国民が隣国の状況を、新聞と政府からの間接情報によってしか知ることが出来なかったからです。
このことが、後に災いをもたらし、いまだに日本を閉鎖的にしている。

次回に続きます。




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