Wednesday, April 11, 2018

何か変ですよ! 111: 誰の責任? 1





*1


日本の政治は風雲急を告げている。
今、政権が代わっただけで本当に問題が解決するだろうか?
真の刷新が起こらない限り、日本の衰退を止めることは出来ない。



*2


はじめに

よく安倍首相は自身の責任を幾度も委員会で言及して来た。
曰く、「私や妻が関係していれば辞める」に始まり「任命責任は私にある。お詫び申し上げる」、「行政の長として責任痛感」と幾度、聞いたことだろう。

彼の潔い公的な発言と、公私にわたる誹謗中傷、隠蔽、虚言(前言否定)、裏で行われている報道圧力との間には余りにも大きな開きがある。
また今回の森友・加計問題に象徴されているように中央官庁だけでなく全国津々浦々まで官吏の腐敗が進行し、安倍首相の意向(忖度)が行き渡っている。

この数年の安倍首相の言動を見ていると、彼は真摯に国民に向き合っているとはとても言えない。

それは都合が悪くなると出てくる安売りの外交アピール、拉致被害者親族の利用、膨大な海外援助資金の提供、煽る北朝鮮危機、トランプとの親密さなどのまやかしは目に余るものがある。
一番、皆さんが期待している景気好転も所詮、超金融緩和による世界の株価バブルと、日銀の国債大量買いと株価支えによる日本の株価バブルによるものです。
既にバブル崩壊は始まっており、今後、国民は甚大な痛みを長期に味わうことになる。
この株購入の日銀や年金基金の暴挙も、安倍首相が招いたものです(株価下落で大損失)。

報道の自由度に始まり、あらゆる幸福度(格差etc)や経済力を示す指標はアベ政権になってから低下を極めている。
さらに、より恣意的な支配の完成に向け、御用マスコミ強化を狙って放送法まで改悪しようとしている。
これは米国で「悪貨は良貨を駆逐する」の如く実際に報道を劣化させてしまった。

しかし、一方で心ある報道機関と野党議員、さらにはNPOや有志らが多大な奮闘をしている。
さらには官吏からの危険を冒したリークが増えつつある。
これらが実り、安倍首相の化けの皮はやがて剥がされるでしょう。

そして安倍が内閣から去ったとしましょう。
しかしそれで、本当に日本は再生出来るのだろうか?

この悲惨ではあるが、国民の声援の下で行われる偉大な転機にあって私達は何に留意すべきなのか?



*3


* 責任問題

既に見たように安倍のすべてが、彼は無責任で、特に将来についてまったく無責任であることを示している。

当然、安倍は責任を口にしているが延命を図るだけで、何ら効力の有る事はしないし、俗に言う責任は取らないでしょう。
それはこの1年間の他者に責任を転嫁し続ける悪癖から容易に察しがつきます。

ここで問題は、このような無責任な首相がかくも長きにわたり国政のトップに居座れたことにあります。

皆さんは、この腐敗した国政とまやかしの政策、その反動で今後起きる政治の混乱と経済低迷の責任は誰にあると思いますか?
(もっとも、まだ状況の悪化を把握していない人はいるが、やがてわかるはずです)

辞めた安倍に責任を取らせますか?
(3月11日現在、まだ辞めていませんが)

それとも内閣の各大臣、または中枢に纏わりつくエリート官僚でしょうか?
いや、アベに盲従した中央官庁のほとんど官僚と、追従し支え続けた自民党議員でしょうか?
それとも、縁故主義でおこぼれを得た数多くのアベ友応援団でしょうか?

彼らも安倍と同罪と思われるが、責任をとってもらうべきでしょうか?


実は誰も責任をとらないし、彼らは夢にも考えていない。

過去の経験から言えば、国政では誰も責任を取らないし、国民も責任を取らせない。
せいぜい首相の首が代わるだけで、議員は選挙で一時の禊(みそぎ)を受けても、またすぐ復活するでしょう。
アベ友応援団も同様でしょう。
官僚は首を切られても、ほとぼりが冷めると何処かに天下りして安泰で余生を送る。

これは福島の原発事故の前後を見れば明らかです。
事故前、並み居る推進派の原発学者や省庁は事故など起こり得ない、科学がわからない輩のたわごとと一笑に付していた。
これに同調したネットウヨは盛んに原発反対派をあざ笑っていた。
情けないが裁判所も同じでした。

当然、一部の学者や内部告発者は危険性を訴えてはいたが、政府とマスコミの巨大キャンペーンによって声は掻き消されていた。

安倍も事故の5年前、「全電源崩壊は起こり得ない」と公言していた。

しかし事故が起きると、すべて「想定外」で逃げることが出来た。

そして現在、福島原発の廃炉処理だけで70兆円も掛かろうとしているのに、原発推進を国民は許している。
この間、原発を推進して人物で辞める以外に誰か責任を問われただろうか?

日本は、かくも上層部や政府に甘いのです。

これが日本で繰り返されているのです。



*4


* だれが責任を負うべきか

結論は国民が責任を取るべきです。
分かり易く言えば自己責任であり、騙されたあなた方が悪いのです。

単純な話です。
はじめから危険と分かっている地に行って、危険な目に会ったらそれはあなたが悪いのです。
いまさら過激派に説教しても助からない(ジョーク)。


例えば大戦前のドイツを考えましょう。
ヒトラーの人気でナチスは当初、合法的に国会の議席を増やして行きました。
この間、ヒトラーは善人ぶっていたとか、危機を煽っていたとか、裏で内部抗争をしていたことがあっても、おそらく不正選挙はなかった。
しかし、国会議事堂放火事件の一回の捏造事件で、ナチスは国会の大多数を占め、遂にヒトラー総統が誕生した。
この間、国民はこの事件がヒトラ―の仕組んだ罠とは露ほども知らなかった。

その後の大戦とドイツの悲惨な状況は皆さんが良く知っておられます。

さて悲惨な結果の責任を誰にとって貰うべきか?

やはり主犯のヒトラーでしょうか。
国民の中には、途中から彼の異常に気が付いた人はいた。
しかし総裁と言う全国家権力を握らせてしまった以上、国民に正す手立ては既に無かった。
彼を詐欺罪や国家反逆罪で訴えることは無理だった。
彼は幾度も暗殺未遂にあいながらも生き延び、最後はベルリンを灰にし自殺した。

こうなっては後の祭りです。
日本がファシズムにのめり込んだ状況もこれと似たものでした(日本はドイツと違って反省をしていないが)。


この例からもわかるように、危険な人物を絶大な権力を持つ国のトップに選んだ時点で、すべてがアウトなのです。
騙されたなどの弁解は何の役にも立たない。

それこそ国政に対して各段階でチェックが必要であり、権力の暴走や腐敗を食い止めるシステムが必要です。
これを整え、監視するのが国民なのです。
また役に立たない議員を送り出した責任も国民にあるのです。


口惜しいことに、今回の安倍政権やアベノミクスの問題点を最初から指摘する人はいた。
原発事故以前のように・・。

どうか皆さんに考えて頂きたい。

なぜこのような腐敗した政治を招き、将来大きな負債を抱える状況にした首相を選んでしまったのか?
2018年4月11日に時点で、バブル崩壊とまでは断定出来ないが)

なぜ長期にわたる独走を許したのか?




*5



次回に続きます。








Tuesday, April 10, 2018

岡山と広島を訪れました 5: 広島城





*1

3月23日の朝、広島のホテルから歩き始め、広島城に行きました。
この日は快晴で、清々しい一日になりました。


 
< 2. 観光ルート、上が北 >

No.3のホテルから青線の道路を徒歩で北上し、ピンク線の路面電車に乗りました。
次いでNo.4の広島城まで官庁街の黄線を歩きました。


 
*3

上の写真: 左右に走るのが平和大通り、前後が中央通りです。
朝8:00にホテルを出た所で撮影した。

下の写真: 中央通りを徒歩で北上中。
街路樹の純白のこぶしが爽やかでした。
この広い通りは静かですが、この通りの左右には夜になると賑やかなところがたくさんあります。


 
< 4.八丁堀の交差点 >

ここは東西に走る路面電車とこれから乗る白島線の開始駅がある交差点です。
上の写真: 東西に走る路面電車が見えます。
奥の方が、西側、原爆ドームの有る方です。

下の写真: 白島線の路面電車が見えます。
これは縮景園前駅で降りた所です。





 
< 5.広島城に向かって歩く >

下の写真: お濠の前に立つ池田勇人銅像が見ました。

 
 
< 6. 広島城のお濠 >

裏御門跡から左右のお濠を見た。
上の写真が北側で、下の写真が南側を望む。
ここから原爆ドームまでは1kmほどなので、この城は原爆投下の折は完全に焼失したことでしょう。



 
< 7. 裏御門跡から入る >

敷地は広いが、天守閣と広島護国神社以外に建物はなかった。
後は木々が林立する公園と言ったところでしょうか。
人はほとんどいなかった。


 
< 8. 天守閣 >

お濠の石垣の上から天守閣の東側を見る。

桜はまだ早い。


 
*9


 
*10

上の写真: 西側のお濠を望む。
下の写真: ここで天守閣を見納めて、次の縮景園に向かう。


次回に続きます。




Monday, April 9, 2018

何か変ですよ! 110: 未来の壁 8






今回は、海外の歴史から日本の現状を打開するヒントを紹介します。
それは世界で感動を呼んだ数々のデモです


 
< 2. デモの地 >


* デモが社会を変える時

人々が集団で意思表示し、政治を変えた例を見ます

通常、国民議員や大統領の選挙公約選択し、政策転換や政治刷新実現します。
しかし、政治が国民を向かず、惰性に流され、腐敗まみれになって、通常の手段では埒が明かない時、国民に残された手段は直接行動しかない
国民は、国家(警察、軍)に対して無力なだけに出来る限り大きな集団で体を張っ訴えます。


* 世界の例
  
力の無い人々が知恵と情熱、そして団結することにより国を変えた行動には感動があります。
事例はかなりデフォルメし単純なストーリーにしています。

 
3 「A」


A: 独立を勝ち取った人間の鎖

1991年、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)はソ連からの独立をほぼ戦火を交えずに果たした。
これはソ連のペレストロイカが幸いしたのですが、民族を異にする三国が共に手を携えたことが大きい。

これは三国の首都を結ぶ600kmを、各国の600万人国民が手を繋いだ人間の鎖でした。

当時、各国政府は徐々にソ連の支配から脱しつつあったが、いつソ連軍が侵攻してくかを恐れていた(実際2ヵ国は短期間の侵攻を受けた)。
これら小国は数世紀にわたり、大国に支配され続け、独立抵抗の辛酸を舐めて来た。

1989年、彼らは世界に人間の鎖をアピールすることにより、2年後の西欧諸国のいち早い独立承認を得ることが出来た。

こうして彼らは平和裏に独立を勝ち得た。

ポイント
・ 小国が大国から独立する為に、彼らは武力ではなく国民の強い意志を世界にアピールする方法を選んだ。
・ 彼らは世界中に散らばった移民と協力しながら事を進めた。


 
4 「銃反対デモ」


B: 戦争を終わらせたデモ

米国は米ソ対立下で次第にベトナムで戦火を拡大させ、21年間で全死者800万人を出すに至った(爆撃量は大戦を上回った)。
米国の大統領が三代にわたり、のめり込んだ泥沼の戦争はなぜ終戦を迎えることが出来たか?

その転機は、学生らが中心になって全米各地で反戦デモを展開したことにある。
1967年と69年にワシントンで大規模デモを行い、71年まで続き、1回に最大30万人が参加し、総勢100万は越えただろう。
1968年には報道番組においてジャーナリストのクロンカイトが戦争継続に反対を表明した。

1969年、「名誉ある撤退」を掲げる相手候補を負かして大統領になったニクソンは、その後も戦線を拡大させていったが、一方で和平交渉を開始していた。

1971年、ホワイトハウスが隠蔽していたベトナム戦争の虚構を「ペンタゴン・ペーパーズ」が暴露し、反戦ムードはさらに広がった。

こうして1973年、和平協定が結ばれ、米軍はベトナムから撤退した。

ポイント
・ 議会や大統領は戦争拡大を容認し続けた(負けたままで止められない)。
・ 国民の反戦世論とデモが圧力になった。
・ ホワイトハウスに抵抗し戦争の真実を伝え続けた報道と内部告発は不可欠でした(今は規制緩和で力を失ったが、まだ日本よりは良い)。

蛇足ながら。
あれほど米国が恐れ、排除しようとした共産国家北ベトナムは無害だった。
彼らは米国の傀儡、腐敗した南ベトナム政権を打倒するのが主目的だった(戦後のマクナマラの会談で判明)。
この戦争は日本が防衛と称して朝鮮半島から満州に侵攻し、傀儡政権を擁立した状況によく似ている。

 
5 「C」


C: 東西を融合させた行進

今のドイツがかって壁やバリケードによって遮られていた国だったことは嘘のようです。
大戦後、ソ連と欧米によって分断させられた一つの民族が、なぜ半世紀後に再統合が出来たのか。

その契機は、東ドイツの都市ライプチヒの教会にあった。

東ドイツの共産政権時代、この教会は毎週月曜に平和のあり方を考える「平和の祈り」を細々と続けていた。
やがて言論・政治活動の自由を求める人々によって規模は拡大し、粛々とした行進を教会外で行うようになっていた。
彼らは警官隊の暴力に耐えながら、「自分たちの手で自由な国を創ろう」と訴え続けた。

1989年8月、数千人の東ドイツ国民がハンガリーの協力によりオーストリア国境を越えて西側に亡命を果たすピクニック事件が起きた。

この年の10月7日、東ベルリンで建国40周年記念式典に参加していたゴルバチョフは、上記の状況を無視し改革に背を向けるホーネッカー書記長を否定し、書記長は失脚した。

この2日後、ライプチヒで7万人の参加者が「我々こそが主権者たる国民だ」と叫びながらデモ行進を行った。

そして同年11月10日、東ドイツ政府は通行の自由を認め、ベルリンの壁は崩壊し、1年後に東西ドイツが統一された。

ポイント
・ 弾圧を受けながらも自由を求める非暴力の行進が大規模になり、国民の意思を政府に見せつけた。


 
6 「D」


D: 女性達の歌声が内戦に終止符

アフリカ西岸のリベリアは内戦で血まみれでした。
大統領も近隣のアフリカ諸国もこの内戦の停止を望むが、各地の武装勢力が入り乱れ交渉は決裂するばかりでした。
この内戦で25万人が死に、100万人の難民が生まれていた。

2002年、一人の女性レイマ・ボウィがキリスト教徒、ムスリムを問わず平和を訴える非暴力の「平和のための女性リベリア大衆行動」を組織します。
彼女達は白いTシャツを着て大統領の行列の前で歌い踊り、プラカードで停戦を訴え続けます。

やがて、彼女らは大統領との会見に成功し、ガーナでの和平交渉への参加を確約させた。
しかし、男達の交渉はいっこうに進展しなかった。

そこで彼女達は、ガーナの会議場に座り込み、交渉成立を迫った。
彼女らの強制排除が始まると、レイマは服を脱ぎはじめた。
アフリカでは、自分の母親の全裸を見ると不幸になるという言い伝えがあり、男達はようやく重い腰を上げた。

この結果、翌年に内戦は終結し、国連の平和維持軍が到着し、2006年のアフリカ初の女性大統領誕生に繋がった。

ポイント
・ 続く内戦で荒んだ社会にあって、女性の熱情が武装集団の深刻な対立を制した。

実は、彼女らは戦う夫への性交拒否と言う数少ない武器を使ってはいたが。
彼女はノーベル平和賞をもらった。


 
7 「E」


E: 一人の女性の「ノー」から始まった運動

米国がベトナム戦争に深入りし始めた1955年、南部の州都モンゴメリーで一人の女性ローザ・パークスがバスの席を譲らない事件が起きた。
彼女はバス内で警察官に逮捕され1日収監の後、罰金刑を課せられた。
これが後に米国を揺るがす大運動に繋がった。

これは黒人の彼女が白人専用の席に座り、人種分離法に違反したからでした。
この地に1年前赴任していたルーサー・キング牧師(26歳)がこの事件を知ると、彼はモンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼び掛けた。

利用者の75%以上を占めていた黒人が歩いたりして、バスを利用しなくなったのでバス路線を運営する市は経済的に大きな打撃を被った。
ローザ側は、人種分離の条例を違憲として訴え、翌年、連邦最高裁は違憲とし、公共交通機関における人種差別は禁止された。
ボイコット運動は1年以上続き、この違憲判決の翌日に収束した。

キング牧師はこの後、全米各地で公民権運動を指導し、非暴力と不服従を掲げて1963年にワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催した。

翌年、公民権法が成立した。

ポイント
・ 一人の冷静で勇気ある行動が、優れたリーダーの下に非暴力の大衆運動に結実し、選挙で変えることの出来なかった差別を突き崩すことになった。


 
8 「I」


他の歴史的なデモ

F: 1913年、日本で民衆数万が護憲を叫び国会包囲。
G: 1930年、インドのガンジーによる塩の行進。
H: 1993年、マンデラのサッカー競技場での演説。
I: 2016年、韓国で5ヵ月間、朴槿恵大統領の退陣求める100万人デモ。


 

* 最後に

日本の政府首脳と与党はデモを非常識な行動と非難し、さらに国民の非暴力の行進とアピールに対して、大量の警官隊が国会周辺を取り囲み封鎖し威圧している。

世界には非暴力のデモが、しばしば腐れきった政府や強権を発動する体制を刷新して来た。
これは人類が生み出した民主主義の重要な一発現です。



次回に続きます。








Sunday, April 8, 2018

岡山と広島を訪れました 4: 原爆ドームと夕食




 





1

今日は原爆ドームと広島での名物料理を紹介します。

 

< 2. 観光ルート、上が北 >

No.1は原爆ドームで、赤線は広島駅からの路面電車です。
原爆ドームを見学後、黄線を歩いてホテルNo.3に行きました。
No.2の料理屋「かなわ」で夕食をとりました。

翌日、23日の朝、ホテルを出て、No.4の広島城、No.5の縮景園と広島県立美術館を訪れました。
この縮景園は本当に素晴らしい、後日紹介します。



 
< 3. 原爆ドーム >

私達は初めて訪れました。
幾度もテレビで見ていることもあり、実はあまり感動しなかった。
しかし日暮れ近く、原爆ドームの背景が薄くピンク色に染まるのを見て、何かが私にチャンスを与えてくれたようでした。
この出会いを無駄にしたくないと思った。

 
< 4. 太田川 >

上の写真: 上流側(北)を望む。
下の写真: 下流側(南)。


 
*5

来訪者は少なかったが、西欧系の外人の姿が目立った。


 
< 6. ホテルに向かって歩く >

下の写真: 夕食で訪れる「かなわ」。


 
< 7.夕食のイメージ、HPから借用 >

これらは私達がこの旅行で最も張り込んだ食事、牡蠣料理です。
私が現役だった20年以上前、広島に出張したらご馳走になるのが牡蠣料理でした。

有名店なので期待していたのですが、私はガッカリした。
牡蠣が小さく、想像した半分以下の大きさだった。
ここ数年、赤穂やフランスで食べた牡蠣の大きさが脳裏に焼き付き、かつて広島で食べた牡蠣が私のイメージの中で巨大化していたのです。
店員にそれとなく聞くと、生食用に瀬戸内海沖近くの島の清浄海域で採取しているとのことでした。

しかし私はまだ納得できませんでが、翌日、ひょんなことからこの疑問は氷解することになります。

帰路、呉線に乗っていると、海岸線に牡蠣の筏を多く見ました。
近くに座っている旅慣れた中年男性に筏のことを聞くと、彼はこう言いました。

「ここの牡蠣は大きいが加熱用で、赤穂などと同じく栄養分が多い河口近くで育っ為に短期間で大きくなるが、生食には向かない。従って広島の生食用は小さい。」

私はこれを聞いて始めて納得した。

ここでもう一つ牡蠣の
1960年代の終わりから76年代にかけて、フランスの牡蠣が病気になり、全滅しかけたことがあった。
この危機を救ったのが日本のマガキの稚貝の輸入だったのです。

私が食べた牡蠣は・・・・


 

< 8. 原爆の被害 >

上の写真: 原爆投下前の広島。
星印が原爆ドームの位置。

中央の写真: 原爆投下1時間後の原爆のキノコ雲。
下側に瀬戸内海が見える。

下の写真: 被爆後の原爆ドーム。

* 広島市への原子爆弾投下について

第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍が日本の広島市に世界で初めて核兵器を実戦使用した。

爆心地周辺の地表面の温度は摂氏4000度にもなり、人口35万のうち14万人ほどが4ヵ月以内に死亡した。

原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされ、原爆死没者名簿には31万の名がある。
心より冥福を祈ります。

私の友人に長崎市の原子爆弾投下による被爆者がいます。
この悲惨で唯一の経験を世界平和の礎にしたいものです。



次回に続きます。

Saturday, April 7, 2018

何か変ですよ! 109: 未来の壁 7





*1


前回、海外への無関心と無知が偏狭を生むことを見ました。
今回は歴史、特に海外の歴史を理解しない弊害を見ます。




*2


はじめに

つくづく歴史を見ない人が多いことに溜息します。

私の周囲にはたくさん本を読む人がいる。
彼らの読書の嗜好は千差万別ですが、概ね日本の歴史に関心を持っておられます。
それでも多くは歴史ミステリーの謎解き(邪馬台国、聖徳太子など)が中心です。

そして彼らは自論を篤く語るか、多くは本の一節を読み上げることが多い。
彼らは自論が如何に見栄えするかに関心があるようです。

歴史を語る彼らに共通することは、自論に反する本は読まない、愛読する本に疑問を持たない、また本の引用が多く、自分なりの言葉で語ることが少ないなどです。
自論に関して知識は深いが、他の日本史に関心が薄く、まして中国を除く世界史にほとんど関心が無い。

これは以下のように解釈できる。

さして真偽の確認をせず一度自論が固まると、その後はまったく疑いを持たなくなる。
多くは好みの論調(左派右派)の受け売りで、ここでも村意識(帰属集団で安心を求める)が影響している。

また歴史のメカニズム(因果関係)に興味がなく、その知見を社会の理解に生かそうとしない。
例えば世界の古代都市の誕生パターン(メカニズム)を理解することは邪馬台国誕生の検証に役立ちます。

読書量の多い人でさえこれですから、本を読まない人に歴史を理解することなど期待できない。
学校では歴史の年号を記憶させても、そのメカニズムを識るように教育していない(かつて植民地では国民の覚醒を妨げる為、歴史や政治教育を行わなかった)。

狭い範囲での私の見立てですが、これが現状です。

このような状況で、前回取り上げた日本会議(保守派)の日本を美化する説は、多くの人を魅了することになる。

この歴史、特に世界の歴史を理解しないことが、未来への大きな第5の壁になる。



*3


* 私と歴史

もともと私は歴史が嫌いでした。
なぜ嫌いかと言えば、暗記が弱かったからです。
私は自然科学が好きで技術者として働いて来ました。

しかし、自然科学だけでは、疑問や問題の解決に役立たないことを痛感するようなった。
なぜ人は戦争を始め残虐になるのか、平和をどうして構築すべきか、なぜ国は衰退するのか、などの答えを私は探し続けている。
結局、日本史、中国史、世界史、人類史、進化論に広がり、美術史、法制史、医術史、宗教史、戦争史などにも手を広げました。

海外旅行に行くようになると、これまでの疑問―社会問題、美術、戦争と平和、宗教など、を解くために各国史を調べるようになりました。
これを繰り返して行く内に、少しづつ視界が晴れて行くことを実感するようになった。



*4


* なぜ歴史への理解が必要なのでしょうか?

一番は社会で起きている現象を正しく理解する為です。

技術者はトラブルを解決する為に、ある仮説を立て、これを実験で確認することが出来ます。
実は、これはこれでかなり困難なのですが、それでも対策を実施する前に正否を確認できます。

しかし、現実の社会問題ではそうは行かない。
一つは、自分で直接、現地調査もありうるでしょうが、ほとんど無理です。
結局は、新聞や論説、書籍などで調査することになる。

ここで問題は、相反する論説や報道の取捨選択です。

例えば南京虐殺事件に関して、日本の左派右派の肯定否定論が完全に対立しています(私は両論を計15冊ほど読んだ)。
こうなると自信を持ってどちらが正しいかを言い切ることは難しい。



< 5.南京城、赤線に注視! >


そこで中国側の資料(翻訳)に目を通してみる。
眉唾が多いかもしれないが、注意して読むと膨大な死体がなぜ消えたが分かってくる(ヒント、南京城の直ぐ横の長江の流量は1秒間に2万トン)。

また世界の虐殺史を調べると、人は置かれた境遇によって、平常時には想像出来ないような惨いことを犯すことがわかる(「殺人百科」など)。

アウシュヴィッツ収容所所長アイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントは彼を極悪人ではなく普通の小心者と評した。
後に、このことをスタンフォード監獄実験(1971年)が実証した。
これは、一般の正常な人を被験者にした心理学実験で、誰でも凶暴になることが確認された(危険な為、途中で中止された)。

つまり日本人は善良な民族だから、捏造と決めつけるのは短慮に過ぎる。

むしろ世界の戦史から見れば、他国に深く侵攻し欠乏する兵站に喘ぐ日本軍、さらには村意識(旅の恥はかき捨て)が強い日本兵の心境を考えると、何が起きるかは容易に予想がつく。
その例はアフリカ植民地での英仏兵、大戦時のドイツ兵やソ連兵、ベトナム戦争での米兵などに見られる。

さらに日本の文化(村意識)が、この事件の真相解明を困難にしている。
日本軍は証拠を残さない、また帰還兵は仲間を裏切る真実の吐露を行わない。
(佐川長官の在職時の日程記録はすべて破棄していた、注釈1)
当時、報道は完全に軍がコントロールし、まして一般人が直接現地を知ることは不可能でした。


結局、私達が平和を構築する為に、隣国との相互理解を妨げている事件や問題を理解するには、日本だけの狭く偏向した報道や論説だけで判断出来ないのです。

間接的ではあるが、世界史から人間の行動や社会のメカニズムを理解し、出来るだけ客観的に真実に近づかなればならいのです。

これが歴史、世界史を理解することの重要性です。



*6


* 歴史を理解するために

以前、私のブログ記事を批難した方が、その根拠に歴史は繰り返さないので歴史的説明は無意味だと指摘されたことがありました。
この論調は、ウヨの方に多いように見受けられるが、ある意味、ポイントを突いています。

この指摘を簡単に反証しておきます。

前述の南京事件の解説で読者は気づかれたかもしれないが、日本人が中国で起こした事に対して、私はポーランドやアメリカ、それこそ世界各地でドイツ人、米兵などあらゆる民族が関わった事件を援用して説明して来ました。
それこそ起きた時代も違います。

ベストセラーになった「銃・病原菌・鉄」「文明の衝突」「21世紀の資本」に始まり、各種スポーツの解説書に至るまで、世界各地、あらゆる民族と時代を扱っています。
私達読者は、そこに普遍性を当然のように見出して理解しています。
つまりウヨの方が言われることは、普遍性を非常に厳密に定義しているか、単に都合の悪い歴史を無視したいだけかもしれません。


* 大事なこと

繰り返しになりますが、日本人はどうしても狭量になり易い。
これを自覚し、自ら世界に向かって視野を広げることで、皆さんは日本の衰退に気付き、かつ対策を諸外国から学ぶことが出来ます。
さらに平和を構築する方法や近隣諸国との理解も得られるでしょう。

最後に、朗報を一つ。
文化心理学で東アジア人(中国、韓国、日本人)は西欧人に比べ、木より森を見る傾向があることがわかっています。
これは被験者に魚が泳ぐ水槽を見せた後で何を見たかを聞く実験です。
この時、西欧人は一番大きな魚の特徴を主に語り、東アジア人は背景の水草や小さな魚等を含めた全体を語るそうです。
つまり東アジア人は空間的には全体的な捉え方をするのです。


次回は、今を理解するヒントを歴史から紹介します。



注釈1
もし在職時の全日程記録があれば佐川の行動や面会の記録から、森友問題の解決に役立っと考えたNPO法人が情報公開請求を行った。
しかし国税庁からの回答は1日分の簡単な日程1枚で他は廃却したでした。
現代ビジネスの4月5日の記事。