Saturday, February 6, 2016

クロアチア・スロベニアを巡って 26: 傷痕の町モスタル 5






< 1. 「ネレトヴァの戦い」で破壊された橋 >

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の背景に迫ります。
そこには民族と宗教の皮肉な歴史がありました。

はじめに
写真1は、 1943年の「ネレトヴァの戦い」で破壊され保存されている橋です。
この戦いはネレトヴァ川で行われた。
第二次世界大戦中、劣勢のパルチザンはドイツ軍との戦いで大きな犠牲を出しながら後退していた。
この戦いでチトー率いるパルチザンが全滅を免れたことで、同年の旧ユーゴに誕生につながった。




< 2. ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡 >

上の写真: スレブレニツァ虐殺記念碑の墓地。
1995年、セルビア勢力がスレブレニツァの町に侵入し制圧を終えると、ムスリマの男性を1週間ほどで即決処刑し、その数は約8000人に及んだ。
この時、国連平和維持軍はいたが無力な為、制止できなかった。

中央の写真: 当時の避難する人々。
下の写真: 当時のモスタル郊外の惨状。



< 3. 戦いの果てに >

上の写真: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時のサラエボの惨状、セルビア勢力、国連平和維持軍。

中央の写真: 紛争前後におけるボスニア・ヘルツェゴビナ内の民族分布。
緑色はムスリマ(Bosniaks)、赤色はセルビア人、青色はクロアチア人(HRVATI)を示す。
黄色い点はモスタルを示す。
ムスリマへの壮絶な民族浄化は、その後の棲み分けを決めた。

下の写真: 現在のボスニア・ヘルツェゴビナは桃色のセルビア人と青色のムスリマとクロアチア人との連邦になっている。

悲劇の遠因、歴史の皮肉
この内戦では同じ南スラブ民族の三つの民族が戦ったが、敵味方の識別は宗教の違い、カソリックと正教会、イスラムでした。
最も残虐だったのは正教会勢力(セルビア人)で、その大統領は国際裁判所で戦争犯罪の公判中です。
村を焼かれ多くの青年が殺され追い出されたのはムスリマでした。
彼らは数百年前「ボスニア教会」と呼ばれる異端のキリスト教徒で迫害を逃れ、この地に移り住み、オスマン帝国の時代にイスラムに転じた。
やがて彼らは地主や富裕層になり、キリスト教徒であるクロアチア人やセルビア人を使役するようになった。

時は下り、南スラブ人の大連合を成し遂げた旧ユーゴ時代、初代大統領チトーは異なる宗派や民族の融和を図るために、人々の混住化を推進した。
そして平和な半世紀が過ぎた。
しかし、瑣末な意見の食い違いが生じ、やがて指導者の野望と民衆の疑心暗鬼が一体となって戦端が開かれると、一気に憎悪と不安が燎原の火のように広がっていった。

彼らは歴史的な怨念を互いに多少持ってはいたが、先日までは仲良く暮らしていたのです。


次回から、次の観光地を紹介します。







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