Monday, June 24, 2019

高知を旅行しました 2: 谷間の中岡慎太郎の生家




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今回は、伊尾木漁港と中岡慎太郎館を紹介します。
江戸時代の篤い想いが小さな漁港と小さな谷間で起こっていたことに感動しました。


 

< 2. 訪問地、 上が北 >

上: 赤枠が私の観光範囲で、下の拡大地図に相当します。

下: 訪問地の紹介

D: 伊尾木漁港
ドライブの途中に立ち寄った。
ここには道の駅大山と立派な石積堤がありました。

E: 中岡慎太郎記念館。
維新に奔走し龍馬と共に命を散らした中岡慎太郎の生誕の地。

雨が降っていたので、Fの北川村「モネの庭」 マルモッタンを後回しにしました。
幸いなことに、モネの庭に行く時には雨が止んでいました。


 
< 3. 今回紹介する訪問地 >

上: DEの説明は同じ、上が北
左上の安芸に三菱の創始者岩崎弥太郎の生家がある。

下: 中岡慎太郎館と生家を示す、上が南
星印ABは村の全景を見渡す写真撮影地です。

赤丸が復元された生家で、土佐国安芸郡北川郷の大庄屋だった。
川は奈半利川で、川沿いの左右に伸びる道が野根山街道です。
昔、高知から近畿方面に行くには北上して讃岐に出る土佐北街道と、この野根山街道を含む土佐東街道で徳島、淡路島から行く旧街道しかなかった。


 
< 4. 伊尾木漁港 1 >

到着したのは8時過ぎで、道の駅は開いておらず、土砂降りの雨でした。
トイレは使うことが出来た。
ヨーロッパと違って、日本では綺麗で無料のトイレが適所にあるので助かる。

この突堤にしては重厚な石積みが気になった。

江戸時代の終わり漁港整備にと内港の開削が進められ、石組の防波の建設に取りかかったが、藩の財政難から工事は中断した。
昭和50年代に発掘調査が行われ、当時の石積堤の一部が泊地の中に保存された。

思わぬところで昔の息吹を感じることが出来た。


 
< 5. 伊尾木漁港 2 >

 
< 6. 中岡慎太郎館 >

上: 中岡の像と慎太郎館
慎太郎館は大きくは無く、1階が常設展示で、2階は特別展でした。
1階の展示は分かり易く工夫されており、入館者が少なかったこともあり、じっくり見て、彼の役割と偉大さに気付くことが出来た。


 
< 7. 生家が見える >

中岡像の近くから見下ろす。

左側の竹藪に囲まれた茅葺の家です。
村の家々は狭い谷間の斜面に張り付くように建っている。
奥に奈半利川と今渡って来たバイパス道路の橋が見える。
この橋は星印のある橋とは異なる。


 
< 8. 橋の上の星印Aから 1 >

上: 見え難いが川沿いの左側に田畑が広がる。
これがこの村にとって最大の平地なようです。

下: 村の家々が見える。
中岡慎太郎館は中央の最も高い所にある。
生家は右にある。


 
< 9. 橋の上の星印Aから 2 >

奈半利川の下流を見ている。


 
< 10. 野根山街道の星印Bから見ている >

上: 先ほどの橋。

下: 村の全景。


かつて維新への情熱を胸に坂本龍馬、中岡慎太郎、岩崎弥太郎らもこの道を通り、この村と川を眺めただろう。

何か熱い感情が込み上げて来る。
中岡慎太郎館を見て、この街道に立ち、村を見ていると彼らの胸中に去来した想いにもっと近づきたいと思った。


中岡慎太郎について
彼は庄屋の出自だが、龍馬と並んで維新での役割は大きい。
土佐藩の龍馬と中岡は海援隊と陸援隊を組織した。
中岡の凄い所は剣を持って戦いもしたが、日本を東奔西走し、討幕の為に敵対する人々を大同団結させたことにある。
敵対していた薩長を、犬猿の仲の公家岩倉と三条を仲介し、幕府の勝海舟とも親交を深めた。

私にとって新たなテーマとなりました。


次回に続きます。






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