Wednesday, April 29, 2020

中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで






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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。
その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。
途中、1回目の夕食場所も紹介します。


 
< 2.东巴文化博物馆 >

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。
小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

上: 入り口。

左下: 納西族の民族衣装。
庶民の普段着のようです。
町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)
説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。
実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。
(現在は衛生上の理由で禁止されています)
火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。
この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。


ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。
麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。
またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。
現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 
< 3. トンパ教 >

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。
宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。
したがって一般に使われる文字ではなかった。

左上: シャーマンの衣装だろう。

右上: ナシ族の兵装だろう。
この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。
トンパ文字が記されています。

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

下: 降魔杵
おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。




 
< 4. シャーマンと儀式 >

上: トンパ教の祭式場を再現。
これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

左下: 代々のシャーマン。
冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

右下: 儀式の一つ。


 
< 5. 湖の東岸を戻って行きます >



 
< 6. 古楽器を演奏する人々 >

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。


 
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< 8.锁翠桥 >

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。


 
< 9. 玉河广场に戻った >

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。
日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。


 
< 10. 軽く夕食 >

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。
夕方5時頃でしたが、客は少なかった。
料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。
それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。
数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。


 
< 11. 玉河广场から四方街への通り >

この通りがメインで、道幅が広い。
菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。
ツアー客が、どんどん増えて来た。
どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。


 
< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。
ショッピング好きにはたまらないでしょうね。
ここでは中国製だから安いと言うことはない。


 
*13

黑龙潭からの川の流れです。


次回に続きます。




Tuesday, April 28, 2020

世界が崩壊しない前に 22: 様々な危機







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身近に迫っている危機とは?
被害の大きなものをリストアップします。



 
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1.  地球温暖化
2.  生態系の破壊
3.  農水産資源の枯渇
4.  地下資源の枯渇
5.  森林破壊
6.  水不足
7.  海洋汚染
8.  貧困と所得格差
9.  平和の破壊
10.  パンデミック
11.  巨大化する自然災害
12.  先新技術の誤用
13.  移民・難民
14.  暴走する経済活動
15.  金融システムの崩壊
16.  暴走する社会・国家
17.  細るエネルギー供給
18.  教育と情報の格差



 
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幾つかの被害例を見ます。

*「平和の破壊」とは、戦争、内戦、テロ、核戦争などです。
犠牲者はベトナム戦争で800万人、一度核戦争が勃発すれば地球全滅で75億人でしょうか。

*「パンデミック」とは、伝染病のコロナウイルスなどです。
スペイン・インフルエンザによる死亡者は世界で4000万人でした。
この時の感染数は世界人口の30%と言われています。

*「金融システムの崩壊」の代表例は、ほぼ10年毎に繰り返されているバブル崩壊ですが、今後、別の崩壊が起きる可能性もあります。
リーマンショックでは、米国だけで1800兆円の家計正味資産と退職勘定資産の1/3を瞬時に失った。
当然、被害は世界に及んだ。


被害規模は甚大になると思われるが、予想しづらいものも見ておきます。

*「地下資源の枯渇」で切実なものは、埋蔵量が後20年ほどしかない幾つかのアースメタルやレアメタルです。
さらに1~3ヶ国に産出シェア70~90%を握られている資源もある。
経済封鎖が起きれば大国と言えども一溜まりもない。

*「先進技術の誤用」で心配なのは、遺伝子操作やバイオ技術でしょう。
金融技術や情報通信技術などは非常に有用だが、間違えば社会を傾ける可能性がある。
半世紀前に誕生した原発は、安直に突き進んで方向転換出来ない残念な例です。

*「情報格差」で目立つものは、巨大プラットホーマー(Googleなど)によるビッグデータ利用や国家の諜報活動で、監視社会が進む可能性がある。
また教育と情報の多寡が経済活動の優劣を制し格差を助長する可能性が高い。


残念なことに日本は、長期の経済衰退を招いている政治経済社会の沈滞が深刻で、上記の様々な危機に対応出来る体力が無い。
今回のコロナ危機で明白になったと思います。


次回に続きます。

Monday, April 27, 2020

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 神秘的な元伊勢内宮






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今回は、宮津街道沿いにある元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を紹介します。
そこには山岳信仰の神髄が集約されているように思える。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

ピンク線が散策コースで、黒四角の駐車場から半時計周りに、赤四角で示す元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を順番に巡りました。
茶色線が大江山から下って来た宮津街道です。

伊勢内宮は小高い山の中腹部、そこを西側に少し下って遥拝所、さらに宮川まで降りて天岩戸に辿り着きます。
この宮川は前回紹介した「日本の鬼の交流博物館」の横から流れています。

地図に見える神社の左にある城山が、日室ヶ嶽遥拝所から望む山のはずですが、その名称がおかしい。
この城山は日室ヶ嶽や岩戸山と呼ばれているらしく、グーグルマップでは日室ヶ嶽は別にある。

散策時間は、途中で弁当を食べて1時間と少しかかりました。


 
< 3. 駐車場から歩き始める >

参拝口の近くに大小駐車場が2ヶ所あります。
門前町らしいものはなく、村の端の階段から登って行きます。



 
< 4. 京都丹後鉄道宮福線の車両が走って行く >

静かな所なので、列車の音が谷間に響いていました。
また宮川の流れも、発電所があるためか、よく聞こえました。


 
< 5. 森の静寂に包まれた階段を登る >

おそらく高低差100m以内の、緩い傾斜の階段が巨木の杉の森の中を進む。
境内が見え始めた。


 
< 6. 本殿が見えた >

広い境内に幾つかの伝統的な神社の建物が建っている。
訪れている人は私達以外に一組の夫婦だけでした。

上: 奥に見えるのが元伊勢内宮皇大神社の本殿です。

下: 本殿の内部。


 
< 7. 参拝を終え、日室ヶ嶽遥拝所に向かう >

少し下るが、道は広く勾配も少なく歩きやすい。

上: 至る所に巨木の盛り上がった根があり、それらが苔むしている。
深い森、群生するシダ、せせらぎの音、木漏れ日の道、実に、深山幽谷の神社を訪ねる趣がある。
それも手軽に味わえるのが良い。

下: やがて三角形の山頂が見えて来た。
これが日室ヶ嶽(城山、岩戸山)です。


 
< 8. 日室ヶ嶽遥拝所 >

上: 遥拝所より日室ヶ嶽を望む。
この山が元伊勢内宮皇大神社の御神体です。
頂上付近には岩の祭祀跡があるとされる。
夏至の日には日室ヶ嶽の山頂に太陽が沈む神秘的な光景も見られるそうです。
実に、この展望台は日本人好みの山がちょうど西側にあると言う好立地です。

下: 遥拝所から天岩戸神社までは、急な下り坂が折り返しながら続きます。


 
< 9. 宮川に辿り着いた >

上: 宮川沿いの道に出た。
右奥に見える小さな社は、龍燈明神です。

左下: 宮川に降りる階段が見える。

右下: 途中の踊り場から階段を見上げた。


 
< 10. 踊り場からさらに下る >

上: 踊り場にある鳥居。
この鳥居を抜けてさらに、急な階段を川まで降りる。

左下: 降りる階段を見下ろしている。

右下: 階段を降り切った所から上流側を望む。
残念ながら水嵩が増しており、道が冠水して天岩戸神社の下まで行けない。


 
< 11. 天岩戸神社 >

上: 降り切ったところから下流を望む。

左下: 同じ場所から天岩戸神社を見上げる。
身を乗り出して何とか見ることが出来た。
社殿は岩盤の上に建てられており、裏手に御座石がある。
参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。
私達が弁当をここで食べている間に、一人の若者が熱心に礼拝に来ていまっした。

右下: 踊り場に戻ると、小さな参拝所があり、そこから天岩戸神社を撮影。


 
< 12. 踊り場から谷を望む >

上: 谷底を見下ろす。

下: 目の前の木立の新緑に目を奪われた。
生命力を感じさせる素晴らしい淡い緑が谷を覆っている。

きっと紅葉の時は美しいだろう。


 
< 13. 駐車場までの戻り道 >

緩やかな道が1km弱はど続きます。
但し、車でここに入って来ると、対向車を交わすのが困難だと思います。

この元伊勢神宮はお薦めです。
豊かな自然の中にある神秘的な三つの場所、大きな神宮、山を見上げる展望台、渓谷の社が素晴らしい。
日本の神道、山岳信仰をコンパクトに体験できます。


* 元伊勢内宮について *

なぜこの地が伊勢神宮と関りがあるのだろうか?
これが福知山に惹かれた理由の一つです。

調べてみると天照大御神を祭る元伊勢内宮は、中部地方から山陽までに数十ヶ所もあります。
それは、崇神天皇がそれまで居所内に祀っていた天照大御神の神霊を娘に託し、約1世紀かけて遷座を繰り返し、今の伊勢神宮に落ち着くことなった神話と関りがあります。
それは約2000年前の事とされています。

そして遷座の位置は説によって異なり、その一つがここなのです。
この宮津街道を南に3km行った所に元伊勢外宮がありますが、これも同じような理由で遷座しています。
元伊勢外宮は神体が異なります。


次回に続きます。


Sunday, April 26, 2020

中国の外縁を一周して 32: 少数民族と歴史の町、麗江に到着






*1

これから数回にわたり、世界遺産の麗江を紹介します。
標高2400mの秘境に明清代の町並みが、疏水と共に今も息づいています。
かつて麗江古城のナシ族は、ここを通る茶葉古道で繁栄していた。
ここは本物の歴史の町と言えるでしょう。


 
< 2. 麗江の位置、上が北 >

上: 赤四角が麗江で、黒線が550km離れた成都からの航路です。
麗江が属する雲南省は東南アジア各国と国境を接し、西でチベット自治区とも接しています。

下: 麗江三義国際空港に着陸(借用写真)
成都から1時間半の飛行で空港に到着した10時半頃は晴れていたのですが、だんだん曇って来ました。


 
< 3. 麗江三義国際空港 >

上: 空港全景(借用写真)
手前が国内線ターミナル、奥が国際線用。

中央: 上の写真で黄矢印の方向から見ている(借用写真)
丽江三义机场国内航站楼の2階が見えている
私はエアチャイナで国内線ターミナルに到着。
ターミナルは2階建で、到着したら1階に降りる。
小さな空港なので分かり易い。

下: エアポートバス(借用写真)
私が乗ったのは机场巴士市区线(民航蓝天宾馆(福慧路方向)行き)。
上の写真でピンク矢印辺りが、ターミナルの1階を出た所にあるバス乗り場です。
ここから麗江の中心部まで約50分で着きます。
バスの発車は飛行機到着に合わせて発車します。
エアポートバスの切符売り場(小屋)はターミナルを出た所にあります。



 

< 4.麗江の俯瞰図、上が北 >

麗江は険しい山岳地帯の小さな盆地にあり、近くを長江が大きく蛇行しながら流れています。
お目当ては麗江古城と呼ばれる町並み保存区で、大きさは約1km四方です。

上: 赤矢印が今回のホテル、黒矢印が民航蓝天宾馆、赤丸が空港です。


ここで少し注意点があります。

エアポートバスが到着した民航蓝天宾馆(小さなバスターミナル)には、タクシーが数台停車していた。
ホテルまで500mぐらいしかないが、タクシーに依頼すると快諾してくれた。
ところがホテルは麗江古城内にあり、車が入れない為、手前で下ろされ、歩いて行くことになった。
これは仕方がないのですが、私のホテル、嵌雪楼客栈は小高い丘の上にあります。

そこに登る階段がきつく、とてもスーツケースを持って上がれない。
仕方なく、ホテルまで手ぶらで行き、フロントに荷物の運搬を頼んだ。
フロントは英語が喋れて、快諾してくれた。
やがて屈強な男が出て来て、二人分のスーツケースをホテルまで運んでくれた。

私は、事前にメールでホテルが高台にあるので、近くまでタクシーで行けるかと問い合わせしたら、「問題ない」との返事で安心していた。
何とか事なきを得たが、通じないものです。


下: 俯瞰した衛星写真(グーグルアース)
奥の白い山が標高5596mの玉龍雪山です。
赤矢印が麗江古陳で、赤丸が空港方面です。

全長6300kmの長江は麗江の左(西)20kmまで近づいた後、北上し玉龍雪山の後を回り、また南下し、東に流れて太平洋に注ぎます。
長江の源流はまだ2千kmほど先で、玉龍雪山の遥か左奥に始まる。
長江を麗江から遡って120kmほど先の、ちょうど玉龍雪山の裏の方向に、香格里拉(シャングリラ)のチベット仏教の巨大寺院、松赞林寺がある。
茶葉古道は雲南省南部の普洱茶の産地から麗江と香格里拉を通り、最終ラサに至ります。


 
< 5. 今回紹介する所、上が北 >

左: 赤丸1がホテルで、麗江古陳(古城)のほぼ北の端になる。
ピンク枠がおおよその麗江古陳の観光範囲。
赤枠が黑龙潭景区(玉泉公园)。
赤線が黑龙潭までの徒歩ルート。

右: 今回紹介する黑龙潭の散策ルート、赤線です。


 
< 6. 嵌雪楼客栈 >

上: 入口の一つ。

下: 入口の前から玉河广场を見下ろす。

麗江に数あるホテルの中から、ここを選んだのは、ここが高台にあり古陳を見渡せることが一番でした。
それに造りが納西族(ナシ)の重厚な館風で、場所が古陳の北端にあるので便利だと考えたからです。
スーツケースの持ち運び以外は、予想以上に良かった。


 
< 7. ホテルから黑龙潭に向かう >

左上: 階段上の右側がホテル。

右上: 階段下の細い通りから別のホテル入口を望む。
この通りの高台側にはホテル、谷側には売店が多い。

下: 同じ通りから玉河广场を見ている。
この通りの左側に小さな小屋があり、そこで麗江古陳保護費を支払う。
黑龙潭への入場は、麗江古陳保護費の領収書があれば良い。
保護区の麗江、束河、黑龙潭に入るには80、40元が必要ですが、私達は65歳と70歳以上なので、パスポートの提示で無料になります。


 
< 8. 玉河广场 >

広場は観光客、ツアー客で一杯だ。
日本人の団体観光客を見ることは無かったが、日本人観光客らしい一組の夫婦を見た。

下: 右上にホテル嵌雪楼客栈が見える。


 
< 9. 川に沿って黑龙潭に向かう >

上: 水は透き通り、川藻が揺れている。
この水は黑龙潭から流れている。

下: 川の右側は、古風な建物や売店が並んでいる。
川の左側は、モダンな店らしい建物の建設ラッシュでした。
私には興覚めですが。

 
< 10. 川沿いの散策 2 >


 
< 11. 入口が見えて来た >

黑龙潭は、18世紀、清のの乾隆帝によって玉泉龍王廟として作られたのが始まりです。


 
< 12. 得月楼 >

上: 湖の端に辿り着いたら、対岸に有名な得月楼が見えた。
右手前に五孔橋が見える。

実は、天気が良ければ、得月楼の左奥に雪を被った玉龍雪山が聳え立ち、この湖面に雄姿を映すはずでした。
この写真を一番撮りたかったのですが、残念無念!


 
< 13. 途中、出会った人々 >

上: 中国の女性三人組
今回、中国を観光していて北京と麗江の観光地で漢服を着ている若い女の子をよく見かけた。
今、流行のようです。
それで記念と思い、一緒に写真をお願いしたら、快諾してくれた。

下: 散歩しているナシ族のお婆さんと孫がいたので、写真をお願いした。
喜んで被写体になってくれた。
お婆さんの服が民族衣装です。

散策していると観光している東南アジアの若い男女グループを見たので不思議に思い、声をかけました。
彼らはベトナムから来たとのことでした。
なにせ雲南省はベトナムと国境を接していますので近い。
写真はありません。




 
*14.

 
< 15. 得月楼を反対側から見ている >

下: 奥が麗江古陳の方向です。


 
< 16. 公園内でゲーム楽しむ人々 >

下: ここから折り返し、湖の反対側を周ります。

ここで一度、后门を出て直ぐ前にある丽江东巴文化博物馆に行きます。

これは次回、紹介します。



Wednesday, April 22, 2020

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 大江山の自然とロマン







*1

今回は、京都府福知山市の歴史と自然を訪ねました。
大江山にまつわる神代の伝説と平安歌人の想いを紹介します。
また大江山八合目から宮津街道の自然を紹介します。


 
< 2. 今回の訪問地、上が北 >

上: 太い線は宮津街道を示します。
私が訪れたのは赤枠の大江山周辺と矢印4の福知山の城下町です。
城は明智光秀が造りました。
訪問地は、いずれも宮津街道に接しています。
訪問したのは2020年4月15日です。

宮津街道は江戸時代、宮津藩が参勤交代で使った宮津と福知山を繋ぐ道でした。
古代より、大江山近くの峠を越える道は丹後方面を結ぶ主要な街道でした。
現在は両地点を舞鶴若狭自動車道と京都縦貫自動車道で結んでいます。

下: 上の地図の赤枠を拡大した地図。
太線が今回紹介するドライブルートです。

矢印1とG: 大江山山頂近くの鬼嶽稲荷神社。
矢印2: 日本の鬼の交流博物館。
矢印3: 元伊勢内宮と天岩戸神社。
S:  京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。 
 
私は福知山から宮津街道をドライブし、鬼の交流博物館を見学の後、頂上に向かいました。
それから折り返し元伊勢内宮までドライブしました。
この時の写真がGからSまで順番に並んでいます。

途中の茶色の矢印は、分岐して北上する宮津街道です。


 
< 3. 百人一首と鬼伝説 >

上: 和泉式部の娘の小式部内侍の歌です。
私は当初、平安貴族がこんな山奥について歌う理由が分からなかった。
理由は、母の和泉式部が夫の赴任地の丹後で暮らしており、その寂しさを天の橋立に通じる宮津街道に思いを馳せて詠ったからでした。
生野は福知山よりも京都よりの地名です。

下: 源頼光による鬼退治、酒天童子伝説。
なぜ大江山は鬼退治で有名なのか?
それは鬼の交流博物館に入って分かりました。


 
< 4. 日本の鬼の交流博物館 >

上: 日本の鬼の交流博物館の外観
左の大きな鬼瓦のモニュメントが、駐車場がある入口側です。
この博物館は酒天童子の里にあり、周囲には多くの野外レクリエーション施設があります。

下: 内部

 
< 5. 鬼瓦と鬼の面 >

如何におおくの寺院の屋根に鬼瓦が使われていたがよく分かりました。
また日本全国の民俗芸能や神事、能で使われた鬼の面が展示されています。


 
< 6. 日本の鬼、世界の鬼 >
上: 岩手県の山村に今も伝承されている鬼の人形。
この男女のシンボルは、天明の飢饉以降、災いから村を守ってもらいたいと鬼に願を掛けて作っているものです。

下: 世界中の鬼の面。
写真には中国や韓国、南アジアの面が見えます。


* 大江山の鬼退治伝説 *

この初出は古事記の土蜘蛛退治で、次いで聖徳太子の弟による土熊討伐、最後に源頼光の酒天童子征伐があります。
実は、この「酒天童子の里」は銅鉱山の跡地に作られています。
この大江山一帯には古くから銅などの鉱物が産出していた。

そこで二つの説があります。
一つに、村人は鉱山から流れる鉱毒を恐れ、鉱山の職人集団を恐れた。
今一つに、朝廷が北辺の恭順しない部族を討伐し、さらには鉱山を奪う為に鬼退治と称した。

どちらにしても鉱山が重要な役割を果たしていたようです。


 
< 7. 鬼嶽稲荷神社 >

上: 展望台から望む東側
ここは標高832mの大江山の八合目にあり、東側に視界が広がっています。
秋の早朝の雲海が絶景だそうです。
写真中央に見える三角錐の山は日室ケ嶽(標高427m)だと思います。
実は、後に元伊勢内宮に行きますが、そこの日室ヶ嶽遥拝所から逆方向にこの山を見上げることになります。

下: 鬼嶽稲荷神社

この前で達者な老人と出会いました。
彼は私達を見ると、寄って来て話しかけて来ました。
「これから頂上に行くのは良いが、クマザサには入らないように」
私がなぜかと聞くと。
「熊が出るから」
納得してしまった、それで熊笹と書くのかなと(?)。

彼がカメラをぶら下げていたので聞くと。
彼はブナの花の撮影に行くと言って、一人で急峻な山道を登って行きました。
次の写真の山道です。
今が季節のようです。


 
< 8. これから元伊勢内宮を目指してドライブです >

上: 山頂に向かう道。
下: 麓から鬼嶽稲荷神社まで車で行ける道路。

 
 
< 9. 酒天童子の里までの道 >

桜の多くは終わりでしたが、まだ見頃のものもありました。

 
< 10. 酒天童子の里 >

ここには多くの施設がありますが、コロナの関係でほとんど閉まっていた。
私はトイレを探して日本の鬼の交流博物館に借用に行ったのですが、入館できますよと言われて入りました。
コロナ危機以降、出来るだけ入館せず、店にも寄らず、ハイキングとドライブだけにしようと心掛けていましたが。
入館して良かった。


 
< 11. 宮津街道と二瀬川渓流 >

上: 中央を左に延びる道が9号線で、左に行くと宮津に出ます。
私達はこの9号線を三叉路で右に曲がり、二瀬川渓流沿いに元伊勢に向かいます。
現在は舗装された幅の広い道ですが、当時の旧宮津街道は細い山道で、石畳の道などが山林を抜け、峠を越えながら現在の道と並行したり重なったりしており、今でも残っているようです。

下: 三叉路を曲がって9号線を福知山に向かって走る。
左は二瀬川渓流です。


 
< 12. 二瀬川渓流沿いを走る >

 
< 13. 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅 >

上: ここも三叉路で、ここを奥に進むと毛原の棚田に行くと看板があります。
私はここを右に進みます。

下: 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

元伊勢内宮は直ぐです。


次回に続きます。