Wednesday, July 25, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 15: 1日目、ストックホルムに着く




< 1. 1泊目のホテル >


これから北欧旅行記を始めます。
今日はストックホルム近郊のホテル到着までを紹介します。
航空券、エアチャイナ、乗り継ぎの情報も紹介します。


* はじめに

北欧旅行の情報、特に一人で、フリーで安く行きたい人に役立つと思います。

私が北欧旅行を計画し始めたのは2017年12月初めでした。
旅行の目的は、北欧の今、暮らし、文化、経済、歴史を知ることでした。
見たいものは首都、郊外の町、観光地、博物館などです。
さらに様々な事を自分で体験することによって、現地の事情や人々に触れ合うことも目的でした。

この旅行の計画で重視したことは、①安くする ②三ヵ国の首都を効率よく巡る ③仕事の都合で水曜日を2回以上使わないことです。

* 安くする為に

旅行会社を一切通さず、インターネットですべて自分で手配し、問い合わせはメールで現地と直接行いました。

一番は最安値の航空運賃を探すことでした。
航空券検索サイトskyscannerで徹底的に調査しました。
三つの首都を巡るのに空路、鉄道、フェリーの組み合わせ、またどの順序(時計逆周り)で周るかを比較しました。

その結果、関空発→乗り継いでストックホルム空港→鉄道→オスロ→フェリー→コペンハーゲン空港発→乗り継いで関空。
圧倒的に安かったのがエアチャイナでした。

北欧の旅行シーズンは6月から8月なのですが、航空運賃の最安値は5月中旬から下旬の出発でした。
現地のクルーズ船など観光用の乗り物の多くは6月になってから増発されるので、あらかじめ調べておく必要があります。
また出国・帰国便は共に金・土曜日発が高いので外しました。
そうすると出国便は2018年5月31日(木)で帰国便は6月10日(日)の12日間になりました。

12月末に購入した航空券はすべて込みで68880円と非常に安い。
購入はエクスペディアで座席指定も行い、ホテルの予約と同時に行った。
なぜかコペンハーゲンからのスカンジナビア航空(エアチャイナとの共同運航)の座席が指定出来ず、不安を抱えたまま出発した(後にトラブル)。


* このチケットの注意点

キャンセルと変更が出来ません(ほとんど金額が戻って来ないはず)。
帰りの乗り継ぎがストックホルム空港と北京首都空港の2回あり、北京の乗り継ぎ時間が6時間40分もある。

* エアチャイナの感想
トラブルはあったが、機内サービスや北京首都空港の対応に満足しており、安いのでまた使用したい。
気になることと言えば、中国人客が圧倒的に多く、日本語の出来るスチュワーデスが居なかったことです。
提供された料理に遜色はないが、座席で見る映画は少し貧弱だと思う。

荷造りで気をつけることがあります。
バッテリーはすべて機内持ち込み手荷物に入れるべきです。
エアチャイナのホームページには容量によって受託手荷物に入れることも可能と書いてあります。
しかし、チェックカウンターで受託手荷物の差し止めに遭う可能性があると言われ、バッテリーとカメラをすべて受託手荷物(スーツケース)から出して機内持ち込み(リュック)に入れ直しました。

エアチャイナは中国からヨーロッパ各地に飛ばしているので、うまく使えば、安く旅行出来そうです。
ただし関空発で中国の空港で乗り継ぐことになり、乗り継ぎ時間がかなり長くなる(1~11時間ほど)。


今回、初めて自分で航空券を手配し、Eチケットをプリントアウトし、関空で使用したが、まったく問題なかった。
関空のエアチャイナのチケットカウンターで多く質問したが、丁寧に答えてくれました。



 
< 2. 今回の空路 >


行き帰り共、北京首都空港で乗り継ぎました。
帰りの空港でトラブルが発生した。
結局はまったく損害無しに帰国出来ました。
後日、紹介します。

今回は、行きの空路でのエピソードを紹介します。
それは飛行機の遅れと北京首都空港の乗り継ぎです。


 
< 3. 北京首都空港、写真は借用につき参考 >

関空発は午前9:00の予定だったのですが、離陸が大幅に遅れ、北京空港着は予定より1時間以上遅れた。
機内では私だけでなく他の乗り継ぎ客もやきもきしていた。

私は乗り継ぎ便に間に合うかとパーサーに聞いたが、大丈夫との返事が帰って来た。
後でスチュワーデスが、乗り継ぎ便のターミナル番号を教えてくれたのでありがたかった。

しかし、不安が増すことになった。
航空機がターミナルから遠く離れて停機し、何台ものバスでターミナルに向かうことになった。
かつてドバイでバスを乗り間違えた記憶が蘇った。
バスに同乗していたパリに帰国する人の乗り継ぎ便の搭乗時間は既に過ぎていた。
私の北京での乗り継ぎ時間は2時間30分あったのですが、なにせこの空港は初めてなので焦りました。



 
< 4. 国際線の乗り継ぎ >

実は、バスがターミナルに着いてからターミナル内を足早に進みましたが、結局、十分余裕を持って次の航空機に搭乗することが出来ました。

事前に乗り継ぎについてよく調べることが出来き、ほぼ迷うことが無かったのが幸いした。
非常に大きな空港なので、迷うと時間を浪費してしまいます。

上記のサイトは、空港の入国出国や様々な乗り継ぎを手続きの段階ごとに詳しく説明しています(英語)。
上記図はInternational to International 「国際線から国際線への乗り継ぎ」を説明している図の一部です。
もう一つのサイトは簡易版です。

一番役に立ったのは、関空のチケットカウンターで貰った「中国国際航空 乗り継ぎガイド」です。
これは中国の空港毎の乗り継ぎを、手続き場所の写真を使って日本語で説明しています。

今回の乗り継ぎで重要なことは、バスを降りたら先ず3階に行くこと、そして上の図の黒線の矢印に従って進み、たくさんのゲート(出国検査)に人が並んでいる所には並ばず、左端に向かうことです。
上の図の太い湾曲した青線は1階からの吹き抜けを示します。

左端にInternational Transferの看板を掲げた小さな部屋があります。
ここでパスポートと次の航空券などを見せます。

ここを過ぎたら狭い通路を抜け、直ぐに2階に下ります。
ここでもし係官が立っていれば、「トランジット」と言うのが良いでしょう。
すると人があまり並んでいない乗り継ぎ用の「保安検査」への通路を開けてくれます。
このルートを使って、出国する人も居るので。

ここを出ると、後は国際線の搭乗ゲートに向かうだけです。
ここまでの空港内の案内表示、パーサー、スチュワーデス、係官の対応が良かった。

一番の教訓は、乗り継ぎ時間を十分に取ることです。



 
< 5.ストックホルム・アーランダ空港 1 >

空港は比較的小さく、スーツケースを引き取り、迷わず出口まで行くことが出来ました。
しかし私はこの空港で渡航最初にやるべきことが二つありました。

一つはStockholm Pass for 2daysTravelcard for 7 days を購入することでした。
事前にインターネットでの購入について調べ、空港のビジターセンターに問い合わせのメールを送ったのですが返事もなく、よくわからないままでした。
ホテルや現地ビジターセンターなどへのメールはすべて返事が来ましたが。

図6の赤線の端にある赤丸のビジターセンターに行き、二つを購入しようとしたが、販売しているのはTravelcardだけとのことでした。
Stockholm Passはストックホルムを観光する前に、中心部のどこかで買う必要があります。

今一つは、ホテル行きのバス停を探すことでした。
このホテルにメールで事前に問い合わせして、バス停番号と出口から歩いて数分と言うことは知っていたのですが、空港のホームページでは位置関係がよくわからなかった。


 
< 6.ストックホルム・アーランダ空港 2 >

下の空港全体図の赤枠が、拡大図の範囲です。
赤線が私の通ったルートです。
図中のLevel2は1階のことです。
私の便は2階Level3のゲートに停機し、パスポートチェックを経て、1階のターンテーブルでスーツケースを取り、チェックもなく直ぐ出ることが出来ました。



 
< 7.空港のビジターセンター >

ここでTravelcardを購入した。

このカードで結構広いストックホルム市内全域の公共交通機関(バス、地下鉄、トラム、近郊電車、船)が自由に乗れます。

近郊電車の線路に長距離列車が走っていますが、これには無料で乗れないはずです(間違うことはなかった)。
船・フェリーは対岸を結ぶもので私は使用しなかった。
遊覧船は別会社で有料ですが、後に購入するStockholm Passに含まれている。

Travelcardは非常に役立ちました。
特に、毎回切符購入の手間がいらず、広範囲の移動が出来たのが良かった。



 
< 8.空港の出口を出たところ >

出口を出るとすぐ左(下の写真)に大きなバスターミナルがありました。
指定された番号のバス停で待ちました。



 
< 9.バスに乗ってホテルへ >

送迎バスは数か所のホテルを巡って、最後に私のホテルに着きました。
十人ほどが乗り合わせましたが、最後は私一人になりました。
このバスは朝の4時頃から24時頃まで40分間隔で運航しており、無料です。
10分以上乗ったでしょうか。
ホテルは木立に囲まれた住宅街にありました。


 
< 10. ホテル Best Western Arlanda Hotellby >

一度はこのような郊外にある木造のホテルに泊まりたかった。
このホテルを選んだのは、次の朝、シグツーナに行くのに便利で、空港のホテルより安かったからです。


次回に続きます。





Saturday, July 21, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 14: スカンディナヴィアが育んだもの






< 1. ヴァイキング船 >


今日は、北欧三ヵ国がなぜ先進的で民主的な国家になりえたかを考えます。
その礎はスカンディナヴィアの自然と地理にあった。


* はじめに
スカンディナヴィアは半島も意味するが、同じ民族が起源のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの国土も意味する。

この地域はヨーロッパの北端にあるが、ノルウェー湾を流れる暖流によって寒さは緩和されている。
さらにノルウェー沿岸は豊かな漁場です。
しかし古くは、陸では一部畜産が可能だが総じて農業は不調で、林業が重要な資源でした。

南側のバルト海は大きな内海のようなもので、デンマーク、スウェーデン、フィランド、ロシア、バルト三国、ポーランド、ドイツを結ぶ役割を担った。
バルト海はヨーロッパと東方の交易を発展させ、東方に向かったヴァイキング(8-12世紀)がロシア誕生の切っ掛けを作り、次いでハンザ同盟(13-17世紀)の繁栄を生んだ。



 
< 2. スカンディナヴィア >

上の地図: 三つの枠は写真の撮影地を示す。

下の地図: スカンディナヴィアから出たヴァイキングの航路を示す。
ヴァイキング拠点の内三か所は黄色枠内のストックホルム周辺ビルカ、赤枠内のオスロ湾、白枠内のコペンハーゲン近郊のロスキレです。

他に重要な箇所はユラン半島の二か所とノルウェー湾側です。



 
< 3. スウェーデン >

三枚ともストックホルム近郊の湖です。
スウェーデンは深い森で覆われ、南部はこれに広大な湖が加わる。
古くは農耕に適していなかった。
しかしこの入り組んだ湖と島嶼のおかげで小舟が発達し、ヴァイキングに繋がった。

デンマークの自然景観はスウェーデンに似ているが、森は深くなく農業や酪農が可能だった。
また海岸には浅瀬や入り江も多く、これまた小舟が発達した。

 
< 4. オスロ湾 >
 
私達にはノルウェー湾側のU字型の深い渓谷のフィヨルドに馴染みがあるが、オスロ湾もフィヨルドです。
ノルウェーはノルウェー湾と北海に囲まれ、豊かな漁業資源とフィヨルドによって、これまた船が発達することになった。

これら北欧の景観は、すべてを完全に覆っていた氷河が1万前頃から後退したことによって出来た。



 
< 5. デンマーク >

上の写真: エーレスンド海峡
左にかすかにクロンボ―城が見える。

下の写真: クロンボ―城の大砲がエーレスンド海峡に向けられている。

デンマークは特別な地政学的役割を持っていた。
ユラン半島は大陸と繋がり、さらにバルト海と北海を繋ぐ役割を担っていた。
大陸と繋がっていることで一早く西洋文明が流入して来たが、その一方で大国の侵攻に悩まされた。

古くはヨーロッパの北方の東西交易はユラン半島の根元で、バルト海の海上から陸上へと荷の積み替えで行われていた(ハンブルグを通過)。
やがて航海術が発達すると、船はエーレスンド海峡を抜けて北海とバルト海を直接結ぶようになった。
このことでデンマークは海峡を通る船に関税を掛けて国庫は豊かになった。
しかし、この海峡が周辺国にとって軍事と交易上の拠点になったことで、首都のコペンハーゲンが幾度も攻撃されることになった。



 
< 6. 木造 >

上の写真: ノルウエー民族博物館にあるノルウェー南西部の農家。
これは18から19世紀の特徴を持った小屋でノルウェー湾沿いのフィヨルドの村に建っていたものを移築したものです。

下の写真: ロスキレのヴァイキング船博物館のヴァイキング船。
上記小屋の右側壁とこの船の板の重ね具合(鎧張り)が似ている。
写真No. 1のヴァイキング船はオスロのヴァイキング船博物館のものです。
板の重ね具合は同じ。

北欧三ヵ国のヴァイキング船の造りは皆似ているが、ノルウェーのものは他の二ヵ国より大きい。
これは荒海を航海する為、また豊富な高木(オーク)に恵まれたからでしょう。



 
< 7. 北欧の産物 >

左上の写真: 琥珀が埋め込まれたサンホルダー。
コペンハーゲンの国立博物館で。
青銅器時代(BC1700~BC500年)のもので、柄の形から船などに取り付けられたらしい。
赤い琥珀が非常に魅惑的でした。
琥珀はバルト海周辺が有名ですがデンマークでも採れ、琥珀街道を経て地中海まで送られたことでしょう。


右上の写真: コペンハーゲンの市場の魚介類。
北の海は豊かで、中世より西ヨーロッパの胃袋を満たして来た。

下の写真: ノルウェーのフラム号博物館横の捕鯨砲。
捕鯨が盛んだったノルウェーが最初に捕鯨砲を装備した捕鯨船を実用化した。


初期にはスカンディナヴィアの三ヵ国はヴァイキングとして北海やバルト海を経て主にヨーロッパ方面の略奪、黒海方面との交易、次いで西ヨーロッパに移住するようになった。
一方、ドイツ勢の北方十字軍(12世紀~)などがバルト海の大陸側に植民地を拡大し、各地にハンザ同盟都市が組織され始めた。

一方、キリスト教が定着したのはデンマークで10世紀半ば、スウェーデンで12世紀半ばでした。
これら交易と宗教の大転換が、ヴァイキングの終焉を確実にしたのだろう。

やがてスウェーデンのストックホルム(13世紀半ば~)とノルウェーのベルゲンがハンザ同盟都市として発展した。
コペンハーゲンと上記二つの都市には多くのドイツの商人や雇われ高官が住むようになり、進んだ知識がドイツからもたらせることになった。



 
< 8. フラム号博物館 >

上の写真: ノルウェーのビィグドイ地区。
左がフラム号博物館で、右がコンティキ号博物館。

コンティキ号はノルウェーの人類学者が、インカ文明の筏を再現したものです。
1947年、彼はこの筏でペルーから海流に乗って南太平洋の島に辿り着いた。
このことでポリネシア人がアメリカ・インディアンの子孫であることを証明しようとした(本当はアジア人が祖先)。


下の写真: 実物のフラム号の甲板上にて。フラム号博物館で。
船を囲む映像や効果音、瞬く光で、あたかも船が北極海を進んでいるような気分になった。

この船はノルウェーの探検家ナンセンが1893年から3年をかけて北極海を漂流した時に使用したものです。
さらにはノルウェーの有名な探検家アムゼン、世界で初めて両極点に到達した彼が、この船を2回使用している。

実はヨーロッパ大陸の人間が最初に北米大陸を発見したのはノルウェーのヴァイキングで、1000年の初めにグリーランドから北米の北端に達していた。
彼らは移住出来ずに引き返すことになった。

このようにノルウェーを含めてスカンディナヴィアの人々は冒険心が旺盛です。
これは現在にも受け継がれている。
人口(需要)や資源の少なさを埋める為に科学技術や多言語習得を重視し、販路やチャンスを海外に求めることに積極的です。
今も若者は一度は海外に出ることを家族から奨励される。


 
< 9. エコと森に囲まれた公園? >

上の写真: コペンハーゲン。
大都会だが車は少なく自転車が多い。

デンマークには有名な風力発電機メーカーがあり、国全体の電力の2割が風力発電機によって賄われている。
北欧はエコ(省エネ、環境保護)の意識が非常に高い。
これも美しい森や湖と共に暮らしているからもしれない。

しかし私が1984年に北欧を訪れた時、ここまで自転車は多くはなかった。
ここでも関心することは、おそらく石油価格の高騰に合わせて国民全体が車社会からの転換を図ったのだろう。
北欧の凄い所は、政府と国民が一緒になって社会経済を変え続けることです。

下の写真: 皆さん! これは公園でしょうか?


 
< 10. 墓地 >

上の写真: ストックホルム近郊の墓地で、No.9の下の写真はその入口です。
朝訪れると、ジョギングする人に出会った。

下の写真: オスロの墓地。
共に非常に広大な墓地で、造り方のコンセプトは一緒でした。

スウェーデンには世界遺産の「森の墓地」スクーグシェルコゴーデンがあります。
しかし、この二つの墓地を見れば「森の墓地」が画期的な構想で造られたものではなく、北欧文化に根差した死生観を表象したものであることがわかります。
彼らは森と共に生き、森に帰るのです。


* あとがき

北欧の心性を考えるとき、際立つものがある。
それは国民の政治意識の高さと、労働界と経済界の協力関係です。

ノルウェーからのヴァイキングが移住したアイスランドでの決め事はかつて全島集会で行われていた。
つまりヴァイキングの成員は平等だった。
ヴァイキングは略奪品として奴隷貿易を行ったが、自身の社会では奴隷制が発達しなかった。
また強力な貴族が生まれず国家誕生も遅れ(1112世紀)、封建制も未発達でした。

この要因の一つに少ない農作物の余剰があったと推測します。
また北欧へのキリスト教の布教は進まず、国家誕生と同時期になった。
これらにより人々は貴族や司教による強力な支配を免れ、また王と貴族の力が均衡することになったのだろう。

このことが国家誕生後の王家の有り様に影響した。
王家が危機に瀕すると人々は貴族らを牽制するために他国から王を招聘することを度々行った。

こうして北欧ではヴァイキング時代から、脈々と民主的な政治運営が続いていると言える。
つまり、自分達が動かす政治だからこそ政府を信頼しており、これが絶え間ない革新を生むことに繋がっているようです。


次回に続きます。




Wednesday, July 18, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 13: 戦争と平和





< 1. デンマーク軍のコペンハーゲン凱旋 >


今日は、北欧三ヵ国の戦争と平和を取り上げます。
北欧は長い戦いの末に先駆的な外交政策を行い、自国だけでなく世界の平和に貢献している。


 
< 2. 北欧の戦争 >

この地図は北欧三ヵ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)が如何に周辺諸国と戦争をして来たかを示す。
この地図はヴァイキング時代後の国家間の戦争を示している。

一方向の矢印は、一方的な戦争または侵攻を示し、黒は植民地化を示している。
周辺国以外の北欧の植民地は除いています。
両方向の矢印は通常の国家間の戦争です。

北欧の中ではスウェーデンとデンマークが、かって周辺諸国を併合し帝国と呼ばれた時代があった。
デンマークはユラン半島で大陸と陸続きなので、特に国境を接しているドイツと領土争いを長らく繰り返した。
写真1はその戦いの一つシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(19世紀)の一幕です。


 
< 3. ストックホルムにて >

上の写真: ユールゴーデン島のヴァーサ博物館のヴァーサ号。
これは17世紀のスウェーデンの戦艦で、初航海で沈没したのを引き上げ復元したものです。
64門の大砲を有する堂々とした全長69mの戦艦が蘇っています。

この戦艦はスウェーデンによるバルト帝国の最盛期を象徴している。
スウェーデンは16世紀初頭よりバルト海周辺諸国を併合し、1618年に始まった30年戦争(最大の宗教戦争)にプロテスタント国として参戦した。
この戦艦はバルト海に面したドイツの港の攻城戦に投入される為に、1628年に重装備を重ねて出港したが沈没した。
30年戦争が終わった時、スウェーデンは北ドイツにも領土を得ていた。

下の写真: ガムラスタン(旧市街)の大広場。
バルト帝国を築いたヴァーサ王朝はこの大広場で起きた事件を契機に誕生したと言える。

1520年、この広場で「ストックホルムの血浴」と呼ばれる虐殺が起きた。
当時、北欧三ヵ国はデンマーク王家が支配するカルマル同盟を結んでいたが、スウェーデン国内では独立を目指す内戦が続いていた。
反乱軍を制圧したデンマーク王は晩餐会を開くと偽り、スウェーデンの有力者を招き、この広場で多数処刑した。

この裏切りに怒ったスウェーデンの人々は、この事件で父を虐殺されたヴァーサを指導者にして独立戦争を戦い抜き、3年後に独立を得た。
こうしてヴァーサ王朝が誕生した。


 
< 4. オスロにて >

上の写真: ノルウェー抵抗運動博物館の外観。
小さな建物だが、地下にも展示場が広がっている。

建物に掲げられている肖像画はホーコン7世で、彼は第二次世界大戦でドイツの支配に抵抗したノルウェー王です。
これを描いた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」が最近日本で上映された。
この博物館は当時の国民の抵抗運動を展示している。


下の写真: 博物館の展示。


 
< 5. オスロ湾にて >

上の写真: 写真の左側の島がオスロ湾で最も狭いドレーバク水道にあるオスカシボルグ要塞Oscarsborg Fortressです。
フェリーからオスロ側(北側)を見ている。

実はこの要塞からの砲撃が「ヒトラーに屈しなかった国王」のストーリーを作ったと言える。
この要塞を守る指揮官がオスロ湾に侵入するドイツ艦隊に独断で砲撃し、その旗艦を撃沈した。
私は映画を見て、これが及び腰の政府や象徴的な存在であった国王親子に抵抗する機会を与えたように思った。
ノルウェー各地から攻め込んだドイツ軍は圧倒的に優勢だったが、王家と政府の逃避行、ホーコン7世の降伏拒否、そして英国への亡命によって、国民はナチスの支配を拒否した。
こうしてノルウェーのレジスタンスは終戦まで続いた。

下の写真: 映画「ヒトラーに屈しなかった国王」。
タイトルはノルウェー語で、「王のノー」です。

この映画はスぺタクルではなく、主に国王の葛藤を描き、銀幕から王家の役割と大国に抗う小国の悲哀がひしひしと伝わって来ました。


 
< 6. クロンボ―城の地下 >

上の写真: デンマークのシェラン島北東部、幅7kmのエーレスンド海峡に睨みを利かすように建っているクロンボ―城。

下の写真: このクロンボ―城の地下に眠るホルガー・ダンスク像。
彼はフランク王国のカール大帝(8世紀)に歯向かった中世ヨーロッパの伝説上の英雄です。
やがてデンマークで、洞穴の眠れる英雄が国の有事に復活するというホルガー・ダンスク伝説が出現した。

第二次世界大戦中、デンマークもナチス・ドイツに占領されたが、この時のデンマークのレジスタンスは「ホルガー・ダンスク」と名乗った。



 
< 7. ロスキレ湾とヴァイキング >

上の写真: この地はヴァイキング時代の拠点の一つでした。
ここにヴァイキング船博物館があります。

下の写真: これらは沈没していた5隻のヴァイキング船の内の2隻で、修復され復元されたものです。

オスロ湾は奥深く入り込んでいて水深が浅いのですが、幾筋かの細くて深くなっている水道があります。
11世紀、5隻の船は敵の襲撃を防ぐために、この水道の一つを塞ぐように沈められていた。
このロスキレは11世紀から15世紀半ばまでデンマーク王国の首都でした。

ヴァイキング時代は11世紀半ばで終焉するのですが、この頃には侵略する側から攻められる側にもなっていた。







 
< 8. コペンハーゲン港の要塞 >

上の写真: カステレット要塞。
この写真は運河クルーズ船から撮影したもので、右側に人形の像が見える。

この要塞は上空から見ると典型的な星型要塞で、17世紀半ばに造られた。
しかしその雄姿を忍ばせる面影はない。
コペンハーゲン港は幾度も大艦隊による大規模な破壊に遭い、古い姿を留めることができなかった。


下の写真: Trekroner Fort
左側に見えるのがコペンハーゲン港の入り口にある島の要塞で、18世紀初頭に造られた。

ナポレオンが覇権を拡大する中で、中立を望んでいたデンマークではあったが、その圧力に負けてフランス側に付くと、フランスに敵対した英国は大艦隊をもってコペンハーゲンに来襲した。
1801年、デンマークとノルウエーの艦隊、そしてTrekroner Fortなどが英国艦隊を迎え撃ったが、あえなく敗北を喫した。



 
< 9. フレデリクスボー城と絵 >

上の写真: フレデリクスボー城の中庭。
この城は16世紀中頃より19世紀中頃までデンマーク王の居城だった。
またこの期間はスウェーデンがカルマル同盟から独立していたが、ノルウェーはデンマークに統治され続けた時代にちょうど重なる。
この地はコペンハーゲンよりはオスロに近い場所と言える。

下の写真: フレデリクスボー城に掲げられていた絵。
額に「・・コペンハーゲン・・1659年2月10-11日」と銘記されていた。
この前年からスウェーデン軍は凍結した海峡を渡りコペンハーゲン港を攻略しており(氷上侵攻)、デンマークはこの敗北によってスウェーデン南部などの領土を失った。

スウェーデンが勢力を拡大し続ける中で、17世紀中頃からデンマークは小国へと没落していくことになった。
しかし、スウェーデン(バルト帝国と同盟軍)もヨーロッパを二分した大北方戦争(1700-1721年)でロシア帝国と同盟軍に破れ、没落することになった。






 

< 10. ノルウエーの平和貢献 >

上の写真: オスロ湾に面して建つノーベル平和センター。
ノーベル平和賞と平和について展示。

ノーベル賞の創設者ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与だけはノルウェーで行うことにした。
これはなぜなのか?

北欧三ヵ国の中でもっとも人口の少ないノルウェーは1450年からの長きに渡りデンマーク、次いでスウェーデンに支配され続けて来た。
やっと1905年、ノルウェーはデンマーク王家から王子を迎え、立憲君主制を樹立し、平和裏に独立を行った。
この王子が「ヒトラーに屈しなかった国王」のホーコン7世になった。

映画によると、彼がヒトラーに降伏しないと返答したのは、自分が国民に選ばれた象徴(王)に過ぎず、勝手に重大な決断をすべきでないと考えたからのようでした。
この王の自覚と身命を賭した行動は、国民との間に絶大な相互信頼があったからでしょう。
この王家の姿は、北欧各国に通じるものです。


下の写真:  陸軍博物館の横にあるノルウエー退役軍人協会の建物。
その前に止めてあるカーゴの絵は、ノルウエー軍のアフガンでの活動を示しているようです。


* あとがき

現在、北欧各国は中立政策を維持し、一方で紛争国の仲介外交と国連の平和維持軍派遣などで世界平和に貢献している。

北欧の中立政策は小国ゆえとヨーロッパの北辺にあることだけで成し得たのではない。
多くの大国に囲まれ、時には圧力に屈し、軍備を保有しながらも周辺国からの信頼を重視する外交は特筆に値する。

また北欧、特にノルウエーとスウェーデンは世界平和に貢献してきた。

両国は多くの内戦激しい地域、コソボやソマリア、アフガンなどに平和維持軍を派遣して来た。
スウェーデンの元外交官ハマーショルドは2代目国連事務総長を務め、コンゴ動乱の調停に活躍したが、その途上、原因不明の墜落事故で死去した。
またスウェーデンのストックホルム国際平和研究所はこの分野では有名です。

ノルウエーは中東和平で大きな足跡を残している。
敵対するイスラエルとPLOの仲立ちを行い1993年、オスロ合意を取り付けた。
しかし調印したイスラエル首相が同国の和平反対派によって暗殺され、画期的であったが結局、進展することはなかった。


次回に続きます。