Wednesday, September 26, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 28: ガムラ・スタンを歩く





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今回は、ストックホルムで最も楽しみにしていた旧市街ガムラ・スタンを紹介します。
この街は戦争による破壊を逃れた為、中世の街並みが残っています。


 
< 2. ガムラ・スタンの散策ルート、上が北 >

今回紹介するのは王宮入り口のSから地下鉄駅SlussenEまでです。
赤線が歩いた路で、黄色線は入館したことを示します。
Cは大聖堂、Mは大広場、Pは小さな広場です。

写真は2016年6月2日(土)14:30~16:20のものです。

この島は直径600~700mほどの大きさで、私が歩いたところはその中心部に過ぎません。
それにしても、かつてのスウェーデン帝国(17世紀)の首都の中心部にしては小さ過ぎる。
ここにスウェーデンの歴史が凝縮されているはずです。


 
< 3. 王宮に入る >

私は王宮の南側の坂道に面した入り口から、王宮に入りました。
中に入ると左右に2階に上る階段があり、右(東側)に上るとチャペル(下の写真)、左(西側)に上ると大きな会議室に行きます。

上の写真: チャペルの入口側から会議室の入口を見ています。
その下の階には宝物庫がありますが、入りませんでした。
会議室に入り、右に進むと王族の居室に入って行きます。



 
< 4.王族の居室 >

下の写真: 2階から1階に下りる階段。
ここから正面玄関(西側)に出ました。

 
 
< 5. 王宮の玄関前より >

下の写真: 大聖堂の鐘楼が見える。


 
< 6. 大聖堂 1 >

上の写真: 大聖堂の前から西側を望む。

下の写真: 大聖堂の内部。
奥に祭壇と説教壇が見える。


 
< 7. 大聖堂 2 >

上の写真: 正面入口側。

中央の写真: 木彫りの像「セント・ジョージと龍」。

これは素晴らしい像ですがそれだけではなく、ストックホルムと北ヨーロッパとの関わりを教えてくれます。

この像の作者はハンザ同盟が最盛期を迎えた14~15世紀に活躍したバーント・ノトケ(1435-1509)で、この時代の北ヨーロッパで最も活躍したドイツの画家・彫刻家でした。
彼の作品で有名なものは、この像と髑髏が描かれた絵「死の舞踏」で
リューベックとタリンの教会にあった。
これら作品がある三つの都市は、すべてハンザ同盟に属す港湾都市で、リューベックはそのリーダーで北ドイツにあります。

つまり、ガムラ・スタン(スウェーデン)はハンザ同盟(ドイツが中心)と深く関わることによってバルト海・ボスニア湾・フィンランド湾の交易を通じて経済発展を成し得たのです。
その前のヴァイキング時代の東方交易が役立ってはいたのですが。


下の写真: タリンにあるノトケの「死の舞踏」。
この絵は黒死病に見舞われたヨーロッパの絶望をよく現わしており、この心情がやがて宗教改革に向かう原動力の一つになった。
北欧も黒死病に見舞われている。


 
< 8. 大広場 1 >

西欧の大都市の広場、さらに他の小国の首都と比べてもやはりこの広場は小さい。
この旧市街は海と湖に挟まれた小さな島に、13世紀、城壁を持った都市として始まった。

「北欧3ヵ国を訪ねて 13: 戦争と平和」で書いたように、この大広場で起きた16世紀初めの「ストックホルムの血浴」を契機にして、スウェーデンはデンマークからの独立と帝国への道を歩み始めることになる。

小さいながらも、この地はやはり政治の中枢だった。


 

< 9. ストックホルムの変遷 >

上の写真: 1570-1580年頃。
中央に王宮と大聖堂が見える。
この絵は北側からガムラ・スタンを見ているのだろう。
つまり左側がバルト海に通じる。
この時期、島以外はまだ未発展だった。

中央の写真: 1690年頃。
現在のストックホルム中心部が右側で、左側はセーデルマルム島でしょう。
つまり手前がバルト海に通じる。

この時期、スウェーデン帝国は繁栄の頂点にあったが、1700年から大北方戦争に突入し、ロシアに敗れ、1721年から没落が始まった。

二つの絵から百年の間にガムラ・スタンの両側は大きく発展していることがわかる。


下の写真: 時期は不明。
上の絵とちょうど逆の方向、西から見ているようです。
手前側がメーラレン湖側です。


 
< 10. 大広場 2 >

下の写真: 奥に大聖堂の鐘楼が見えます。
右手の建物はノーベル博物館で、ノーベル賞の歴史などの展示があります。


 
< 11. 小路 >

大広場からドイツ教会周辺の小道。
右下の鐘楼はドイツ教会のもので、ハンザ同盟の商人(多くはドイツ人)が1634から1648年にかけて建てたものです。
ハンザ同盟の各港湾都市では、ドイツ商人がその都市内に自らの社会を築き、教会を作った。


 
< 12. 憩いの場>

これは地図のPで示され、二つの小路が交わって出来た三角形の広場です。
この賑わう旧市街にあって、ここは住民が憩う場所になっている。

石畳の広場に植えられた大きな木が木陰を作り、風が今にも吹き抜けていきそうです。
ヨーロッパの旧市街、例えばスペインのトレド、南仏のエクサンプロバンス、エストニアのタリンにもあるような片隅の広場なのですが、実に良いですね。

実は、ここは火災で建物が壊れた折、馬車の旋回スペースとして空き地にされたようです(1728年)。




 
< 13. さらに南下する >


 

< 14. 鉄の広場 >

ここは南の端にある広場で、昔、港に運ばれた鉄をこの広場に保管しておいたことからこの名前が付いた。

実は、この鉄こそがスウェーデンの産業発展を促し、またガムラ・スタンを首都にすることになった。

今もスウェーデン鋼は有名ですが、この国の鉄採掘の歴史は古く、鉱山はストックホルムの北西100から300kmの範囲に広がっていました。
そして鉄は広大なメーラレン湖を通じて国内外と交易されました。
ヴァイキング時代が終わりバルト海が安全になった13世紀頃、ハンザ商人が鉄を求めてストックホルムに多く寄港するようになりました。

これに呼応してスウェーデン王は、それまでの内陸部の首都から、バルト海への輸送に適したガムラ・スタンに拠点を移したのです。

旅行前、なぜ防衛上脆弱なガムラ・スタンが首都になったのか、私には不思議でした。
これが外国勢力から急襲されればひとたまりもないこんな小さな島に、わざわざ内陸部から拠点を移した理由だったのです。

そして一時はハンザ同盟と繁栄を共有したのでした。


 
< 15. ガムラ・スタンの眺め >

上の写真: ガムラ・スタンを南側から見ている。

下の写真: 中央に地下鉄駅Slussenが見える。

私はこの駅から真直ぐホテルに戻りました。
疲れた1日でした。


* 6月1日と2日、ストックホルムとガムラ・スタンを歩いて

当初はガムラ・スタンをもう少し丁寧に見る予定でしたが、疲れもあり、真直ぐ南北を歩き抜けただけでした。
それでもおおよそ半分以上は見ました。

街並みは思っていたより古さ、郷愁のようなものを感じませんでした。
修復が良く行われているようです。
また街並みの建築には特別なデザインや目立つもの(バロック、アールヌーボー、北欧独特の様式など)を見かけることもなく、少し拍子抜けでした(あれば良いわけでもないが)。

それでも1日のシグツーナとストックホルム郊外、2日のストックホルム中心部、ユールゴーデン島、ガムラ・スタンと歩き、また自然歴史博物館、歴史博物館、北方民族博物館、ヴァーサ―号博物館、スカンセンを見学して、少しはスウェーデンの歴史や自然、社会や人々が見えて来たようです。

この2日間は驚きと発見の連続で、また様々なハプニングの洗練を受けた。
これがまた楽しいのですが、観光予定はズレるばかりです。

まだまだこの旅で最強のトラブルと発見の喜びを味わうことになります。


次回に続きます。




Thursday, September 20, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 27: ハプニング





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今回は、最初に経験した大きなハプニングを紹介します。
実は大きなイベントがあることを知らずに、予想外に歩く羽目になってしまったのです。
疲れたが楽しい経験でした。





< 2. 徒歩ルート、上が北 >

上の衛星写真: 右のS点から歩き始めて、E点までを今回紹介します。

下の地図: 上の写真とほぼ同じ範囲です。
右(スカンセン前のトラム駅)から左(ガムラスタンの王宮)まで点線に沿って歩きました。
距離は3.2kmです。
紹介する写真は2018年6月2日(土)12:40~14:30の撮影です。




< 3. ハプニングの兆し >

上の写真: スカンセンを出て、通りにある駅(写真)のベンチでトラムを待ちました。
そしてガムラスタンの近くまでトラムで行き、ストックホルム・パノラマ(1時間ほどの市内巡りの観光バス)に乗るつもりでした。
駅のブースでは私以外に2組の海外旅行客が待っていました。
15分ほど待ったのですが、まったくトラムが来ません。
本来は10分以内の間隔で来るはずでした。

確かに、写真のように赤白のテープが車道に張り巡らされおり、何かが起きていました。
しかしブース内の展示物を見たのですが、英語表記で時刻表の変更やトラブルの有無を確認できませんでした。
もっとも、スウェーデン語の掲示ならわかりませんが。

諦めてガムラスタン近くまで歩く決意をし、去りかけてブースの外側上部を見ると、次のトラム到着は18時台を示す液晶表示が見えました(涙目)。
途中、通行中の市民に聞いてみると「今日はマラソンがある」とのことでした。

結局、この日はアシクッス主催のストックホルム・マラソンがあり、12時から18時まで、私が行きたい所はすべての交通がストップになったのです。
不幸なことに、地図の青の点線はマラソンコースとほとんど一致していた。



< 4. マラソン 1>

諦めて、のんびり歩くことにしました。

下の写真: この半時間ほどで道路沿いにたくさんの市民が集まって来ました。
この走者達は、スカンセンの前で折り返して来た先頭集団です。



< 5.マラソン 2 >

上の写真: ガムラスタン側を望む。

下の写真: 手前は折り返して来た走者、向こう側はこれから折り返し点に向かう走者らです。



< 6. マラソン 3 >

下の写真: 中央の建物が王立劇場です。





< 7. マラソン 4 >

上の写真: 曲がり角にある、木々が配されたベルツェリー公園に沿って歩く。
ここから多くの観光ボートが入出航していました。
遠くに、北方民族博物館とヴァーサ号博物館の建物が見えます。

下の写真: これは海軍の船のようです。



< 8. マラソン 5 >

やっとガムラスタンの王宮が真正面に見えて来た。
これから右に曲がり、ストックホルム・パノラマの受付ブースに向かいます。



< 9. マラソン 6 >

上の写真: この桟橋からも観光ボートが出ており、その向こうにチケットブースが見える。

ストックホルム・パノラマ(バス)の乗り場は、少し離れた Gustav Adolfs Torg(広場)からなのですが、このチケットブースでストックホルムパスを見せて、無料チケットを貰う予定でした。
はぼ諦めていたのですが、一縷の望みを託して、窓口で運航状況を聞きました。
すると「マラソンがあるので今日はバス運行はありません」と、あっさり言われた。
しかたなく予定を変更して、ガムラスタンまで歩くことにした。

今日はストックホルム・シティを8:30に出てから歩き詰めで、まだ歩かなければならない。


下の写真: ガムラスタンに掛かる橋を行く走者達。

近くで見ていると、疲れて素顔を見せる走者らに親しみを感じた。






< 10. マラソン 7 >

ガムラスタン島に入りました。
右手が王宮です。




< 11. 王宮横の坂 >


次回に続きます。



Monday, September 17, 2018

沼島を訪ねて 4





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今回で、沼島の紹介は終わります。
峰伝いの小道、沼島八十八ヵ所霊場巡りから海水浴場までを行きました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

今回紹介するのは黄線と茶色線です。
黄線は沼島八十八ヵ所霊場巡りの約半分にあたります。
左側の赤丸はおのころ神社です。
茶色線は漁港沿いの道で、左の黒丸は海水浴場、右の黒丸は昼食をとった食事処「水軍」です。

 
< 3. お地蔵様 >

この八十八ヵ所霊場巡りの小路の両側には、なんと88の地蔵様が祀らています。
里から離れたわざわざ峰伝い、かくも不便なところに多くの地蔵様があります。

これは明治時代、戦争や伝染病で多くの人が亡くなり、その慰霊の為に
祀られたのだそうです。
鎮魂の為の霊場巡りなら、こここそ最適だったのでしょう。


 
< 4. 上立神岩 >

小路を行くと、見晴らしの良い所からこのような絶景を眺め、また爽やかな潮風を受けることが出来ます。


 
< 5. 小路 >

見晴らしの良い所もあれば、生い茂る木々が日陰になってくれるところもあります。
ほとんど人が通った形跡はありませんが、道はあります。


 
< 6. 森林浴 >



 
< 7. 分岐点を右へ >

途中、右は「おのころ神社まで0.5km」と書かれた看板がありました(上の写真)。
それで右に折れ、さらに鬱蒼とした森の中へ入って行きました。
少し不安はありましたが、小路が微かに見え、方向的にも正しそうなので、行きました。


 
< 8. 小路を下る >

小路には枯葉が積もっているのですが、雑草が少なく、歩きやすい道でした。


 
< 9. おのころ神社(自凝神社) >

ここには神殿と二神の像があります。
二神の像は伊弉諾尊と伊弉冊尊で、国生み神話の中で伊弉諾尊が天沼矛を使うシーンを表しています。
神殿は出来て百年も経っていないのですが、この山は御神体山であり18世紀末に小祠を建て、村人が祭礼を行って来た。

この階段は急で長いのですが、下る方だったので助かりました。
眼下に港が見えます。


 
< 10. 沼島海水浴場 1 >

神社の階段をさらに下り、海岸沿いの道に出て、左に曲がると、海水浴場の賑わう声が聞こえてきた。


 
< 11. 沼島海水浴場 2 >

この海水浴場には、脱衣所、トイレ、シャワーがあり、監視員も居ました。


 
< 12. 店と手押し車 >

上の写真: 昼食をとった海鮮漁師料理「水軍」の店内。
海岸沿いの道から見える飲食店はこれを含めて2軒だったと思います。
少し中に入れば他の店や、鱧料理を出す民宿もあります。

この店は味はともかく、手ごろな値段で多彩な海鮮料理を出してくれるようです。
手軽に立ち寄れるので良いと思います。

下の写真: 沼島特有の手押し車。


 
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高速艇に乗って、帰路につきます。
高速艇で沼島に到着してから4時間が経ちました。


* 感想

8月18日、天気が良かったので急にドライブしたくなり、妻が沼島に行きたいと言い出しました。
私たちは淡路島に40年以上も居ながら、一度も行ったことがありませんでした。

私ははじめ、沼島は小さく魚釣りと鱧料理と上立神岩だけの島と思っていたのですが、なかなか歴史ロマンを秘めた島でした。
私にとっては特に海人族の痕跡とルーツが魅力でした。

また適度に散策が楽しめ、海水浴や、そして海鮮料理も楽しめます。
そして観光化されていないところが良い。


これで終わります。



Sunday, September 16, 2018

北欧3ヵ国を訪ねて 26: スカンセン(野外博物館) 2



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今回で、スカンセンの紹介を終わります。
写真は2018年6月2日(土)、12時から12時半までの撮影です。


 
< 2. スカンセンの地図、上が北 >

青線が今回紹介する徒歩ルートで、Sがスタート、Eが終わりを示します。

私は1時間かけて見て歩いたのですが、観光時間は、じっくり伝統文化を知ろうとするなら2~3時間、また動物園や遊戯施設もありますので子供らと家族で楽しもうとするなら半日以上が必要でしょう。


 
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下の写真: 鱗状の木の板を重ねた外壁。
フランスのストラスブールで民家の屋根に鱗状瓦を見たのですが、このようなものは初めてです。

 
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上の写真: 孔雀がのんびり散歩しており、怖がる様子はありませんでした。


 
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上の写真: 子供向けの催し。
多くの家族が参加していました。

下の写真: 18世紀の木造の教会。
これはスウェーデン南部のVästergötland地方、大きな湖のある地域に建てられていたものです。
No4の下の写真は、この教会を裏側から撮ったものです。


 
< 8. 風車小屋 >


 
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上の写真: 18世紀の農家兼邸宅です。
左右に納屋のようなものがあり、工具、蹄鉄、鍬などが制作されていた。
建てられていたのはストックホルムから西に200kmほど行ったNärke地方です。
この地域は先ほどのVästergötland地方の北東で接しています。

このスカンセンは主に古い農家や街の家、教会などを移築し、庶民の暮らしがわかるようにしているのですが、この邸宅だけは別格で大きい。


 
< 10.展望広場から  >

南側の対岸、セーデルマルム島を見ています。
現在、この地域が住宅地、観光地として発展しているようです。

下の写真: 手前にスカンセンの直ぐ下にあるチボリ公園が見えています。
この日は土曜日なので、このユールゴーデン島は人出が多かった。


* 感想
古民家を見て、スウェーデンの18世紀はあまり豊かではない印象を受けた。
そうは言っても、日本の江戸時代末期と同時代なのですから、遜色はないのかもしれません。

豊かな木材資源を使って太い木材が大量に使用されている一方で、構造材としての石材や壁材としての粘土の使用が見られなかった。
これは北欧の厳しい自然、貧しい土壌、乏しい資源を象徴しているようでした。
もっとも人口密度が低いので暖房用の薪は充分に入手出来た。

北欧を旅行して感じたのは、他の地域に比べ、民族舞踊や歌唱などの伝統文化を売りにした観光が見当たらないことです。
四季折々の祭典やヴァイキング村の再現はあるのですが、ポルトガルのファドやスペインのフラメンコのようなものが無い。

多くの外国人は美しい自然と整った街並みを楽しみに、この北欧を訪れる。
そこで観光資源として伝統の歌舞演劇などをもっと押し出しても良いと思うのだが。
結構、古い歴史と文化があるはずなのに不思議です。

そのような中で、19世紀の終わりにこのような伝統文化として民家を残し得たのは非常に良かったと思います。
これは国民の為なのでしょうが。


次回に続きます。