Wednesday, September 30, 2015

社会と情報 54: 戦った報道 11






< 1. 張作霖爆殺事件 >

今日は、日本がやがて泥沼に足を取られることになる中国侵攻に大きく踏み出した状況を見ます。
この頃、戦争を画策していた者だけでなく、半信半疑だった国民も大陸侵攻に大いに沸き立つようになっていた。
その潮目は、1920年代中頃から1930年代初期、大正から昭和にかけてであった。



< 2. 山東省と済南 >

はじめに
当時の大きな変化を単純化することには無理がありますが、あえて特徴的な二つの事件報道だけを取り上げ、後にその変化の要因を概観することにします。
この特徴的な事件とは、1928年5月の斉南事件と1931年9月の柳条湖事件です。

済南事件の報道
「天津四日・・発 唯今当地に入電せる確報によれば昨日南軍に虐殺された邦人は280名に達し、これらはいずれも我軍警備区域外居住者である。」注釈1
これ以外にも様々な被害を伝える外電が新聞社に飛び込んで来た。

「東京日日」はこの電報を社説で取り上げ、謀略性を追及した。
「この北京、天津からの電報は、そのほとんどが、我が官憲、軍憲から発信されたものと見るほかない。しかるに彼らは直接本国に向かって、何ら責任ある報告を発しておらぬ。・・ただ新聞電報だけによって、いたずらに感情を刺激し、興奮せしめておるのみである」

事件の要点
1914年、日本軍は第一次世界大戦に乗じて山東省に侵攻し、青島と斉南を手に入れ、当時、この地に邦人17000名が居留するまでになっていた。
しかし中国の反発は強く、各地で暴動が起き、日本軍は居留民保護の為に1926年から派兵を行っていた。
当時、中国は革命後の内戦状態にあり、北伐中の蒋介石率いる軍と日本軍の間で武力衝突が起き、日本の死者は居留民14名、軍人26名であったが、中国軍の死者は6000名近くあった。
これ以降、益々排日運動は高まっていった。

軍部の謀略と情報操作は既に常態化しつつあったが、まだ新聞は軍部に逆らい真実を追究する姿勢を持っていった。



< 3. 朝日の柳条湖事件報道、9月19日付け >

柳条湖事件の報道
「三四百名の支那兵が満鉄巡察兵と衝突した結果、ついに日支開戦を見るに至ったもので明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭になった」注釈2
事件は満州において9月18日夜半に発生したが、翌日の朝には「朝日」の号外に載った。


事件の要点
この事件は関東軍(現地派遣部隊)が満州占領の口実にするために、中国軍による列車爆破と発表した自作自演の謀略だった。
以前、斉南事件の1ヶ月後、関東軍は同じ満州で列車爆破による要人暗殺(張作霖爆殺事件)を起こしていた。

実は、柳条湖事件の翌日、奉天総領事は外相にあてて「軍部の計画的犯行」との電報を打っていた。
しかし政府と軍部はこの謀略を隠し、さらに新聞各紙も軍の行動は時宜を得た快挙であると讃えた。
こうして関東軍の意図通りに戦端は開かれ、中央は後追いの形で満州事変を拡大することになり、やがて日本は中国に深く侵攻し、よって米英の反感を買い、ついには太平洋戦争へと進むことになる。



< 4.柳条湖事件の発生場所 >

なぜこのようなことが起こったのだろうか
実は、号外の一報を送った現地の朝日記者は関東軍の首謀者の一人石原中佐とは意気投合していた。注釈2
彼は自らも「日本の人口問題と食糧問題の解決には満蒙大陸が必要」とし、それは侵略によらずに可能と考えていた。

しかし、事は一人の問題で留まらず、軍部への同調は今や新聞の中枢に及んでいた。

憲兵隊秘密報告書に以下の記載があった。注釈3
「大阪朝日新聞社今後の方針として軍備の縮小を強調するは従来の如くなるも、国家重大事に処し、日本国民として軍部を支持し国論の統一図るは当然の事にして、現在の軍部及び軍事行動に対しては絶対批難批判を下さず極力これを支持すべきことを決定・・」注釈3
これは柳条湖事件の約1ヶ月後、重役会にて行われていた。

一方、「毎日」は「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」と銘打ち、「読売」は他社に遅れまいと満州事変報道のために夕刊を発行し始めた。
こうして日本の報道は無道な転向を始めた。



< 5.柳条湖事件の捏造証拠、中国軍の所持品 >

この事件の重要な点
当時、軍部と官憲は暴力や謀略で国内外の問題を解決することに躊躇せず、また事実を捏造し情報操作し、かつ秘密裏に行うことが出来た。
また過激な一部軍人は他国を軍事力で制圧することに躊躇なく、政府と国民はそれにつられるように深追いすることになった。
これらが太平洋戦争敗戦まで巧妙かつ大規模に行われるようになり、国民は真実を知らぬまま暴挙を止めるどころか盲目的に献身することになった。

この暴挙を止める社会的機能としては政党や議会があり、また報道にもその役割があったが、1920年を越える頃からどれも徐々に機能しなくなっていった。
そこには国民と国家、民族を巻き込む「戦争の甘い罠」に呪縛されていく状況が、繰り返されていた。
これは古代ギリシャやユーゴ内戦、米国のベトナム戦争とイラク戦争にも通じる。


次回、なぜこのような報道の転向がわずか3年ほどの間に起こったかを見ます。


注釈1:「戦争とジャーナリズム」P224から引用。
注釈2:「新聞と戦争」(朝日新聞出版、2008年刊)P182185から引用。
注釈3:「戦争とジャーナリズム」P261から引用。






Monday, September 28, 2015

I visited Guilin 2: Boat tour of the Lijiang River 1


桂林を訪れました 2: 漓江下り 1






< 1.  At 10:12, the front >
< 1.10:12、前方。 >

Today, I introduce the first half of our boat tour of Lijiang River.
This part is abundant in various acute crests and a world of ink painting spreads before our eyes.
Let us enjoy this boat tour of the River.

今日は、9月16日の漓江下りの前半を紹介します。
この部分が最も奇峰に富んでおり、飽きない水墨画の趣が続きます。
皆さんに川下りを楽しんでもらいます。




< 2.  At 10:01, the front 
< 2.10:01、前方 >

After about 15 minutes passed from our departure, the row of mountains closed on us as if to stop our going.
This course that I introduce is till 2 hours 20 minutes of the first half and the Painted Hill of Nine Horses.

It was fine, but the whole of landscape was veiled in a haze.
Summer sunlight was strong and the humidity was high, but I was comfortable when a gentle breeze blew from the river.

出港して15分ほどすると前方を遮るように山並みが迫って来ます。
今回紹介するのは、前半の2時間20分で、ほぼ中間にある九馬画山までです。

晴れてはいるのですが、全体に靄がかかっていました。
夏の日射しが強く湿度も高いのですが、川風にあたっていると心地良かった。



< 3. This satellite photo shows the first half of the boat tour of the river. The upper side is north side and the upper reaches. >
< 3. 川下り前半部の衛星写真、上方が北で上流です >

We enjoyed the boat tour of the river form Zhujiang wharf to Yangshuo for 4 hours 20 minutes.
This area is most abundant in various acute crests within 437 km in total length of Lijiang River and is most popular course.
As the satellite photo suggests, acute crests of limestone having several dozen meters in high line up on the both sides of the river innumerably.

Famous places in the satellite photo
1: Zhujiang wharf, we boarded a boat here. 2: Caoping. 3: Crown Cave. 4: Yangdi. 5: Langshi. 6: the Painted Hill of Nine Horses.

The number described above shows the number of each photo, and the alphabet shows the sequence of photographing.
The time in Title column indicates the photographing time in local, and  the front (the lower reaches) or  the back  (the upper reaches) indicates the direction of photographing on our ship.


私達は竹江桟橋から陽朔までの約55kmを4時間20分かけて川下りを楽しんだ。
この範囲が全長437kmの漓江の中で最も奇観に富んだポピュラーなコースです。
衛星写真からわかるように、高さ数十mある石灰岩の尖った鋒が川の両岸に無数に並んでいる。


衛星写真内の主な名所。
1:竹江、ここで乗船。 2:草坪。 3:冠岩。 4:楊堤。5:波石。 6:九馬画山。
上記の数字が各写真の数字を示し、アルファベットは時系列を示します。
例えば、写真の番号1bは名所1から2までの間で2番目に撮った写真です。
<タイトル欄>の時刻は現地の撮影時間で、前方(下流側)、後方(上流側)は船からの撮影方向を示す。





 4.  From Zhujiang to short of Caoping >
< 4. 竹江から草坪手前まで >

1a:  At 9:42, the front. Zhujiang.
We finally started the departure from Zhujiang wharf.
We had come by bus to Zhujiang from Guilin and boarded a large pleasure boat here.
The pleasure boats with many tourists departed one after another.
As the photo shows, the cabin of our boat had the first and second floor, and the third floor is all observation deck.
I thoroughly enjoyed the scenery by standing more than four hours in the observation deck, and I just had lunch on the way easily.

1b:  Already displayed.
1c:  At 10:10, the back.
Lijiang River is big, but there are many places that the boatable river width is narrow, because it winds and is shallow.
The scenery is rich, because there are various cliffs, shallows, sandbars, and forests.

1d:  Already displayed.
1c:  At 10:15, the front.

a: 9:42、前方。竹江。
いよいよ竹江桟橋から出港です。
私達は桂林からバスで竹江まで来て、ここで大型の遊覧船に乗りました。
観光客を乗せた遊覧船が次から次へと出港していきました。
乗った船は写真にあるように船室が2階まであり、3階が展望デッキです。
私は途中の昼食もそこそこに、展望デッキで4時間以上立ち詰めで景色を堪能しました。

b: 既に表示。
c: 10:10、後方。
漓江は大きいが、曲がりくねり浅いため航行可能な川幅は狭い所もある。
その景観は断崖絶壁もあれば浅瀬や砂州、様々な樹林があり変化に富んでいる。

d: 既に表示。
e: 10:15、前方。



< 5.  From Caoping to passing the front of Crown Cave >
< 5.草坪から冠岩通過まで >

2a:  At 10:33, the front. Around Caoping.
In some places, there are villages and private houses on the riverside, and we have an opportunity to be exposed to their living.

3a:  At 10:33, the left side. Crown Cave. 
The reason of the Crown Cave is because the mountaintop is like a hat, but there is also a big hole facing the river.
A river has flowed from the inside of this hole, and there is a limestone cave that we can go sightseeing in.

3b:  At 10:54, the back.
As the photo shows, there were also a lot of people on the observation deck of our ship.
There was the announcement of the name when we came to each famous place, but it was useless because it was the Chinese language.
For taking a picture, I recommend that you come and go between the third-floor observation deck front and the second-floor rear observation deck.


a: 10:33、前方。草坪辺り。
所々、川縁には村や民家があり暮らしに触れることできる。

a: 10:37、左舷。冠岩。
冠岩の所以はその烏帽子状の山頂にあるが、川に面して大きな穴もある。
この奥より川が流れて出ており、中に観光できる鍾乳洞がある。

b: 10:54、後方。
私達の船の展望デッキも写真のように人が一杯になりました。
名所に来ると案内放送があるのですが、中国語なので役に立たなかった。
写真を撮る為には3階展望デッキ前方と2階後部展望デッキを行き来することをお薦めします。
ツアー参加者の席は2階に確保されていて、貴重品を除く荷物はその席において置けました。



< 6. From Yangdi to passing Langshi >
< 6. 楊堤から波石通過まで >
4a:  At 11:02, the back. Around Yangdi.
5a:  At 11:25, the front. Around Langshi.
5b:  At 11:27, the back.

From ancient China, this has long been praised in the phrase “the scenic beauty of Guilin is the best of China”, and really Sansui-ga (a kind of ink painting) spreads out here.

a: 11:02、後方。楊堤付近。
a: 11:25、前方。波石付近。
b: 11:27、後方。

中国古代より「桂林山水天下に甲たり」と賞賛されているが、正に山水画の世界が広がっている。



< 7.  Sansui-ga (a kind of ink painting) of China >
< 7. 中国山水画 >



< 8.  from passing Langshi to short of the Painted Hill of Nine Horses >
< 8.波石通過から九馬画山手間まで >

5c:  At 11:35, the front.
5d:  At 11:37, the back.
5e:  At 11:41, the back.

c: 11:35、前方。
d: 11:37、後方。
e: 11:41、後方。



< 9. At 12:00, the back. the Painted Hill of Nine Horses
< 9.12:00、後方。九馬画山 >

Nine white rock surfaces on the central cliff are seen as nine running horses.
I took this picture from the lower reaches for avoiding backlight.

This continues next time.

中央の崖に九ヵ所の白い岩肌が露呈しているのが、駆けめぐる9頭の馬に見えるそうです。
多くの写真は九馬画山を正面、つまり上流から撮るのですが、逆光だったのでこれは下流側からの写真です。

これで前半の川下りは終わりました。
次回は、景観と風情を紹介します。








Saturday, September 26, 2015

Went around Croatia and Slovenia 3: Port town Senj

クロアチア・スロベニアを巡って 3: 港町セニ



< 1.  Senj >
< 1. セニ >

Today, I introduce small port town Senj facing onto the Adriatic Sea.
This beauty and simplicity fascinated me. 
But, there is a ruins showing Croatian history of suffering in here.

今日は、アドリア海に面した小さな港町セニを紹介します。
その美しさと素朴さに私は魅了されました。
クロアチアの苦難の歴史がここに遺っていた。



< 2.  Kvarner Gulf >
< 2. クヴァルネル地方の海 >

The Adriatic Sea that I saw for the first time

When we passed through the Slovenian forest area and went down south, Kvarner Gulf was seen below our eyes suddenly. 
This was scene that I saw first in this trip and the Adriatic Sea that I had looked forward to.
The sky, sea and distant islands that were bright in deep blue color with summer sunlight were just as I would expect from very beautiful.
All the shores to Senj were full of swimmers.
This area was a resort of Austria-Hungary aristocrat from the old days.

はじめて見たアドリア海
スロベニアの森林地帯を抜けて南下すると、眼下にクヴァルネル地方の海岸が開けました。
今回の旅行で始めて見た海であり、楽しみにしていたアドリア海でした。
陽光を浴びて紺碧に輝く空と海、遠い島影は期待に違わぬ美しさでした。
セニに至る海岸は何処も海水浴客で一杯でした。
この地方は古くからオーストリア・ハンガリー帝国貴族のリゾート地でした。



< 3.  We arrived at the port of Senj >
< 3.セニの港に到着 >

We arrived at Senj 
This place was only a restroom break that we dropped in on the way to Plitvice Lakes National Park in Croatia from Slovenia.
We visited here approximately 30 minutes from 17:20 on Monday, August 31.
This port gave a sense of openness, but there were few fishing boats, and I hardly looked at a harbor facility for fishery.
Most were small recreation boats.

セニに到着
ここはスロベニアからクロアチアのプリトヴィッツエに行く途中、トイレ休憩で立ち寄っただけの所でした。
私達は8月31日(月)の17:20から30分ほどここを訪れました。
大きく開放感のある港なのですが、漁船は少なく、漁労用の港湾設備も見なかった。
多くは小型レジャーボートでした。



< 4. Whole view of the port Senj seen from a breakwater side >
< 4. 防波堤側から見たセニ港の全景 >

The photos that I took from the left side (the north side) line up in turn from the top.
Upper photo: Such rocks stand out on all surfaces of mountains from this Kvarner area to Dalmatian area of the southern.
Central photo: People soak in the sea, bathe in the sun, and have a pleasant chat.
 “An idyllic time is passing.”
Lower photo: We entered the inland by bus from the valleys on right side of the photo.
Once, this place prospered as key junctions of traffic between the inland and the coast, but now it is Rijeka in the north.
Nehaj fortress looks little on hilltop in the right side of this photo.
This symbolized Croatian history.

左(北側)から撮った写真が上から順番に並んでいます。
上の写真: このクヴァルネル地方から南のダルマチア地方まで、山肌はすべてこのような岩肌が目立つ。
中央の写真: 海に浸かっては日光浴をし、談笑する人達。「のどかな時間が流れてゆく・・」
下の写真: 私たちは、写真右側の谷間をバスで内陸部へと入った。
かつて、この地は沿岸と陸を結ぶ交通の要衝だったが、今は北のリエカに譲った。
この写真の右端、丘の上にネハイ要塞がわずかに見える。
これがクロアチアの歴史を象徴していました。






< 5.  People enjoy sea bathing >
< 5. 海水浴を楽しむ人々 >

Upper photo: The sea was transparent, and small fishes swam innumerably.
Central photo: Children enjoy sea bathing.
Lower photo: People enjoy sea bathing at the outside beach of the breakwater.

上の写真: 海は透明で、小魚が無数に泳いでいた。
中央の写真: 海水浴を楽しむ子供達。
下の写真: 防波堤の外側の浜で海水浴を楽しむ人々。



< 6. Scenes in the port >
< 6.港の一コマ >

Upper photo: Houses lined the wide street along the harbor.
Central photo: The dog that stood on the bow of the boat looked at me.
" At that moment, I got a feeling that I was absorbed into this scene. "

上の写真: 港に沿った広い通りに並ぶ家々。
下の写真: ボートの舳先に乗った犬が私を見た。
「一瞬、私はこの地に溶け込んでいるように思った」




< 7. Nehaj fortress >
< 7. ネハイ要塞 >
Upper photo:  Nehaj fortress is built on a hill overlooking the sea. By ToCroatia.
Lower photo:  Nehaj fortress. By Wikipedia.

上の写真: 海を見下ろす高台にネハイ要塞が見える。ToCroatia」から。
下の写真: ネハイ要塞。Wikipediaから。

About Nehaj fortress
In 1558, this fortress was built by Uskoks that was famous as pirates of the Adriatic Sea.
They were based in it and fought the ships of the Ottoman Empire and Venice that had taken sides against the Austrian Empire.
This tribe was the Christian that escaped the disaster due to Ottoman's invading to Balkan Peninsula after the 14th century, went up north and then arrived at Senj.
On the other hand, the Austrian Empire (the Habsburg Monarchy, Hungarian Empire) instituted Military Frontier around the base of Balkan Peninsula from 1553 to 1881, as sanitary cordon against incursions from the Ottoman Empire.
Many refugees lived in there, they usually engaged in agriculture, but in an emergency they became the human walls for fighting against Ottoman.

ネハイ要塞について
アドリア海の海賊で名を轟かせたウスコク族が1558年にこの要塞を造り、敵対するオスマン帝国とベネチアの船舶を攻撃した。
この部族は、14世紀以降、オスマンのバルカン半島侵略により、難を逃れて北上して来たキリスト教徒だった。
一方、オーストリア(ハプスブルク家やハンガリーも含む)はオスマンの侵攻を食い止める為に、軍政国境(1553~1881年)をバルカン半島の根本に設定した。
そこには多くの難民が住み、日頃、彼らは農業に従事し、事あらば武器を持ってオスマンと戦う壁となった。



< 8.  The map of Senj and Military Frontier >
< 8. セニと軍政国境 >

Upper map: Red sphere is Senj, blue sphere is Belgrade and yellow sphere is Venice.
Red line indicates a border between Austria (red arrow) and Ottoman (black arrow) in 1812.
Yellow line indicates a border of Venice from the 16th century to the 18thcentury, and Kvarner area and Dubrovnik (Republic of Ragusa) escaped from the domination.
It was a factor to have developed Kvarner area as a resort of Europe.

Lower photo:  Red frame indicates a part of Military Frontier of 1800. 
Senj being inside the Military Frontier had played an important role as defense of the sea.

上図: 赤丸がセニ、青丸がベオグラード、黄丸がベネチア。
赤線が1812年の赤矢印オーストリアと黒矢印オスマンの国境。
黄線は16~18世紀のベネチアの領土を示し、クヴァルネル地方とドブロブニク(ラグーサ共和国)だけが支配を逃れている。
このことがクヴァルネル地方をヨーロッパのリゾート地として発展させる一因になった。

下図: 赤枠が1800年の軍政国境の範囲を示す。
軍政国境にあるセニが海の守りとして重要な役割を果たしていた。



< 9. Four rowboats of Uskoks are chasing a large ship >
< 9. ウスコクの手漕ぎボート4隻が大型帆船を追いかけている >
By Wikipedia and Museum of Fortress Nehaj in Senj
ネハイ要塞の博物館所蔵、Wikipediaから。

What does it mean?
The present south side border of Croatia was caused by the collision that 2 great Empires started in the 16th century.
The Uskoks of about 2000 people kept fighting against the large Empire to defend their religion principle.
Unfortunately, refugees (Serbians etc.) who lived in the Military Frontier became a genesis of an ethnic cleansing in a civil war after 1991.

In any age, a people that were invaded may have to continue to carry a miserable history.

This continues next time.

これらが語るもの
現在のクロアチアの南側国境が16世紀に始まる2大帝国の衝突に起因していた。
高々2千人程のウスコク族が宗教信条を守る為に大国と戦い続けた。
残念なのは、この軍政国境に住んだ難民(セルビア人等)が、1991年以降の内戦で民族浄化の火種になってしまった。

いつの世も、侵略された民族は悲惨な歴史を背負い続けることになる。


次回に続きます。







Wednesday, September 23, 2015

社会と情報 53: 戦った報道 10



 


< 1.石橋湛山 >

今日は、大正時代後期(19201926年)の報道と政府、そして民衆の動きを見ます。
そこからは既に行進する軍靴の音を聞くことが出来るかもしれません。
今回は、一人の人物と一つの事件を追うことで、当時の社会が見えてきます。



< 2. 尾崎行雄 >

事の始まり
1921年2月(大正10年)、「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄より「軍備制限決議案」が提出されたが、圧倒的多数で否決された。
増強に次ぐ増強で膨れあがる国防費はこの前後9年間で2.5倍に膨れ上がっており、さらに第一次世界大戦後(1920年~)の恐慌が追い討ちをかけて財政は困窮していた。
しかし、議会の大半は軍部を恐れ、この法案を通すことが出来なかった。

3月より「朝日新聞」は「軍縮縮小論」を連載し、世論も軍縮が大勢になっていった。
11月、米国より要請のあったワシントン軍縮会議に日本は参加し、艦艇比率を押さえられ、中国進出に釘を刺されることになった。

この1ヶ月前、雑誌「東洋経済新報」に社説が載った。
それは度肝を抜く、当時の風潮に真っ向から逆らうものだった。

『一切を棄てる覚悟』と題し、「ワシントン会議を従来の日本の帝国主義政策を根本的に変える絶好の機会として歓迎する」とした。
彼の提言を要約すると、
1.経済的利益を見るに、現状の4ヵ所の植民地を棄て、米英との貿易促進こそ重要。
2.植民地放棄こそ戦争を起こさせない道だ。
3.植民地は排日などで騒然としており、既に帝国主義の時代は去った。

これを書いたのは石橋湛山(戦後総理)で、彼は終始一貫して経済的合理性の立場から軍閥の肥大化、侵略に反対し続けた唯一のジャーナリストと言える。
彼は第一次世界大戦参戦に反対し、日本の新聞があげて賛同した対支21か条(1916年)をも批難した。
当然、「東洋経済新報」は政府から監視され、インクや紙の配給を制限されたが廃刊は免れた。

もしこの年、尾崎行雄と石橋湛山の思いが政府に通じ転換が図られたら、太平洋戦争へと向かわなかったかもしれない。



< 3.関東大震災 >

関東大震災がもたらしたもの
1923年9月1日、大地震により焼失戸数45万、死者10万、罹災者340万人の被害が発生した。
しかし、「報道と社会」の面から見ると、このどさくさに引き起こされた朝鮮人虐殺と甘粕事件、亀戸事件が重要です。
この三つの事件に共通しているのは、デマに振り回される民衆と官憲が関わっていたことであり、これ以降思想統制が露骨に強化されていくことになる。

少し言論と思想弾圧の流れを見ておきます
政府は、自由民権運動を抑える為に、1875年、新聞紙条例(発禁処分)と誹謗律(懲罰)、続いて集会条例(許可制、解散)、保安条例(放逐)を制定していた。
1920年代、労働争議は年数百件、小作争議は年2000~3000件へと増大していた。
大正デモクラシーで盛んになってきた労働・社会運動を禁圧する為、政府は1900年、治安警察法(解党)を制定し、その後の1925年には治安維持法で弾圧体制を完成させることになる。

三つの事件の概要
朝鮮人虐殺事件
「朝鮮人が放火し、井戸に毒を入れ、数千人が大挙して日本人を襲っている。戒厳令を敷いたので、厳密なる取り締まりを加えるべし。」
警視庁は、地震の翌日には、このような通達を出し、4000もの自警団が組織された。
この手のデマは地震の3時間後には警視庁に記録されていた。
こうして、朝鮮人虐殺が始まり、日本人と中国人を含む2000~6000人が民衆によって虐殺された。


< 4.亀戸事件の被害者 >

亀戸事件
以前から警察署に労働争議で睨まれていた平沢ら10人が、震災で混乱していた9月4日に捕らえられ、署内で騎兵連隊の兵によって拷問を受け刺殺された。
治安当局は10月10日、この事件を公表した。



< 5.甘粕大尉 >

甘粕事件
9月16日、社会運動家(無政府主義者)で名を馳せ睨まれていた大杉栄と妻ら三人が、憲兵隊司令部に連行された夜に憲兵大尉甘粕によって虐殺され、遺体は井戸に遺棄された。
陸軍省は24日、大杉殺しを発表し、軍法会議で裁く旨を報じた。
甘粕は懲役10年を言い渡されたが秘密裏に2年で出所し、満州で特務工作を担い、満州建設に一役買い、満映の理事長を務めた。


震災時、報道はどうしていたのか
まだラジオも電話も普及する前で、東京の新聞社の多くは焼失し、交通網は途絶していたので新聞機能は麻痺していた。
新聞の中には「東京全域が壊滅・水没」「三浦半島の陥没」「政府首脳の全滅」等のデマを取り上げるところもあった。

政府の言論統制が即刻始まり、新聞記事の取り締まり-検閲、前述事件の取り扱い禁止等、が11月末日まで続いた。
この間、発禁処分は新聞48、雑誌8であった。
こうなると、上記三つの事件は当局の都合の良いように報じられることになる。


「報知」は9月3日、朝鮮人虐殺事件について号外でこう報じていた。
「伝えるところによれば、昨日程ヶ谷方面にて鮮人約200名徒党を組み・・・暴動を起こし同地青年団在郷軍人は防御に当たり鮮人側に10余名の死傷者をだし・・」

また「読売」は当局による亀戸事件発表の翌日、こう報じた。
「・・署長が平沢らの収容所内の騒ぎが他に及ぶのを恐れて・・近衛騎兵連隊を呼んだ。・・平沢らを中庭に連れ出した兵士らは『静粛にしろ』というと、平沢らは一斉に『お前達は資本家の走狗として俺たちを殺すのだろう』と叫び、・・・『革命を見ずして死ぬのは残念だ』と絶叫し、・・胸部を刺されて・・死体を横たえた」
彼らの遺体の拷問跡や他の証言により、これはデタラメであることが判明している。

地震当日、朝日新聞の経理部長石井(戦後衆議院議長)は警視庁に非常食を分けて貰う為に使者を使わし、庁内の状況を探らせた結果、朝鮮人暴動のデマの発信源は警視庁だと判断した。
彼は記者に取材にあたって「朝鮮人騒ぎは嘘で、騒いではいけません」と触れ回るように伝えた。

民衆はどうだったのか
10月9日、「東京日日」は甘粕大尉を「残忍冷酷、正に鬼畜の所業である」と報じた。
しかし、民衆には憲兵が不逞の輩を退治したのであって、甘粕を国士と見る支持者も多かった。
在郷軍人会なども動き、一般から集まった彼の減刑嘆願書の署名数は実に65万に達した。

何が変わっていったのか
既に社会は保守的傾向-国粋主義的で排他的な傾向、を強めており、民衆もそれに引っ張られていった。
多くの報道機関はまだ政府に抵抗していたが、報道規制やあらゆる手を使う政府の弾圧の前になす術は限られ、御用新聞や飼われていた右翼の教宣活動は力を持ち始めていた。

一番重要なのは、警察や軍隊、政府がこれで味を占め、報道規制だけでなく露骨な謀殺・謀略を行うようになっていたことです。
甘粕大尉の扱いは、1931年、満州事変の首謀者石原中佐の扱いと同じです。
また上記デッチあげ事件は1928年の済南事件(中国)に通じ、これらの扱いは敗戦までエスカレートして行くことになる。

こうして日本は、政府の権力と暴力によって報道は麻痺し、民衆は思うままに踊らされることになった。

次回に続きます。