Sunday, January 27, 2019

北欧3ヵ国を訪ねて 48: オスロ 7: 冒険家達の足跡








< 1.フラム号博物館 >


今回はビィグドイ地区の住宅街と三つの博物館を紹介します。
これら博物館はノルウェーが如何に海と深く関わり、偉大な海洋冒険家を頻出したかを教えてくれます。



 
< 2. ビィグドイ地区の散策ルート、上が北 >

1: ノルウェー民族博物館、既に紹介。
2: ヴァイキング博物館、既に紹介。
3: フラム号博物館、今回紹介。
4: ノルウェー海洋博物館、今回紹介。
5: コンチキ号博物館、訪問していませんが紹介。

黄線、ピンク線が博物館への徒歩ルートです。
ヴァイキング博物館からフラム号博物館までは約1.5kmで徒歩20分以内です。



 
< 3. ヴァイキング博物館のロッカー >

蛇足ながら博物館のロッカー事情を簡単に紹介します。
これまでスウェーデンとノルウェーの博物館を数多く訪れ、多くはバックなどを預ける必要がありました。
預けるべき場合は、すべて上記写真のような小さなロッカーがあり、無料でした。
小さなリュックは入るが、それ以上大きいものはどこのロッカーにも入れることが出来ません。
扱い方法は様々で、貸与してくれるコインやロッカー付属の鍵などを使う場合が多い。
分からなければ係員が近くに居て教えてくれます。

しかし、ここは少し違っていました。
ここだけはロッカールームが館外にありました。
この写真のように任意の番号を入力し、レバーを倒す方法もここだけでした。
少し戸惑ったが、扉の裏に英語で取り扱いが書かれています。



 
< 4. ヴァイキング博物館とお別れ >

上: ヴァイキング博物館。
下: 住宅街を歩き始める。


 
< 5. 高級住宅街 >

大きな住宅が並び、新築や改装中の建物も見ました。
平等の国のイメージがあるのですが、ここに富裕層が集まっているのか、それとも皆が裕福なのか、疑問に思いながら歩いた。



 
< 6. フラム号博物館が見えた >

下: 右手奥の三角屋根がフラム号博物館。
歩いている間に公共交通機関のバスの行き来を1回ぐらいしか見なかったように思う。
離れた三か所の博物館を繋ぐ便利な公共交通機関は無いようです。

 


< 7. フラム号博物館に入る >

上: 三角屋根がフラム号博物館。
右手にノルウェー海洋博物館。

下: 中に入ると、巨大な船体がすぐそこにあった。


 
< 8.甲板上  >

上: 船外の階段を登って甲板上に渡る。

下: 甲板中央から船首の方を見ている。
甲板の左右と前方を囲むように巨大なスクリーンがあり、フラム号が氷山の流れる荒海を航海している状況を再現している。
さらに音響とライトによる稲妻が臨場感を盛り上げていた。



 
< 9.フラム号の探検航路 >

上: 甲板中央から船尾を望む。
下: フラム号の3度の探検ルート。
左が二回行われた北極海の探検。
このフラム号による最初の探検は右側のルートで、ナンセンによるものです。
左側は二回目の別人による探検ルートです。

右が南極探検。
これは1910~1912年に行われたアムンセンによるもので、彼は人類史上初めての南極点への到達に成功した。


* ナンセンによる北極探検とノーベル平和賞受賞
ナンセンは科学者であり探検家でしたが、後に自国の独立と世界平和に貢献することになる。

彼は北極海を横断する海流を調査するために、このフラム号で漂流し確認しようとした。
この為に、彼は8年分の燃料と6年分の食料を積み込み、1983年に出港し、シベリア沖まで行き、そこで氷に閉じ込められ、3年間の漂流(地図中の下降)の後に寄港し、この調査探検は成功した。

一躍有名になった彼は、当時熱を帯びていた「ノルウェーのスウェーデンからの独立」に外交官として駆り出されることになる。
そして彼はロンドンで国際世論に訴え、独立の理解を求めた。
ついに1905年、ノルウェーは国民投票により無血で独立を勝ち得た。

第一次世界大戦後、彼は国際連盟の難民高等弁務官に就任した。
彼はソ連と交渉し、ロシア革命で共産政府と対立し海外移住を望んだロシア人に初めて国際的な身分証を発行した。
これにより140万人が難民移住出来ることになり、彼はノーベル平和賞を受賞した。

彼に続いてノルウェーから多数の海洋冒険家が出た。
また国として紛争仲介やノーベル平和賞授与などを通じて世界の平和に貢献し続けている。



 
< 10. ノルウェー海洋博物館 >

私にとって興味深かったのは数々の古い漁港のジオラマや木造船の模型でした。



 
< 11. コンチキ号博物館 >

ここは訪問していません。
上: 洋上のコンチキ号。
下: 航海ルート。

1947年、ノルウェーの文化人類学者ヘイエルダ―ルは自作の筏「コンチキ号」で南米からタヒチ島近くまで漂流航海を行った。
彼はイースター島のモアイ像がぺルーの像に似てるとして、ポリネシア人(南太平洋)は南米からの移住者と想定し、南米から航海が可能だったことを証明したかったのです。

彼の漂流航海は一応可能性を示せたのですが、残念ながら遺伝子分析でポリネシア人はモンゴロイドが主に台湾から航海移住によって拡散したことが現在わかっています。

それにしてもノルウェー人の冒険心を併せ持つ探求心には関心させられました。


次回に続きます。





Monday, January 21, 2019

北欧3ヵ国を訪ねて 47: オスロ 6: ヴァイキング船博物館




< 1.ヴァイキング船博物館の入口 >


今日はヴァイキング船の実物を紹介します。
その巨大さに圧倒されます。
後半で、北欧ヴァイキングについて語ります。


 
< 2. 博物館まで歩く >

ノルウエー民俗博物館からヴァイキング船博物館まで歩きました。
この間、およそ450m、歩いて10分以内です。

上: 途中の住宅街。
下: ヴァイキング船博物前の駐車場。
観光バスと観光客で一杯でした。


* オスロのヴァイキング船博物館について
ここにはオスロ・フィヨルドに面したオーセベリ「Oseberg」、ゴクスタ「Gokstad」、トゥーネ「Tune」で発掘された三隻のヴァイキング船と埋葬品が展示されている。
この発掘地の三ヵ所を写真6の地図に頭文字で示している。
発掘品を修復し展示している。
展示のヴァイキング船越しの壁に、フィヨルドから旅立つ遠征航海の迫力ある映像を上映していた。

オーセベリの発掘
834年に、この船と共に女王が古墳に埋葬された。
船はオーク材で出来ており、全長22m、幅5mで、9mほどのマストを持ち、帆を張って航行できた。
左右にオール穴が30あり、漕ぐことも出来た。
舵取りオール、鉄の錨を備えている。
船首と船尾は同じ形をしており、船は前後同じように進むことが出来た。
船首と船尾の模様は馴染みのある細長い獣が絡まっているものです。
この船は沿岸航行用らしい。

ゴクスタの発掘
これも埋葬船で、王かもしれない男性の遺体があった。
船はオーク材で出来ており、全長24m、幅5mで、マストを持ち、オーセベリよりも大きく遠洋航海もできた。
船の建造は890年頃。

トゥーネの発掘
これも埋葬船で、もっとも不完全な形で発見された。
全長は22m程度で、900年頃の建造。


 
< 3. オーセベリのヴァイキング船 1 >

上: 入口を入って直ぐに巨大なヴァイキング船が見えた。

下: 中央の階段上から同じ船を見た。

大きさに圧倒される。
これらの船でノルウエー・ヴァイキングは1000年頃には北米まで到達していた。
これはコロンブスよりも500年も早かった。
彼らの航海能力と旺盛な冒険心が、様々な探検家を生み出し、そしてノルウェーは20世紀中頃には世界の商船隊の10%を保有するまでになった。


 
< 4. オーセベリのヴァイキング船 2 >

船腹のオール穴、舵取りオール、埋葬品の別のヴァイキング船の船首。


 
< 5. オーセベリの副葬品のソリと車 >

上: 馬二頭で引かれたこのソリは実際に使用されていた。
本体はブナ材、滑る底板はオーク材です。

下: この車も馬で引くことが出来たが、実用的ではなく宗教儀式だけに使われたらしい(キリスト教以前の北欧神への祭儀)。



 
< 6. 展示物の補足説明 >

上: オスロ・フィヨルドを示す。
赤の文字は遺跡オーセベリ「Oseberg」、ゴクスタ「Gokstad」、トゥーネ「Tune」の頭文字を示す。
この辺りはノルウエー・ヴァイキング発祥の地です。

茶色の線は、後に私がフェリーでコーペンハーゲンに向かう航路です。
後にオスロ・フィヨルドの景色を紹介します。

中: オーセベリ古墳の発掘。

下: ゴクスタ船の再現模型。



 
< 7. ヴァイキングの姿 >

ヴァイキングは金属製の兜、鉄製の鎖帷子、木製の盾、大型の斧などで武装した。



 
< 8. ヴァイキングの暮らし >

上: ヴァイキングの暮らし(フェロー諸島)。
農耕を行い、家畜を飼い、石を積み上げ土と草で屋根を覆った家屋に住み、小舟を使う様子が描かれている。
(スカンジナビアの大陸側では木製の家屋)

下: ヴァイキングの航海の様子。



 
< 9.ヴァイキングの遠征 >

如何に広範囲に遠征し、交易していたかがわかる。


* ヴァイキングとは何か

私が35年前、スウェーデンとデンマークを訪れた時、豊かでゆったりと暮らす彼らがかつて荒れ狂ったヴァイキングの末裔とはとても思えなかった。
そして今回、私は三ヵ国のヴァイキング博物館と故地を訪れ、ヴァイキングとは何か、またその末裔とは何かを知ろうとした。

ヴァイキングは破壊と略奪を常習とする海賊だったのか?
それとも交易者であり冒険家、はたまた移住者だったのか?

スカンジナビアのヴァイキングは農民、漁民であり、この地に多い湖や川、入り江の近くに住んだ。
そして喫水の浅いボートで各地と行き交った。
この地は寒冷で氷河地形の為、作物栽培に適さず、人口の集中が起こらず村が散在するだけでした。

やがて彼らは9世記頃から、武装集団化しヴァイキング船に乗り、交易と略奪を始めるようになる。
最初、彼らは海が荒れる冬までに帰って来た。
西に向かったヴァイキングは幾たびもイングランド、パリ、ノルマンディーなどに侵攻し、ヨーロッパを恐怖に陥れた。
やがて遠くはグリーンランド、東に行ってロシアからイスタンブールまで遠征した。

彼らは季節的な移動から越年、そして定住した。
11世紀中頃にはヨーロッパへの植民が完了し、後にヨーロッパ王朝の一翼を担うことになった。
この間、スカンジナビア内では国家が誕生し初め、そしてヴァイキングの侵略は鳴りを潜めた。


 
< 10. 倭寇 >
上: 17世紀、倭寇と明官兵(左)の戦い
下: 倭寇の航路。



* なぜヴァイキングが始まったのか

実は日本にも東アジアに悪名を轟かした海賊がいた。
北九州西部はかつて倭寇の拠点だった。
倭寇は14世紀から16世紀にかけて朝鮮半島と中国、沖縄などで交易と略奪を行った。

倭寇の活動は前半と後半で異なるが、元々彼らは海での交易を生業とした。
やがて朝鮮半島の争乱や中国(宋)の海上交易の禁止で、彼らは密貿易、争い、略奪するようにもなった。
倭寇は日本人だけでなく中国人を含む多民族の集団になっていた。
彼らの子孫から大商人や台湾を奪還する中国側の将軍(鄭成功)が誕生した。

なぜ長崎の諸島が、倭寇の拠点になったのか?
それはこの地は朝鮮半島に近く、対馬海流に接するからです。


それではなぜヴァイキングの遠征が始まったのだろうか?
幾つかの説があり定かではありませんが、倭寇と似ているところがある。

紀元前から、スカンジナビアの人々は細長い船を作り、移動と交易を行っていた。
豊富な木材を利用し堅牢な船を作る技術を培っていた。
やがてマスト装備した帆船での遠洋航海が可能になった。

一方、8世紀末、ヨーロッパではカール大帝がキリスト教布教を口実に異教の地(バルト海沿岸)への征服を拡大していた。
スカンジナビアの人々は、これに対抗し、また混乱に乗じて略奪するようになったのだろう。


* なぜヴァイキングは終息したのか

一番大きく影響したのは、彼らによるアイスランドや西欧各地への大量の定住化が進んだことだろう(デンマークとノルウェー・ヴァイキング)。
彼らはキリスト教に改宗し、現地で王朝を作り、溶け込んでいった。

同時に、スカンジナビアに誕生した王朝もキリスト教に改宗し、西欧と同胞となっていった。
バルト海から東方で活躍したスウェーデン・ヴァイキングは、ドイツの港湾都市を中心としたハンザ同盟の力に押され、その後協調するようになった(この12世紀頃、北ヨーロッパは中世の経済停滞を脱し始めていた)。


ヴァイキングの末裔を語る時、彼らに残虐性が受け継がれていると言えるのだろうか?
では倭寇の末裔はどうだろうか?

結局は、交易を生業とする人々が混乱の中で密貿易や、異教徒や異民族間の対立で抗争に走ったのだろう。
やがて両者は略奪では無く、対等で自由な交易こそが最善策と知ることになった。


* ヴァイキングが遺したもの

現在の北欧、ここ半世紀余りの経済発展と福祉国家への大変身は、ヴァイキングと関りがあるのだろうか?

同様に、日本が明治維新後、西洋化を急速に成し遂げ、大発展を遂げたこと侍(サムライ)と関りがあるのだろうか?
結論から言うと、名誉と順応のサムライ文化と言うより、江戸時代に培われた組織労働を大切にする農民文化が、工場労働への以降をスムーズにさせたと言えるのではないか(注釈1)。


今の北欧を語る時、衰退一方の日本と大きく異なる社会文化があることに気づく。
それは個人を尊重する一方で、法遵守によって社会の維持を図ることです。
逆に日本では、個を犠牲にし、広範な社会に通用する規範を無視してまで首領ドンに従うことです(ヤクザ社会と同じ)。

北欧には特徴的な直接選挙の文化があります。
これはノルウェー・ヴァイキングが植民したアイスランドにかつて見られた。
元々、この文化はスカンジナビアに通じるものでした。
既にみたように、大規模な農業社会が出現しなかったことで中央集権化が遅れ、人々は権力者に依存しない社会文化を育てた。

その一例が、アイスランドに伝わるサガ(口承文学)に遺されている。
村で犯罪を犯した者が、共同体の集会で「平和喪失」を宣言されることがあった(ゲルマン社会に共通)。
これによりこの犯罪者は共同体を追われるだけでなく、さらに誰が彼に危害を加え、殺しても良いことになる。

こうして警察などの権力機構に頼らず、共同体で社会を統制した。
日本では村八分や恥の文化で対応したと言える。

これらが今の国民全員によるボランティア参加、高い政治意識、汚職の少ない政治、そして産業界と労働界の協調にも繋がっているのです。

また北欧のチャレンジ精神も優れたものの一つです。

ヴァイキングが交易を重視した理由の一つに、奢侈品の入手があった。
有力者は航海後、村人に奢侈品などを配った。
これは南太平洋や北米などにもみられる文化です。
異郷の地に大遠征することは彼の名誉を高めることだった。
この精神は今も息づいており、北欧の人々は海外に出ることを厭わず、家族も喝采を送るのです。

このことが世界を市場にするオンリーワン企業の多さ、科学技術と教育の重視、IT化(キャシュレス化)の先取りなどに繋がっている。
また半世紀前、西欧では社会主義離れが進んでいる中で、逆に福祉国家へ大きく舵を切ったことにも現れているように思える(他の要因が大きいだろうが)。

* あとがき

北欧を巡って来て、暮らしやさと生きやすさを肌身で感じた。
だからと言って、精神文化の違いを無視して北欧の体制をそのまま導入することは無理だろう。

例えばIT化の為のマイナンバー制度は社会や政府への不信感があり、日本では成功しない。
またスウェーデンでは自殺が多いが、これは尊厳死が多く、日本のように追い込まれての自殺ではない。
これに関連して、北欧の高齢者は福祉制度が整っていても、出来るかぎり自立して暮らそうとする。

このような違いを乗り越える方法が、私には見えて来ない。
だからと言って、このまま日本の没落を座視して待つわけにも行かないのだが・・・

次回に続きます。



注釈1
「名誉と順応のサムライ文化」は「名誉と順応」著者池上英子より拝借。

「組織労働を大切にする農民文化・・」のくだりは「日本社会史における伝統と創造」著者トマス・C・スミスより拝借。



Thursday, January 17, 2019

北欧3ヵ国を訪ねて 46: オスロ 5: ノルウェー民族博物館 3



 *1


今回は、ノルウェー民族博物館の最後の紹介です。
後半で、19世紀のオスロの街並みを紹介します。



< 2. 19世紀の農家 >

上の写真の一群の農家の説明書きは次の写真にあります。
これらは19世紀に建てられていた家屋で、その場所はオスロの南方の峡谷でした。

下の写真の小屋は同じ場所にあった14~15世紀の倉庫です。
上の写真の左側に見えます。


< 3. 上記、一群の農家の説明書き >



< 4. 上記の農家の内部 >

中央の大きな農家に入ることが出来ました。
中に入ると、写真のスタッフが訪問者に横の桶の用途を説明していました。
豆を貯蔵し、その後何かをする為の容器らしい。
少し質問をしたのですが、残念ながら理解出来ませんでした。
でも彼女は丁寧に対応してくれて、写真撮影にも快く応じてくれました。


< 5.倉庫類 >

上: ノルウェー南部にあった1754年の倉庫です。
扉両側の模様が良い。

下: 同じノルウェー南部にあった1800~1850年の乾燥小屋。
乾燥するものが、木材なのか穀物なのかがわかりません。
ノルウェーでは木材は重要な産業ですが、これは窓が小さ過ぎるので穀物用なのでしょうか。



< 6. オスロの古い街並み 1 >

この6と7の写真は19世紀後半のオスロの古い建物と通りを再現したものです。
オスロは10世紀頃から重要な都市ではあったが、その木造の古い街並みは幾度も大火災に遭っており、残っていない。
1814年以降、この地が首都になり、今のオスロの都市景観を形作るようになった。



< 7. オスロの古い街並み 2 >



< 8. オスロ郊外の家屋 1 >

1840年に建てられたオスロ北部の郊外の住居。
家屋は大きく無いが、幾つもの部屋が有り、郊外で自然を楽しみながら暮らしていた様子が窺える。
此処にきて初めて、農業や林業を生業としない暮らしの住まいを見ることが出来た。



< 9. オスロ郊外の家屋 2 >



< 10. オスロ郊外の家屋 3 >

写真の女性はスタッフです。
シンプルなデザインで、無垢の木材を生かした家具が印象的でした。

この住居が使われた時期は明治維新の30年前にあたり、今まで見て感じていた素朴で簡素な暮らしのノルウェーは一転、進んだヨーロッパ文化の香りがするようになった。
この時期の市民の暮らしが見えると、今の北欧の躍進を理解するヒントが得られるように思う。
つまり北欧の今の躍進は、半世紀あまりの急激な改革で勝ち取ったのか、それとも徐々に築き上げて来たものなのか?
残念ながら、この野外博物館だけでは分からない。


次回には巨大なヴァイキング船を紹介します。