Saturday, January 25, 2020

晩秋の北関東をドライブしました 11: 水戸の弘道館




 
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今回は、明治維新の立役者、水戸徳川家の弘道館を紹介します。
その建物の大きさと気概に感銘しました。


 
< 2.弘道館MAP、方角は矢印通り >

上: 水戸城と弘道館を示す。
現代の地図に江戸時代の配置を重ねている。
白色部分の右が水戸城、左が弘道館で、濃い茶色が堤、橙色が空堀。
弘道館の大きさに驚くばかりです。

赤線が見学したルートで、Sからスタートした。


下: 弘道館の拡大図で、上と向きが違います。
下側の茶色い部分が講道館の中心的な建物、正庁で創建当時からのものです。
黒線が見学したルートでSからスタートし、茶色線で戻った。

写真は見学した順番に並んでいます。




 
< 3. 弘道館の駐車場と入口 >

上: この広い道路を挟んで、向かいに水戸城の大手門があります。
この日、ちょうど大手門の復元整備完了に合わせて見学会が行われていました。



 
< 4. 正門 >

上: 藩主が来館する際などに使用した正門。

下: 見学者はその右手にあるこの門から出入りします。


 
< 5. いよいよ正庁に入る >

上: 門をくぐると正庁が見えた。

下: 成長の玄関。
見学者は右手の小さな玄関から出入りする。



 
< 6. いよいよ正庁内を歩く >


上: 玄関を内側から見た。

下: 来館者控えの間、諸役会所。
「尊攘」の掛け軸は、1856年、斉昭の命で書かれたもの。

江戸末期、180年前の建物がほぼ無傷で残っている。
素晴らしい!
この廊下や部屋から徳川斉昭や慶喜の息遣いを感じることが出来るような気がした。


 
< 7. 対試場に面した廊下 >

上: 廊下から正門を見る。

下: 対試場に面した廊下。
左の広場で武術の試験などが行なわれ、藩主は廊下右手の正庁正席の間から見た。


 
< 8. 正庁正席の間 >

上: 正庁正席の間。
藩主が臨席して、正席の間や二の間で学問の試験や対試場で武術試験が行われた。


 
< 9. 至善堂御座の間 >

上: 至善堂御座の間。
大政奉還後の明治元年(1868年)、慶喜は水戸へ下り、幼少時代を過ごしたこの至善堂にこもり、静岡に移るまでの約4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送りました。

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の徳川慶喜のシーンが蘇ります。



 
< 10. これで一周しました >


 
< 11. 正庁を出て >


 
< 12. 孔子廟 >

上: 孔子廟の門。

下: 鹿島神社。


弘道館について

水戸藩の藩校である弘道館は、藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。
弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」とされていました。
弘道館は、1857年に開館されました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。
敷地内には、正庁・至善堂・文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられ、生涯教育といえます。
学問と武芸の両方が重視され、多彩な科目が教えられていました。
また、医者を養成する医学館では、種痘や製薬なども実施されていました。

を要約

感じた事

藩校の弘道館と名のつくものが、江戸時代に10校造られた。
また足利学校のように儒学の学校に併設されていた孔子廟は、今も各地に10ヶ所ほど残っている。
栃木県の足利学校と言い、この弘道館と言い、孔子の儒学、朱子学は長期に渡り武家教育で重要な位置を占めていたことを実感した。

一番感銘を受けたのは、弘道館の広さが、水戸城の御城とほぼ同じだと言うことです。
江戸末期、徳川斉昭が武家屋敷の地に、この弘道館を建てた意気込みに感じ入りました。
それほど日本の危機を感じとり、そして改革の中心に教育を持ってきたことが素晴らしい。

いいものを見学しました。

次回に続きます。




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