Monday, February 19, 2018

デマ、偏見、盲点 22: 何がバブル崩壊と戦争勃発を引き起こすのか? 1





*1


これから、二つの悲惨な結果に至るメカニズムを考えます。
バブル崩壊と戦争勃発はまったく異なるように見える。
しかし実は同じようなメカニズムが働いているのです。
三回に分けて説明します。


* バブル崩壊と戦争勃発について

なぜバブル崩壊が起きるのでしょうか?
誰かが裏でバブル崩壊を煽っているのでしょうか?
残念ながら経済学は崩壊をうまく説明できない。

概ね投資家達(市場参加者)はバブルを好調とみなし歓迎します。
しかし一方で彼らは破産に至るバブル崩壊を恐れます。
一部、間違いなく救済される巨大銀行や崩壊の先頭を切って売り逃げた投資家は別です。(毎回、自分だけは別だと夢想している)


*2

なぜ戦争は起きるのでしょうか?
誰かが裏で戦争を煽っているのでしょうか?
この手の話はいつも巷に溢れています。
しかし多くの真実は戦争が終わってからでしかわからない。
(これを第2次世界大戦とベトナム戦争を例に注釈1で説明します)

平和時であっても、概ね国家は戦争を避けようとして軍備を整えます。
まして緊張が高まると増強へと舵を切ります。
概ね指導者は膨大な人命と破壊が起きてしまう戦争を望まないはずです。
少なくとも国民は戦争が二度と起こらないことを強く望むはずです。
一部、戦争をしても被害の少ない大国や支持率が上がる指導者、莫大な利益を得る軍産共同体は別です。

バブルを煽る投資家達も軍備増強を推し進める国家も共にその悲惨な結果を恐れることでは共通しています。
それでは、なぜ望まない悲惨な結果が生じるのでしょうか?



*3


* バブル崩壊のメカニズム

バブルは経済好調と紙一重ですが、ほぼ確実にバブルは崩壊します。

これは投機家らが株価(金融商品)の高騰が続かないと不安を抱くことが引き金になります。
このタイミングは微妙です。
バブル崩壊の直前まで、多くの経済指標(生産高や失業率)は良好だったのですから。

一つ明確なことは、暴落する時、最初に売り逃げた者は利益を得るが、後になればなるほど投機家達は莫大な負債を背負う運命にあることです。
暴落が始まると、手のひらを返すように貸し手(銀行)が投資資金の回収を急ぎ、逃げ遅れた投機家は莫大な含み資産の所有者から一転して莫大な借金を背負うことになります。
(これを土地投機を例に注釈2で説明します)

この被害は投機資金のレバレッジが効いているほど、中央銀行によるマネーサプライが多いほど起き易くなります(巨額の借金を安易に入手出来る為)。

この時、投資家や金融業が破産するだけでなく、必ず国民も大不況の被害(不景気、失業、福祉カットなど)を長期に被ることになります。
これは銀行の倒産などに端を発する金融危機、つまり巨大な信用収縮が起きるからです。
この深い傷を放置すれば、過去のバブル崩壊(恐慌)後の景気後退のように、設備投資や消費が回復するのに何十年かかるかわかりません。
深刻だったのはヨーロッパの1857年から、米国の1929年から、日本の1991年からの二十年を越える景気後退でした。

このため崩壊後、政府と中央銀行は数十兆円から数百兆円を主に金融市場に投じるのです。
この金額で暴落時の全金融商品(株価など)の評価損を幾分なりとも補うのですが、悲しいことに国民が負担する税金と赤字国債で賄われます。

実はリーマンショック時の全金融商品の評価損はよく分からない。(不明な理由はシャドウバンキングの取引額が分からないためです)
しかし当時のクレジット・デフォルト・スワップ(金融商品の保険)の取引額が6800兆円に上っていたので評価損は見当がつきます(想像を越えますが)。

つまりバブルで儲け、崩壊を引き起こすのは投資家(市場参加者)なのですが、その結果、その痛いツケを強制されるのは傍で浮かれていた国民なのです。


次回は戦争勃発のメカニズムについて説明します。


注釈1
ベトナム戦争は誤解から始まり、深みに嵌った戦争の代表例です。

戦争の発端は第二次世界大戦後に始まる冷戦の敵対感情の高まりにあった。
さらに離れた大陸にあり、異質の文化を持った米国とベトナムは互いに相手国をまったく知らなかった。

初期の接触、ベトナムでの小さな戦闘でこじれたことにより、その後は疑心暗鬼から大戦を凌ぐ爆撃量になるまでエスカレートしていった。
そして米国では大統領が替わるたびに停戦を志向するが、選挙を意識し敗戦の将の不名誉を避けようとして益々深みに嵌っていった。
終わってみると、この戦争で800万人の死者と行方不明者が出ていた。

後に、両国の当時の最高指揮官達が会談して初めて互いの誤解に気づくことになった。
この会談は1997年、ケネディ大統領の下でベトナム侵攻の采配を振るったマクナマラ元国防長官が、ベトナム側に要請して実現したものです。
詳しくは私のブログ「戦争の誤謬 7、8: ベトナム戦争1、2」を参考にしてください。

第2次世界大戦を引き起こしたヒトラーは外部に凶悪な敵がいると扇情し国民を魅了した。
その敵とは主に共産主義者、ユダヤ人、フランスやロシアの周辺国でした。
しかし、やがてドイツ国民は真の破壊者が誰であるかを知ることになるのですが、それは戦争の末期になってからでした。
多くの国民は戦後10年間ほど、ヒトラーに騙された被害者であると感じていたようです。
その後、加害者の自覚が生じ反省と償いが本格化した。

一方、共に戦端を開いた日本では国民が軍部に騙されたと気づいたのは敗戦後でした。
しかもドイツと違って、未だに誰が真の破壊者であったかを認めない人が多い。
極め付きは、国の指導者でさえ相変わらず過去の美化に懸命です。

これでは誰が戦争を始めたかを理解出来ないので、当然、戦争を食い止めることなど出来ない。
おそらくは同じ過ちを繰り返しても気づかないでしょう。



注釈2
身近な企業経営者が1880年代のバブル時にハワイの別荘を買い、バブル崩壊と共に夜逃げしたことがありました。
この過程を説明します。

バブルが始まると最初に工場を担保にし、1億の手持ち資金で国内不動産を購入し、これが数年で2億の評価額になりました。
次いで、これを担保に借金し、別に買った物件がまた4億円に高騰しました。
これを繰り返して行くうちに、遂にはハワイの不動産を買うことが出来た。

絶頂期に彼は総資産20億、借金10億で純資産10億となったことでしょう。
(ここで売れば良かった!!)
しかしバブルが崩壊し、すべての不動産価格が購入時の半値になりました。
彼の総資産は1/4以下に減価し、不動産をすべて売却し返済に充てても借金5億が残りました。
こうして彼は破産しました。

金融商品投資でレバレッジを30倍効かせれば、暴落時の借金はこんな少額では済まない。
ここ半世紀、規制緩和でレバレッジが上がり、金融緩和でマネーサプライが巨大になって投機資金が膨大になり、その尻ぬぐいで累積赤字が天井知らずになっている(減税と公共投資も追い打ち)。

毎回のバブル崩壊で、このように土地、株、商品取引などの高騰と暴落が繰り返されている。
資本主義国だけでなく中国も不動産(マンション)と株で同様の高騰な続いています。





Thursday, February 15, 2018

Walking around Higashiura, Awaji-Island in winter 1

冬の東浦を歩く 1











*1





Today, I introduce mountains, fields, and sea of Higashiura.

February 13th 2018, I walked for 12 km during snowing occasionally.

I wil introduce it in installments from now.  



今日は、東浦の山野と海を紹介します。

2018年2月13日、時折、小雪がちらつく中を12kmほど歩きました。

これを数回に分けて紹介します。



First

This area I walked is at about the center of old Higashiura-town.

This became a part of Awaji-city due to merging of cities towns and villages.

Higashiura is a warm land faceing Osaka gulf, and the most of it is hills with mautains behind.

You can came from Kobe to here for 45 minutes by only an expressway bus.





はじめに

私が今回歩いた所は、かつての東浦町の中央部分になります。

ここは現在、町村合併で淡路市になっています。

東浦は大阪湾に面し、山を背にした丘陵地帯が続く温暖な地です。

神戸からは高速バスで45分で来ることが出来ます。









< 2.  walked trail >

< 2. 散策ルート >



Upper map:  North is upper.  The blue line shows walked trail.



Lower map:  North is right.  The blue dot line shows walked trail in a circle.

The distance is about 12 km, and the difference of elevation is about 70 meters.

I walked paths of hills along mountainside, paths along a river in basin, along sea shore, and through ports.

The yellow line shows the part introducing this time.





上の地図: 上が北。青線が散策ルートです。



下の地図: 右が北。青の点線が今回一周したルートです。

距離は約12km、標高差70mぐらいです。

丘陵地帯の山側と川沿いの道、そして海岸沿いと漁港を歩きました。

黄色の直線は今回紹介する部分です。











< 3.  Views from the walked trail >

< 3. 歩いた道 >



These are walked paths and ponds of nearby it.



これらは歩いた道と道の直ぐ横にある溜池です。











< 4.  bamboo woods >

< 4. 竹藪 >



The bamboo is always blue even among a lot of dead trees in winter mountain, so it  reminds me breathes life.

But the bamboo woods are expanding because bamboo has strong life and the woods are left uncontrolled due to village people are aging.



冬でも竹は青々としており、枯れ木の多い山野にあって息吹を思い起こさせてくれます。

ただ、竹藪は旺盛な生命力で他の木々を追いやり、さらに高齢化で竹藪が放置されているので、竹藪は拡大の一途です。















< 5.  these flowers and fruits could be seen from path >

< 5. 道端で見かけた実りと花 >



Among a lot of dead trees in winter, fruits in fruit farm, daffodils and field mustards blossom.



周囲の多くは冬枯れの景色ですが、果樹園には柑橘類、庭先には水仙や菜種の花が咲いていました。











< 6. lookdown on Osaka gulf in a southerly direction. >

< 6. 南側に大阪湾を見下ろす >



Higashiura is famous for flower-growing of carnation etc. and the hills are full of glasshouses.

Many holding ponds are scattered there.

These holding ponds were needed to irrigation of rice paddy fields that located in a steep slop, and the village people have made and controlled it together.

This seems to have made the unity of people strong.



東浦はカーネーションなどの花卉栽培が盛んで、その温室が丘陵部を覆っています。

また多くの溜池が点在しています。

溜池はこの急斜面の田んぼの灌漑には無くてはならいもので、古くから村人達が造り管理して来たものです。

これが村人の団結を育てることにもなったのでしょう。













< 7.  lookdown on Osaka gulf in an easterly direction.  >

< 7. 東側に大阪湾を見下ろす >



Upper photo:  Kariya-port is inside a breakwater.

Osaka is on the opposite shore.



Lower photo:  Terraced fields are scattered alomg paths.





上の写真: 防波堤が見える所が刈谷漁港です。

対岸は大阪です。



下の写真: 道沿いに点在する段々畑。





 

< 8.  lookdown on Osaka gulf in an northerly direction.  >

< 8. 北側に大阪湾を見下ろす >



The opposite shore is Kobe, and Suma on the left side.



対岸は神戸、左側は須磨です。





This continues to next time.



次回に続きます。





Tuesday, February 6, 2018

デマ、偏見、盲点 21: 抑止力と規制緩和に共通する危さ





*1


今、二つの危機、核戦争と経済破綻が迫っています。
しかし、この対処方法に真逆の説があり折り合いがつかない。
このままだと遂には破滅に至る可能性がある。
人々は漫然とかつて歩んだ道を進むのだろうか?


*抑止力と規制緩和に共通するもの

この2月2日には米国は核軍縮から小型核使用に方向を転じた。
また2月3日にはNYダウが1日で2.5%下落した。
これがリーマンショックを上回るバブル崩壊の始まりかどうかはまだ定かではないが、可能性は高い。

ある人々は、この二つは世界を破滅に導くと警鐘を鳴らす。
この破滅とは、核戦争と大恐慌(著しい経済格差と国家債務不履行も含む)です。

しかし一方で、これこそが破滅を防ぐ最善の策だと唱える人々がいる。
戦争を防止するには小型核、恐慌を回避するには景気拡大の為の規制緩和こそが絶対必要だと言うのです。

この二つの危機とその対処方法は一見次元が異なるように見える。
しかし、この二つの対処方法には不思議な共通点があります。
小型核は抑止力、規制緩和は自由競争を前提にしているのですが、実は共に相手(敵国や競合者)の善意を信じない一方で理性に期待しているのです。

抑止力は、敵意剥き出しの国がこちらの軍備力を的確に把握したうえで抑制出来る理性を有する場合のみ成立するのです(太平洋戦争時の日本軍が反証の好例)。
規制緩和は、個々の市場参加者が利己的に行動しても、市場全体としては最適な方向に落ち着くと信じているのです。
何か不思議な信念に基づいた論理なのです。

実際の社会は、悪意も善意も、感情的にも論理的にも動いているのですが。

さらにもう一つ、共通していることがあります。

例えば「抑止力は無効だ!」「自由競争は不完全で弊害が多い!」と否定したらどうでしょうか?
実は困って激怒する人々がいるのです。
前者では軍需産業、後者では金融業界や富裕層で、大きな実害を被るからです。
逆に否定して利を得る人々は特に見当たりません。

具体的に抑止力と規制緩和の危さについてみていきます。


 
*2


*抑止力の罠

兵器による抑止力は有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

先ず、抑止力が有効な場面は身近な事から類推できるでしょう。
しかし抑止力が効かなくなる場合を理解することは少し難いでしょう。

単純に二つのケースがあります。
競合国(敵対国)が共に軍拡競争に突入した場合です。
一方が軍備増強を行えば相手は脅威を覚え、必ず軍拡競争が始まります(初期の米ソの冷戦)。
これは歴史上至る所で見られ、多くは大戦へとエスカレートしました。

もう一つは、兵器が無数に拡散した場合です。
分かり易いのは、米国の銃社会です。
国民一人に1丁以上の銃があることによって、銃による殺人事件や自殺が非常に多くなっています。
ここでは安易な兵器使用が抑止力の効果を上回っているのです(大国の中東などへの安易な軍事介入なども)。

この二つの例からだけでも、使いやすい小型核の普及は抑止力よりも危険の増大が予想できるはずです。

これに加えて、核兵器ならではの危険を増大させる要因があります。
一つは被害が非常に悲惨なことです。
このことは見落とされがちですが、多くの戦争は燃え上がる復讐心が高ければ高いほどエスカレートし、停戦は不可能になります。
だからこそ人類は悲惨な被害を与える対人地雷やナパーム弾などの兵器の使用を禁止してきたのです。
残念ながら世界は原爆の被害をまだ知らない(日本が先頭切って知らすべきなのですが)。

もう一つは、兵器のコストパフォーマンスが高いことです。
もし手に入れることが出来れば数億から数十億円で相手一国を恐怖に陥れることが出来るのです(抑止力と呼ぶ国もある)。
これまでは膨大な軍事費を賄える経済力こそが大きな抑止力を可能にしたが、核兵器なら小国でも可能になります。

結論は、小型核のような兵器は抑止力を期待出来るどころか、取返しのつかない状況に追い込んでしまうのです。
銃が蔓延し殺人が多いにも関わらず、銃規制が出来なくなってしまった米国がその好例です。

米国では治安と平和は高額で買うしかなく、金が無ければ治安が悪い所に住み、命を危険にさらさなければならないのです。
核兵器の下では、これすら不可能です。


*規制緩和の罠

規制緩和は経済活性化に有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

皆さんの多くは規制緩和が経済を活性化させると信じているはずです。
一方で規制緩和が経済や社会に弊害をもたらす事例も数多くあるのですが、なぜか見えなくなっています。
これは今の日本で、有効だとする情報が大量に流されているからです。

幾つかの事例をみてみましょう。



 
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*米国の規制緩和がもたらしたこと

先ずは米国で40年近く行われて来た規制緩和が如何にバブル崩壊と経済格差を生んだかを簡単に説明します。
専門用語が出て来ますが、全体の流れを知って頂ければありがたいです。

1. 先ずストックオプションが1980年代から急増した。
これにより経営者は短期に高騰させた自社株を安く手に入れ、彼らの所得は鰻登りなっていた。
このことが企業経営を投機的で短期的なものにし、従業員との所得格差も開いた。

2.グラス・スティーガル法が1999年に廃止された。
この法律は1929年の大恐慌の再来を防止するために銀行業務と証券業務を分離し、投機行動を監視し抑制するのが目的でした(1932年制定)。
しかし、これが廃止されたことにより、監視が行き届かないシャドウバンキング(証券会社やヘッジファンド)が好き放題に投機をおこなった。

3.投機時のレバレッジ率が上昇した。
これは証券、商品、為替などへの投機時に自己資金の数十倍まで投資が可能になることです。
これによって投資家は価格が高騰した時は桁違いの儲けが出るのですが、暴落すると巨額の負債が発生し、バブルと崩壊が繰り返されることになった。
このことが2項の監視されない状況で起こった。
 
4.クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)が2000年頃から急拡大した。
これは金融派生商品の一種ですが、リーマンショックの巨大なバブル崩壊を招いた大きな原因の一つでした。
これは金融取引時の損失を補償する新手の保険で、当時、危険な投資案件でも金融機関はこの保険があれば救済されると信じていた(赤信号皆で渡れば怖くない)。

バブル崩壊前年の2007年末にはその取引額は6800兆円になっていたが、6年間で100倍にも膨れ上がっていた。
この年の米国の名目GDPは1500兆円で、如何に膨大かがわかる。
当然、崩壊時の補償など出来るはずもなく、米国政府は税金と国債発行で300兆円を金融危機終息の為に注入せざるを得なかった。
出来もしない補償であろうがCDSを販売すれば儲かったのです(6800兆円の数%の手数料でも莫大)。

大雑把ですがポイントは以上です。
この悲惨な状況を生み出した最大の馬鹿げた理由は、貪欲な投機家や資産家、経営者達を野放したこと、つまり規制をしなかったことによるのです。
もうひとつ見落としがちなのは、資金力や情報力、政治力などの差により完全な自由市場などは存在しないことです。

この話は、少し分かり難いかもしれません。
しかし規制や取り決めがなく好き勝手にした為に社会が壊滅した事例は歴史上多いのです。



 
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* 歴史上、破滅した例

典型的な例はイースター島とアイスランドです。

人々が最初にこれらの島に入植した時は、木々が茂る緑豊かな所でした。
しかし、燃料などの為に伐採が進む内に自然は再生不能となり、イースター島では部族同士が激しく争い、人口は激減し、逃げ出すにもカヌーを作る木材さえなくなっていた。
アイスランドは木々の無い島となり、それこそ火と氷の島となったのです。


* 日本の事例

最後に日本の規制緩和の惨めな例を一つ挙げましょう。
労働者派遣法の適用拡大により、非正規雇用が拡大し続けています。

これも賛否両論があります。
ある人々は産業の競争力を高める為に、また産業や企業の盛衰に合わせ人材は流動的でなければならないと言う。
一方で、安易な首切りや低賃金の横行は基本的人権を侵害すると言う。

おそらく多くの人は、経済側の言に耳を傾け、泣き寝入りするするしかないと感じていることでしょう(これは日本人の奥ゆかしさかもしれない)。

この問題のポイントは是か非かではなく、どちらも正しいのです。
企業の競争力を高め、労働者の価値を高めるためには、人材の流動性が必要です。
当然、簡単に首を切られ、低収入や無収入に甘んじなければならないのは論外です。

つまり、労働者は失業中も収入が確保され、転職のための再教育や訓練が充分行われ、就職すれば当然、同一労働同一賃金であるべきなのです。

こんな夢のようなことは不可能だと思われるかもしれませんが、北欧(スウェーデン、デンマークなど)ではこれが当然のように行われているのです。

日本の悲しさは、産業競争力の責任を一方だけが背負い甘んじているのです。



 
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*まとめ

抑止力と規制緩和の問題点を簡単に見て来ましたが、ここで確認して欲しいことがあります。

抑止力については歴史的に見て完全なものではなく、むしろその強化を放置すれば災いを招くことがあったことを知ってください。

また規制緩和はここ半世紀ほど米国を筆頭に行き過ぎており、多くの問題が生じていることを知ってください。

抑止力と規制緩和の推進は軍需産業や金融業界、資産家に取って実に旨味のあることなのです。
東北大震災の福島原発事故のように、大きな産業と関係省庁が癒着してしまうと、体制維持に都合の良い情報だけが国民に流され続け、問題点が見え無くなってしまうのです。


* 日本が今歩んでいる道

 
< 6.銀行の金融資産と自己資本の比率、OECDより>

金融資産/自己資本は金融セクターの財務安定性を見るためのものです。
上のグラフ: 2004~2016年の金融資産/自己資本の推移。

多くの国、例えば英国、デンマーク、米国はリーマンショック後、健全化を進めているが、日本だけは悪化している。

下のグラフ: 2016年、この日本の比率はOECD35ヵ国の内、下位から
三番目です。

もし大暴落が始まればどの国が最も影響を受けるのでしょうか?



参考文献
「米国の規制緩和がもたらしたこと」に詳しい本

「世界金融危機」金子勝共著、岩波書店、2008年刊。
「世界経済を破綻させる23の嘘」ハジュン・チャン著、徳間書店、2010年刊。
「世界を破綻させた経済学者たち」ジェフ・マドリック著、早川書房、2015年刊。
「これから始まる『新しい世界経済』の教科書」ジョセフ・E・スティグリッツ著、徳間書店、2016年刊。






Thursday, February 1, 2018

フランスを巡って 58: 目次と感想






*1








旅行記の最後に目次と感想を記します。
この旅行で念願の南仏、アルザス地方、モンサンミッシェル、幾つかのゴシック大聖堂を訪れることが出来ました。
またフランスのお国柄を肌で感じ、また歴史が身近なものになりました。


旅行の概要
トラピックスのツアー「13日間のフランス夢の大周遊」
期間:2017年5月17日(水)~29日(月)

関空深夜発、ドバイ経由でニースに着き、旅行が始まりました。
フランスを9日間宿泊し、移動はすべて観光バスでした。
帰国は午後パリ発、ドバイ経由で関空に着きました。

ニースの朝だけ小雨になった以外はすべて快晴に恵まれ、最高の観光日和になりました。
一方で、最高気温が予想外の30℃近くにもなりました。


< 2. 旅行ルート >

数字は観光地を示し、観光はその順に進みました。
黒い数字は観光のみ、赤い数字は観光した宿泊地を示す。
赤字のTは宿泊だけのトゥールです。
茶色の線は観光バスでの移動を、赤線は航空路を示す。


* 目 次

 
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写真は記事の巻頭写真で、写真番号は記事の番号です。


1 はじめに
旅行の概要と各地の代表的な写真を紹介しました。

2 モンサンミッシェルの朝昼晩
モンサンミッシェル全景をほぼ一昼夜撮影しました。
陽に輝く雄姿、夕陽に浮かぶシルエット、朝霧に霞む遠景など。

3 セーヌ川クルーズ
休日のセーヌ川クルーズは夕陽と歓喜に包まれました。
両岸で憩う市民が手を振り、クルーズ船を温かく迎えてくれた。

4 古都ボーヌ
ワインと修道会創立で有名なブルゴーニュにある中世の古都ボーヌを尋ねました。
街と周辺の風景を紹介しました。

最も感動した上記2~4を最初に紹介しました。
次からは、訪問順に紹介しています。

5 鷲の巣村エズ
地中海を望む険しい山頂に鷲の巣村と呼ばれるエズがあります。
この要塞化した村は長い戦乱を生き延びる為でした。

6 小国モナコ
モナコは争いを経て、また小国として活路を見出さなければならなかった。
それが断崖絶壁の王宮であり、高級リゾート地への道でした。

7 旅行2日目のまとめ
ニース空港からエズとモナコ、そして宿泊地のニースまでの景色とフランス最初の食事を紹介しました。

8 大リゾート地のニース
ニースの海岸と旧市街で露店が並ぶサレヤ広場を紹介しました。



 
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9 ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め
バスの車窓から見たブドウ畑とセザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山を紹介しました。

10 古都エクス・アン・プロヴァンス
ここは陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都、セザンヌの生誕の地であり晩年を過ごした地でもありました。

11 古都アルル
古代ローマの遺跡が残り、ゴッホが愛し傷つき去った古都アルルを紹介しました。
ローヌ川の突風を遮るための糸杉がゴッホの思いを彷彿とさせます。

12 要塞都市アヴィニョン 1
巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市は巨大でした。
衰え始めていたはずなのに、教皇の権力がまだ絶大だったことに驚いた。

13 要塞都市アヴィニョン 2
アヴィニョン旧市街と市場の自由散策を紹介しました。


 
*5


14 ポン・デュ・ガールの水道橋
山間の川に架かる巨大なロ―マ時代の水道橋を訪れました。
この近くの山に氷河期の人類最古の洞窟壁画(ショーヴェ)がありましたが、行くことは出来ませんでした。

15 ポン・デュ・ガールからリヨンへ
ローヌ川沿いの平野を眺めながらリヨンに向かいました。

16 大都市リヨン 2
フランス第2の都市リヨンの大聖堂とその展望台、そして旧市街を紹介しました。

17 大都市リヨン 3
新市街のベルクール広場と、その後の自由散策、夕食を食べたレストランの光景を紹介しました。

18 リヨンからボーヌまでの景色
リヨンからボーヌまでの車窓からの景色を紹介しました。

19 中世の施療院オテル・デュ
ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介しました。
医術史に関心がある方には特に興味深いものがあるでしょう。


 
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20 ボーヌからストラスブールまで
共にワインで有名なブルゴーニュからアルザスの風景を車窓から眺めました。

21 ストラスブール 夕刻と朝に
夕刻のストラスブール旧市街と朝のホテル周辺を紹介しました。
この地を訪れるのは長年の夢で、その上二泊も出来て大満足でした。

22 ストラスブール旧市街1
朝、いよいよ待ちに待った旧市街、プチットフランスと大聖堂を観光しました。
この都市は交易で栄え、活版印刷誕生の地になった。
この豊かな都市民の熱意が数百年をかけて大聖堂を作り続けた。
一方で周辺の貧しい農民の不満が宗教改革の起爆剤となった。

23 ストラスブール旧市街2
主に大聖堂の雄姿と内部を紹介します。

24 可愛い町、コルマール
川縁に並ぶ木骨組み家屋が、まるで中世の御伽の国に迷い込んだような感じにさせる町でした。

25 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル
ここはワイン畑の丘陵地にある小さな村、アルザスワインのワイナリーでも有名な所です。
実は、かつてこの村は城壁で囲まれた要塞でした。


 
*7

26 ストラスブール最後の夜
ストラスブールの最後の日、夕方から自由散策を始めました。
ホテル近くの大型スパー、川沿いの旧市街、夕食のレストランでのハプニングを紹介しました。

27 アルザスに想う
アルザスの風景を紹介しながら、この地が大国の狭間で如何に戦火に見舞われ続けたかを紹介しました。
そして今、人々は何も無かったように平和に暮らしています。

28 ストラスブールからランスへ
フランスの東北部、ロレーヌ地方からシャンパーニュ―地方の景色を紹介しました。
この地はフランスの源流、フランク王国誕生期の中心に位置し、このことが後にジャンヌ・ダルクを生み、ランス大聖堂の名声へと繋がった。

29 ランスの大聖堂 1
大聖堂を取り囲む町の景観を紹介しました。

30 ランスの大聖堂 2
大聖堂の外周を一周し雄姿を紹介しました。

31 ランスの大聖堂 3
大聖堂の内部を紹介しました。



 
*8

32 サン・レミ聖堂
同じランスにあるロマネスク様式で建てられたサン・レミ聖堂を紹介しました。

33 ランスからパリへ
ランスからイルドフランスの景色、パリとホテルから見た夕陽を紹介しました。
パリには3泊するのですが、この日はモンサンミッシェルに行くために途中一泊した。

34 パリからモンサンミッシェルへ
モンサンミッシェルがあるノルマンディー地方の景観を紹介しました。
バスで走行した午前中は曇りだったこともあり、物悲しい雰囲気が漂っていた。

35 モンサンミッシェル 1
対岸のホテルからモンサンミッシェル入口近くまでの景色を紹介しました。

36 モンサンミッシェル 2
歩いたモンサンミッシェルの城壁を紹介しました。
巨大さに圧倒されました。

37 モンサンミッシェル 3
城内のメインストリートとその先にある修道院までを紹介しました。


 
*9

38 モンサンミッシェル 4
巨大で打ち捨てられた修道院の中を紹介しました。

39 モンサンミッシェル 5
修道院を出て外周を廻り、村の暮らしを感じさせる裏道を下りました。

40 モンサンミッシェルからロワールへ
王侯貴族が愛したロワール地方までの景色を紹介しました。

41 シュノンソー城 1
女性城主達が住み続けた優美な城の外観と庭園を紹介しました。

42 シュノンソー城 2
城内を紹介しました。

43 シャンポール城に向かう
ロワール地方のもう一つのシャンポール城に向かい、ロワール川沿いを走りました。



 
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44 シャンボール城
こちらは巨大で複雑な形をした城で、庭園と言うか森が巨大でした。
外観を見るだけでした。

45 トゥールへ
宿泊と夕食の為にトゥールに向かいました。

46 シャルトルへ
ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯の景観を紹介しました。

47 シャルトル 1
シャルトルの町と初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の外観を紹介しました。

48 シャルトル大聖堂の内部
シャルトル大聖堂の内部、特にステンドグラスが美しかった。

49 ベルサイユ宮殿へ
シャルトルからベルサイユ宮殿の入口までの景色を紹介しました。



 
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50 ベルサイユ宮殿
ベルサイユ宮殿の内部を紹介しました。

51 前衛都市ラ・デファンスに泊まって
パリの宿泊地ラ・デファンスの2日間を紹介しました。
近代的なビル、広場での交流、大型スパーを紹介しました。

52 ルーブル美術館
車窓からのパリとルーブル美術館の代表的な美術品を紹介しました。
ルーブル美術館は三度目の訪問になり、ミロのヴィーナスは京都も含めて思い出深い対面となりました。

53 パリ散策 1
5回に分けて地下鉄で巡ったパリの下町を紹介しました。
この回は、アンファン・ルージュの市場が主になります。

54 パリ散策2
パリ誕生期を偲ばせるサン・ジェルマン・デ・プレ教会の紹介でした。

55 パリ散策3
大学の街カルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介しました。
アラブ世界研究所からの眺めが良かった。


 
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56 パリ散策4
パリ最古の通りで、様々な飲食店が並ぶ庶民のムフタール通りを紹介しました。

57 パリ散策5
ムフタール通りの人々との触れ合い、地下鉄の風景を紹介しました。

これで目次は終了です。


*フランスを旅して思うこと
海外旅行は高揚の連続です。
旅では好奇心が旺盛になり、建築や景観を見て、文化や人に触れ、多くのことを学ぶことが出来ます。
そして旅行前に抱いていた疑問の多くに、それなりの答えが得られます。
中には、より深い疑問が生まれることもありますが、これも励みになります。
また以前から抱いてたイメージの多くは覆され、多くは好印象を得ることになる。
今回もそんな連続でした。


南仏に始まり、アルザス、ノルマンディー、パリは長年の戦火に見舞われた来た。
印象派の画家達が好んだ太陽と緑豊かな地中海沿いの南欧、ライン川沿いに開けたワイン畑が広がる丘陵地のアルザスは幾度も戦火をくぐり抜けた。
アルザスは第二次世界大戦まで争いが続いていた。
この間、南仏とアルザスでは国や領主が頻繁に変わった。
そして今は言葉や文化が混じり合い、かつての憎しみは消えており、観光客が訪れる平和な地域となった。

私はこのアルザスの歴史に「戦争と平和」の答えがあるように思えた。
残念ながら、今回の旅行では納得のいく答えを得ることが出来なかった。
しかし、一つの確信を持つことが出来た。
それは隣国同士が融和策を主導すればアルザス、ストラスブールのように安寧と平和が訪れるのだと!


ノルマンディー(フランス北西部)の屋根瓦や家の作りに他のフランス地域との違いがあり、かつてヴァイキングがここに住み着いたことを連想させる。
また、パリは幾度もヴァイキングの侵略を受けていた。
フランスを建国したフランク人も、植民し攻撃したヴァイキングも元をただせば同じゲルマン人だ。
また英仏戦争を戦い続けた英国もゲルマン人(アングロサクソン)とヴァイキングの作った国だ。
そして、今は英仏で異なった国造りを行い、フランスでは両者は溶け込んでいるように見える。

ヨーロッパの歴史は、日本から見れば民族の衝突が繰り替えされた悲愴なものに思える。
その一方、この民族や宗教の違いを乗り越え、仲良く暮らす工夫が成功している唯一の地域だろう。

今回、ゴシック建築の歴史を身近に感じることが出来た。
シャルトルでゴシック建築が生まれたのは、フランスの初代王朝がパリを首都にしたことに起因しているいたことを実感できた。


一番の収穫は、多くの楽しくて温かいフランス人に接したことでした。
セーヌ川クルーズでの歓迎、様々場面でカメラを向けた時に返してくれる笑顔が忘れられない。
中には機嫌を悪くする人もいたが。

エクス・アン・プロヴァンスで飛び入りした昼食レストランでの親近感溢れるウエイター、リヨンの地下鉄で道を教えてくれた移民家族の親切な青年、日本から予約していたストラスブールのレストランでのハプニング、ムフタール通りの魚屋のユーモア溢れる青年、プラス・モンジュの公園で会った喜びを隠さない女性、ラ・デファンス広場の親子の親しみ易さなど、良い思い出が多い。

様々な地で、キャンピングカーや自然が残る河畔で余暇を楽しむ家族の多いのに驚いた。
人生の楽しみ方が日本と異なり、羨ましく思った。

大都市では肌の色が異なる多くの人々が仲良く暮らし、結婚もしていることに感銘を受けた。
移民を受け入れることは分裂や社会の停滞を生み出す恐れがあると不安もあったが、むしろこれを乗り越えているフランスを力強く思えた。

こうして多くのことを体験し学び、フランスと旅行に感謝し旅行記を終えます。
長きにわたりお読み頂きありがとうございました。