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Monday, September 21, 2026

短縮版 迫る多難な危機  第二章 2-7

 


「一時の自己満足の為に人類を破滅させては、神も悲しむだろう」

 

この短縮版は、既に投稿済みの「迫る多難な危機」を、少し内容を割愛、分割して連載します。

 

 

まえがき

 現在、深刻な危機が同時多発的に地球と人類に迫っています。特に、この20年あまり、一部の大国が身勝手に振舞って来たことでより加速しています。今、私達が立ち上がらないと、子孫に顔向け出来なくなる。家族と世界を再び幸福にしましょう。Make the world and people happy again!

 

--- 目次  ---

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

2-7 幾多のエポックが社会を変え、発展をもたらした             

まとめ 

 

 

 

 

 

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

 人類は、初期には自然の猛威だけでなく、自ら作り出した災厄からも逃げ出すしかなかった。しかし、やがて工夫と協力で危機を乗り越えて来た歴史があります。失敗や成功の事例を見ます。

 

2-7 幾多のエポックが社会を変え、発展をもたらした

 

 人類の進化・進歩は、幾たびかの「大きなエポック(技術的・社会的転換)」を経て行われた。しかし社会内部では大きな対立と攻防がもたらされた。人類はこれらをどう乗り越えて来たのか? 四つのエポックが人々に何をもたらしたかを見ます。


 

 農業革命は約1万年前に始まり、それまでの採集から栽培・家畜化へ進み、定住と貯蔵が可能になった。そこから大変動が始まります。定住と土地の所有、食料の貯蔵が普及し人口が増えました。一方、不作になると他村の備蓄、家畜や土地を奪う事で生き残りを図るようになり、襲撃・略奪が増えた。やがて富の格差が生じ、支配者が生まれるようになった。青銅器時代になると戦争と都市化が加速した。紀元前3300年頃から始まり19世紀まで続く王権のスタイルが誕生し、強化されていったので、平民・奴隷は重税・賦役に耐える長い時代を生きることになった。生産効率を格段に上昇させた農業革命は、戦乱が平定され王権が安定すれば、平和が訪れて経済と文明の発達をもたらした。

 

 




 精神革命は紀元前800年~紀元前200年に、ユーラシア大陸の4つの地域でほぼ同時に興りました。ユダヤ教、ギリシャ哲学、諸子百家、仏教等の新しい哲学や宗教が誕生した。これらには以前に無い特徴があり、部族や小国を越えた広い地域に適用できる普遍的な真理や道徳を持つ思想や宗教でした。これが生まれた背景に、鉄器の普及により生産力と軍事力が向上し、大規模化する戦争が都市国家から大規模国家へと統合させたことがある。また交易網が発展し、異なる文化や異質な価値観が接触することで、自民族のローカルな神話を客観視し、より抽象的で普遍的な真理が生まれる土壌が育った。この過程で、敗れた王権の伝統的権威が失墜し、王宮の形骸化した祭祀(宗教)に批判が向けられた。一方で祭祀者(司祭)や軍の参謀らの知的エリート層の中から、新しい思想や宗教が生み出された。彼らの思想や宗教は、血縁や共同体の崩壊で混乱する民衆の心を捉え、大きな広がりを見せた。新しい帝国は、これらの宗教が社会に強い紐帯や安寧をもたらすとし国教と定め、押し広めた。こうして国家と普遍的宗教が強く結ばれるようになり、世界宗教として現在まで絶大な力を持っようになった。ギリシャ哲学でさえ、宗教(神)を否定することなく、神事は継承され都市民の絆として残った。精神革命は、社会の混乱の中から生まれた思想・宗教が民衆と国家に受け入れられ、その後も国家平定に役立ち続けた。

 


 商業革命15世紀から18世紀にかけてヨーロッパで起きた。大航海時代を契機に世界規模の貿易ネットワークが形成され、金融制度・商業組織・社会構造が劇的に変化した。この過程で、為替手形等の金融制度が発展し、株式会社が誕生し、近代資本主義の原型が生まれた。また社会にも変化が起きた。商人・金融家は、港湾都市が発展すると、農業収入に依存していた封建領主に代り、巨富を築き、力を得るようになり、後の市民革命の担い手になった。新規なものに投資することにより富を築く事が可能になったことで、従来の身分や慣習に囚われない、自由な発想が商人を中心に広がっていった。こうした中、彼らの思いを代弁するような思想がいくつも生まれた。18世紀スコットランドのアダム・スミスの経済思想へと結実していきました。彼の言う「個人が自らの利益を追求して自由な経済活動を行えば、市場の価格メカニズム(見えざる手)によって、結果的に社会全体の富や便益が最大化される」が、現在も呪文のように唱えられている。

 

 16世紀の宗教改革の思想の一部には商業革命の影響も受けていた。カルヴァン派(プロテスタントの一派)が誕生し、西ヨーロッパの商工業者を中心に爆発的に広がり、後に英国から北米に植民するピューリタンとなり、今の米国の最大宗教派の礎を作った。ピューリタンは、中世カトリック教会が否定した金儲け・高利貸し行為に対して、「勤労による利益は神の恵み」と肯定するようになっていた。 

 


 

 英国の産業革命は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、手工業中心の経済が、機械・工場・蒸気動力・大量生産を中心とする経済へ移行した大変化です。

 紡績織布の各工程の機械が17331779年に発明され導入されます。機械が大型化すると、動力としての蒸気機関が大幅に改良され、鉱山だけでなく工場・船舶・鉄道にも利用されるようになった。次いで製鉄・運河・鉄道が発達し、重工業化と輸送革命が進行した。

 

 工場が増えると都市化が進みましたが、労働者の住宅、上下水道、ごみ処理が不足し、人口過密と衛生問題が深刻化しました。工場では、女性や子供も多数働くようになり、また危険で長時間労働と事故が増えた。こうして産業革命の初期、労働者は悪条件下で賃金が低下し続けた。こうして資本家層の横暴が目立つようになり、宗教家・改革者・労働者の改革運動を背景に、18021842年にかけて議会は次第に労働者保護の規制を導入するようになりました。そして1871年労働組合結成、1906年スト権が合法化され、後に普通選挙を国民が手に入れることになった。やっと労働運動によって国民全体が産業革命の成果を得るようになり、賃金の上昇が始まった。

 

 産業革命において旧産業に働く人々は失業したはずだが、社会全体ではどうなったのだろうか? 学者らの推計によれば、全期間において平均失業率は13%程度と低いようだった。初期の農林業従事者が鉱工業・建設業とサービス業に向かい、新産業が旧産業の失業者を吸収した。しかし二つの問題があった。機械に仕事を奪われた職人は機械生産との価格競争に晒され、過酷で低賃金に耐えた。今一つは、資本主義経済が定着したことで、景気循環による恐慌が頻発し、失業率が1020%になることもあった。

 

 産業革命は最終的に経済を発展させ国民所得を上昇させ、次の米国の自動車や電気産業の発展へと繋がっていった。そして資本主義経済と自由貿易体制が確立した。一方で、労働運動から民主主義(人権尊重、多数決)と社会保障の充実が進み、1970年頃まで中産階級は上昇し続けた。

 

 産業革命は今に通じる、科学尊重、チャレンジ精神、勤労習慣、自由と権利の平等、民主主義等の重要な国民の意識を育んだ。一方で、大航海時代より世界に植民地を広げる中で、白人以外への差別は無くならず、さらに産業革命終了頃からヨーロッパは帝国主義(植民地獲得)へと突き進み、各国が競争・武力衝突を繰り返し、第一次世界大戦の勃発に至った。

 

 

まとめ

 これまで4つの革命と一つの改革を見てきました。農業革命では、平等だった狩猟採集社会に終わりを告げ、戦争と国家を生み、軍隊を持つ王の下に階層社会が出来上がりました。

 精神革命では、文明の発展と経済圏の拡大により、戦争と国家の規模が拡大し、戦火で疲弊した社会を安定させる説得力を持った宗教が生み出され、より広大な領域に精神的な一体感が生まれた。

 商業革命では、武力だけが権力基盤だった社会から、商人が第二の権力を握れる貨幣経済社会が到来し、やがて封建社会が廃れることになる。また宗教改革で分離したプロテスタントは教会権力から、各人が神と対峙するという意味で、主体性と権力からの自由の意識を持つようになった。一方、神の救いは決まっているが不明とされたので、自分が選ばれることを望み、地上で勤労に励み、自由な経済活動を尊んだ。この革命が終わる頃には、ヨーロッパ人は自由と主体性を持ち得るようになった。しかし一方で、奴隷アフリカの奴隷黒人、新大陸の先住民の酷使、東欧の農奴化と、ヨーロッパ人による搾取と差別が地球規模で行われ、その後も大きな傷痕を残し続けることになる。産業革命は、資本主義経済(工場、金融、法制度、市場)と工業製品によるグローバル経済を確立した。都市化と鉄道等交通網が発達し景観が一変し、地主貴族、新興資本家(ブルジョワジー)、都市労働者(プロレタリアート)の新しい階層が生まれ、中産階級(商人・専門職・事務職)も拡大し、社会も一変した。この資本家と労働者の対立が激化する中で、国民には二つの道が示された。一つは、資本家の横暴を根絶するために労働者が政権を担う共産主義を目指す。もう一つは、労働者の要望を国の制度に反映し続ける福祉国家を目指す。英国は後者を選び、人権尊重や福祉制度が進んだ。20世紀前半まで、多くの欧米諸国はこの方向を目指し、北欧は遅れて福祉国家を選んだ。しかし、1980年以降、先進国は様変わりした。 

 

 残念ながら、現在は、これまで人類が築き上げて来た素晴らしい精神を反故にし、迷宮に迷い込み、泣き叫ぶだけになってしまったようだ。

 

 

----全体の目次----

第一章、世界に迫っている危機の要約。

第二章、人類はこれまでに危機に対してどう対処して来たか。 

第三章、我々が直面している重大危機。

第四章、米国の衰退と世界の危機回避能力喪失は一体。

第五章、如何にあるべきか。

第六章、成功している北欧は資本主義のもう一つ道。

 

 

Sunday, September 20, 2026

短縮版 迫る多難な危機  第二章 2-4,2-5,2-6

 


「一時の自己満足の為に人類を破滅させては、神も悲しむだろう」

 

この短縮版は、既に投稿済みの「迫る多難な危機」を、少し内容を割愛、分割して連載します。

 

まえがき

 現在、深刻な危機が同時多発的に地球と人類に迫っています。特に、この20年あまり、一部の大国が身勝手に振舞って来たことでより加速しています。今、私達が立ち上がらないと、子孫に顔向け出来なくなる。家族と世界を再び幸福にしましょう。Make the world and people happy again!

 

 

--- 目次  ---

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

2-4 繰り返される金融危機・恐慌      

2-5 金融危機を招いた悪辣なマネー 

  金融危機対応から見える金融経済の問題

2-6 繰り返される環境破壊と気候変動  

環境を守った事例

まとめ

 

 

 

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

 人類は、初期には自然の猛威だけでなく、自ら作り出した災厄からも逃げ出すしかなかった。しかし、やがて工夫と協力で危機を乗り越えて来た歴史があります。失敗や成功の事例を見ます。

 

2-4 繰り返される金融危機・恐慌


  恐慌が始めて起きたのは産業革命末期の英国が最初で1825年でした。どうしても自由市場では、好況と不況(倒産)を繰り返します。恐慌下では、多くの労働者が長期に失業と賃金低下に喘ぐことになります。その後、ほぼ10年毎に起きています。やがて恐慌は一国から世界に広がるようになり、遂に1929年米国発の世界恐慌が第一次世界大戦で負けたドイツを困窮のどん底に陥れ(ハイパーインフレ)、ナチス・ヒトラーの台頭に繋がった。大戦後は、南米の債務危機、アジア通貨危機、ITバブル、住宅バブルのリーマンショック等が頻発するようになりました。

 実は、古い時代にも金融危機はあった。最古は古代ローマで、元老院議員らによる大規模な債務不履行(デフォルト)が発生し、ローマの銀行が次々と崩壊。皇帝が現代の価値で数百億円〜数千億円規模を無利子で市場に融資し、史上初の公的資金による銀行救済を行いました。1637年には、投機によるバブル崩壊が起き、オランダのチューリップ・バブルがあった。珍しい品種のチューリップの球根価格が異常に高騰し、家一軒が買えるほどの額に達したのちに大暴落。市場の熱狂と崩壊のサイクルを示した世界最初の事例です。

 

 日本にも、大正から昭和にかけて、10年間に3回と度重なる恐慌が襲いました。最後の恐慌は米国発の世界恐慌が波及し、さらに政府の貿易政策の失敗と農業恐慌が重なり甚大な被害をもたらした。これにより国民の不満が一気に高まり、農民にとって満蒙開拓が救いと思えるようなり、満州事変へと繋がっていった。

 

 人類は多くの経済危機、金融危機・恐慌、債務不履行、ハイパーインフレを経験し、悪戦苦闘しながら乗り越えて来たが、今も経済危機は無くならない。

 

 

 

2-5 金融危機を招いた悪辣なマネー

 

 マネーの暴虐さは近年勢いをさらに増し、日々新たな手口が生み出されています。ここ半世紀の危険なマネーの動きを拾います。

 

 発展途上国が海外の潤沢な資金に惹かれ、国の発展の為に借りる事はよくあります。しかし、これが往々にして悲惨な結果を生みます。一つは、途中からの金利高騰で返せなくなり、さらに高利貸しに手を出し、身ぐるみ剝がされるケースです。これが1970年代~80年代の中南米債務危機でした。この結果、この国々は、国民資産2200億ドルが国外流出し、ハイパーインフレと不景気に襲われた。高利貸しとはIMFです(悪意はないが、結果はほぼ最悪)。

 東南アジア諸国が、これまた海外の資金を国内投資の為に借入れ、国内景気は順調だったのですが、残念なことに外貨の貯えが少なかった。これに目を付けたヘッジファンドらが、タイ通貨を空売りし、通貨が下落することで数千億円儲けた。タイは自国通貨が半減すると、借金が倍になるので買いで防戦したが、完敗した。この結果、この5ヵ国の国民5億人に何が起きたのか。各国のGDP減少率はで5627%になり、タイは、その後の5年間で肺炎、結核、HIVによる死亡者数が5万人増加した。ここでも多くはIMFに頼ることになり緊縮の苦しみを味わった。このファンドの行為は為替投機であって違法では無い。ヘッジファンドは正に生き馬の目を抜く守銭奴です。

 


 最後に、世界が金融屋に騙され浮かれ、その果てに巨額の損失を出したのが、2008年のリーマンショックでした。二つの破綻要因があり、一つは、米国の低所得者用住宅ローン(高リスク)を他の債権と組み合わせた新しい証券CDOが世界中に販売された。これを有名な信用格付け会社が保障した。またこれら証券を買った銀行が、不渡りでも損失を補填して貰える保険CDSが出回り始めていたので、銀行は飛びつくように買った。しかし不動産バブルが弾けると、一気に世界中で安心とされたCDOCDSも不渡りが続出し、世界的な金融危機となった。世界の株価時価総額の約半分15兆ドル(約1500兆円)が数か月で吹き飛んだ。米国は救済に7000億ドルも税金を注ぎ込みました。証券CDOは総額1.5兆ドル、保険CDS総額は58兆ドル(5800兆円)にもなっていた。普通の神経なら、保険CDOの総額がこれほど多いと知った段階で、危険と判断するはずなのですが、無視するからこそ、毎回のように金融危機が起こるのです。投機家は「皆で渡れば怖くない赤信号」の心境になってしまう。

 

 三つの実例から言えることは、如何に金に群がる投資家らが、儲けの為なら国家や国民を食い物にし、世界に甚大な被害を与えているかがわかる。金融危機が再発しても被害が少なくなるような制度が必要です、大企業ではなく中間層以下にとって。我々は、賢くなるべきです。

 

 

金融危機対応から見える金融経済の問題

 

 2008リーマン・ショック後G20協調対応を行った。未曾有の世界的金融危機に対し、G20が中心となり、世界規模での協調的な利下げと、総額5兆ドル(税金)にも及ぶ大規模な財政出動を同時に実行しました。しかし、一連の対応から金融業界の恐ろしさが見えて来ます。対応は大きく二つに分かれる。一つは、倒産対応で、大手銀行を「秩序立てて潰せる」ようにする破綻処理手段が整備された。米国は、1930年の大恐慌時、安易な救済がモラルハザード(倫理の欠如)を生むとし銀行の連鎖倒産を事実上放置し、深刻化させました。しかし、その後、「大きすぎて潰せない」として、銀行を巨額の公的資金を投じて救済し、この慣行が続いていた。これをまた大転換した。もう一つは、今後の金融危機防止策で、金融機関の自己資本比率の大幅引き上げ、店頭高リスク金融商品(デリバティブ)の透明化、無免許銀行(シャドーバンキング)への監視強化が主でした。

 

 幾度も金融危機に見舞われているのに、なぜこの対応が事前に出来なかったのでしょうか? 金融危機は、危機⇒規制⇒「安心+景気刺激」⇒規制緩和⇒危機が繰り返されている。これが繰り返されるのは、金融資産の増加は多くの人にメリットがあり、過熱し易い一方、毎回、金融イノベーションにより状況が変わり、バブル崩壊を予見できない事にある。さらに米国は、金融資本家の勢力が大きいので、政府に圧力を掛け、規制緩和に戻ってしまう。バブルが起きると、投資利益は金融資本家に行き、バブルが崩壊すると負債は政府が被り、景気後退が庶民を襲う。これが繰り返されている。金融はブラックボックスのようだが、国家と世界が協力して、正確に把握し制御しないと、悪化するばかりです。

 

 

 2-6 繰り返される環境破壊と気候変動

 

 公害は古くからあった。人々の経済活動による環境破壊は幾度も起こっていた。地域毎の異常気象が重なることもあった。最古の記録として、出エジプト記に登場する「十の災い」があり、ナイル川の水位低下(紀元前1500年頃)が起因していた。水位がかなり低下し滞留すると赤い藻が発生し、蚊やアブを食べるカエルが死に絶え、蚊やアブが大量発生し、これが家畜や人に感染症を大量発生させることになった。エジプト文明はナイル川の氾濫農耕に依存していた為に被害が拡大した。

 

 人間が原因となった古い事例がトルコのエフェソスに残っています。古代ギリシャ人は、植民地上流の川沿いの森林を伐採し、牧草を植え、羊を飼いました。やがて土砂が下流の湾に堆積し、マラリアが発生し、人々は浚渫を繰り返した。紀元前3世紀に始まり紀元後14世紀、遂に捨てられ、都市遺跡は今の海岸から6kmほど内陸に引き離されてしまった。南太平洋のイースター島や中国の黄土高原などの殺風景な風景も、長年の森林伐採が原因です。今の米国は、地球温暖化を否定することで産業の発展を促進しているが、そのツケは米国民だけでなく世界が負うことになる。

 

 しかし20世紀になると、国内や世界が一致団結し、国内だけでなく地球を守る機運が高まるようになった。

 

環境を守った事例

 

1987年、モントリオール議定書によるオゾン層の保護が始まった。世界規模の環境問題を国際条約で解決した最も成功した例の一つです。197080年代、冷蔵庫やスプレー缶に使われるフロンガスが地球のオゾン層を破壊し、有害な紫外線の増加を招いていることが判明した。世界各国がフロンガスの製造・使用の段階的廃止に合意しました。先進国が途上国へ技術的・資金的な代替フロンへの転換支援を行ったことも功を奏し、現在オゾン層は回復傾向にあります。

 実は、この裏で科学者達の孤軍奮闘があった。高感度検出器による大気中のフロン発見、次いで別の科学者が、フロンが成層圏で壊れオゾンを破壊すると発表、さらに南極観測隊が上空のオゾン層が極端に薄くなっている事を発見した。これを米国のフロン業界が「根拠のない空想科学だ」と猛烈なバッシングを行った。しかしカーター大統領は、スプレー缶へのフロン使用を禁止した。こうして地球が救われることになった。

 

1980年代~、ヨーロッパ複数国の協力によりライン川の水質浄化。スイスからフランス、ドイツ、オランダなどを経て北海に注ぐライン川は、高度経済成長により工場排水や生活排水が流れ込み、1970年代には生態系が破壊され「ヨーロッパの下水道」と呼ばれるほど汚染されました。流域国が国際機関を作り、国境を越えた水質監視、厳しい排水規制を共同で実施しました。国境を越える環境問題は、国境を越えた共同管理によって解決できる事を示した。

 


2017年、水銀規制の水俣条約発効。日本の工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人々の間で中枢神経系に重度障害を引き起こした。これは国内最大規模の公害病で、被害者は7万人を越え、企業と国に対して勝訴した。

 その後、日本が主導して「水銀に関する水俣条約」が130か国以上の合意で採択されました。先進国と途上国が協力し、水銀の採掘から輸出入、製品(蛍光灯や電池など)への使用、廃棄に至るまでのライフサイクル全体を国際的に規制する体制を構築しました。

 日本の誇れることをもう一つ、日本の公害裁判において、「原因の証明は、被害者(市民)ではなく、企業側が科学的に反証できない限り認める」という形で、被害者に有利な判決が出されました。逆に、米国では、「原告(被害者)が厳密な科学的メカニズムと予見可能性を証明する必要があり、高度な専門証拠を完璧に揃えらえない限り、企業は免責される」とされている。米国の企業優先・経済優先が、あまりも露骨です。ヨーロッパの判例も、概ね日本のように被害者側に立っています。

 

 

まとめ

  

 人類が自然と共に暮らし、自然から恩恵を得る限り、環境を痛める可能性はいつもあり、放置すれば我が身に災厄が降りかかった。一方で、気候変動も数千年の間に地球の平均気温は±1℃の範囲で変化し、局所的に大きな異常気象を起こし、人々は苦境に陥ったことが度々あり、文明の崩壊に繋がったこともあった。人類は科学を発達させ、民主主義が広がる中で、自ら招いた公害や環境破壊について、多くの人が協力し乗り越えるようになってきた。だが気候変動による異常乾燥などには、つい最近まで無力だった。少しづつ科学技術で対処できるようにはなっているが、ほんの一部に過ぎない。

 

 

----全体の目次----

第一章、世界に迫っている危機の要約。

第二章、人類はこれまでに危機に対してどう対処して来たか。 

第三章、我々が直面している重大危機。

第四章、米国の衰退と世界の危機回避能力喪失は一体。

第五章、如何にあるべきか。

第六章、成功している北欧は資本主義のもう一つ道。

 

Friday, May 15, 2020

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





*1


今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。



Wednesday, April 29, 2020

中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで






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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。
その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。
途中、1回目の夕食場所も紹介します。


 
< 2.东巴文化博物馆 >

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。
小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

上: 入り口。

左下: 納西族の民族衣装。
庶民の普段着のようです。
町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)
説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。
実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。
(現在は衛生上の理由で禁止されています)
火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。
この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。


ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。
麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。
またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。
現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 
< 3. トンパ教 >

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。
宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。
したがって一般に使われる文字ではなかった。

左上: シャーマンの衣装だろう。

右上: ナシ族の兵装だろう。
この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。
トンパ文字が記されています。

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

下: 降魔杵
おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。




 
< 4. シャーマンと儀式 >

上: トンパ教の祭式場を再現。
これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

左下: 代々のシャーマン。
冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

右下: 儀式の一つ。


 
< 5. 湖の東岸を戻って行きます >



 
< 6. 古楽器を演奏する人々 >

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。


 
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< 8.锁翠桥 >

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。


 
< 9. 玉河广场に戻った >

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。
日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。


 
< 10. 軽く夕食 >

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。
夕方5時頃でしたが、客は少なかった。
料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。
それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。
数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。


 
< 11. 玉河广场から四方街への通り >

この通りがメインで、道幅が広い。
菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。
ツアー客が、どんどん増えて来た。
どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。


 
< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。
ショッピング好きにはたまらないでしょうね。
ここでは中国製だから安いと言うことはない。


 
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黑龙潭からの川の流れです。


次回に続きます。