Tuesday, April 7, 2020

中国の外縁を一周して 30: 唐へ誘う杜甫草堂




< 1. 杜甫(左?)と李白 >


今回は、唐の詩人杜甫(とほ)にゆかりの地を訪ねます。
杜甫は戦乱を逃れ、成都に4年間暮らしました。
当時の住まいが再現されている杜甫草堂を紹介します。


 
< 2. 杜甫の漢詩「春望」 >

杜甫(712―770年)は詩聖と呼ばれ、詩仙と称された李白と並ぶ唐を代表する詩人でした。
「春望」は、彼が長安で使えていた時、安禄山の乱に巻き込まれ軟禁されていた折に詠ったものです。
唐は誕生から百年が経ち絶頂期を迎えていたが、反乱でいとも簡単に、都の長安(西安)は陥落し、皇帝玄宗は蜀(四川省)に逃げた。
杜甫は妻と離れて暮らさざるを得ず、世の無常をこの詩に込めた。
杜甫は「春望」にも見られるように社会情勢や政治への思いを五言八行に込めました。


 
< 3.杜甫草堂 >

上: 入り口
下: 地図
とても広いので周り切れない。
この杜甫草堂は、木々で覆われた一辺500mの庭園内に数々の建物が散在している歴史テーマパークのようなものです。
杜甫がかつて住んでいた住まいが再現されています。


 
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雨がかなり降っていたので、写真を撮るのが難しかった。
広い敷地を、傘とカメラを持ち、多くの観光客を避けながらガイドについて行くのがやっとでした。


 
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< 6.少陵草堂碑亭  >

上: 中央の三角形屋根が少陵草堂碑亭
少陵は杜甫の号です。

下: 茅屋故居
杜甫の像らしき石像の左奥に見えるあばら家が、杜甫の再現された住まいです。


 
< 7. 茅屋故居  >

この狭い家屋内に多くの観光客が入っていたので、写真を撮るのに苦労しました。
机や台所が有り、他の部屋もありましたが、かなりみすぼらしい感じがした。
もっとも1300年前の話ですから、こんなものかとも思った。

実際、杜甫は科挙に失敗し、仕官も上手くいかず、さらに戦乱に巻き込まれ、流転と貧困に明け暮れた一生でした。
彼が悪いと言うより、隆盛ではあったが腐敗が進んでいた唐王朝において、彼の低い出自では出世が出来なかったのだろう。


 
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今回の中国旅行で、盆栽の起源は中国だとの意を強くした。
至る所で鉢植えの木の多いことに驚いた。


 
< 9.万佛楼 >

上: 漢詩の書が展示されている建物。
残念ながら読めないので、通り過ぎるだけでした。

下: 万佛楼が木立の向こうに見える。


 
< 10. 杜甫と唐 >

上: 右から玄宗、楊貴妃、安禄山。
中: 安禄山と唐の行軍。
赤線が安禄山の南下した侵攻経路、青線が唐軍の敗走経路。
玄宗は成都へ敗走し、皇太子は霊武に北伐を行い、後に長安を奪還する。

下: 太い黒線が杜甫の生涯の行路で、ほぼ当時の主要都市を巡っている。
Aは出生地鄭州、Bは長安、Cは成都、Dは逝去の地

私には「国破れて山河在り」は他人事とは思えない。
まさに今の日本を見ているようです。
杜甫の人生は、唐が絶頂期から崩壊に向かう時代と重なりました。

唐誕生から百年、玄宗皇帝の善政で唐は絶頂期を迎えます。
しかし彼は絶世の美女楊貴妃に溺れ、政治をないがしろにした。
政治は悪辣な宰相が握り、その死後、楊貴妃の血縁者が政治を牛耳った。
この血縁者は北辺を任されていた傭兵軍の総指揮官安禄山が反乱を起こす火種を作った。
そして755年、安禄山は蜂起し、1か月後には洛陽を、その半年後には長安も陥落させた。
玄宗は成都に逃げ、楊貴妃に死を命じ、北伐に向かった皇太子が皇位継承を勝手に宣言した。
唐は安禄山側の内紛や異民族の力を得て、どうにか切り抜けることが出来た。
この後、唐は中興の祖によって命脈を保ち、誕生から約300年後、内乱によって滅ぶことになる。

杜甫は、今の鄭州で地方官の子として生まれ、科挙を目指す。
各地を旅し、洛陽では李白と意気投合した後、長安に仕官を求める。
何とか一時、仕官は叶うが、安禄山の乱に巻き込まれ、逃避行を繰り返すことになる。
杜甫は蜀(成都)に逃れ、蜀の有力者が彼を支援した。
この時の住まいが杜甫草堂です。
支援者が死去すると、彼は家族を連れて南下し、かの地で死去した。
才能に恵まれ彼ではあったが放浪、逃避、貧困の内に人生を終えた。


広い庭園の為、1時間以内では、ほんの一部を覗くだけで、じっくり見ることは出来なかった。
それでも歴史的な佇まいを全体的にうまく再現しているので、見る価値は十分にあります。
もっとも時代考証が正しいかは分からないが。


次回に続きます。



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