Monday, November 23, 2015

社会と情報 64: 戦った報道 21



< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。
主に満州と中国を中心に見ます。



< 2. 旧満州国 >

はじめに
「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。
前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。
後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。



< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.
日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。
さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。
ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。
敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。
明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。



< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。
1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。
彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。
軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。
つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。
さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。
強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。
さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。
こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。
1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。
つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。


資本進出                  文献2.
植民地の民族資本の割合を見る。
1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。
つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。
満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。
しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか
日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。
こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。
また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。



< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf > 
解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。
図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。
2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。
(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)


それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.
答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。
そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。
米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。
これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。
また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。
また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。
当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。
こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。



< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益
例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。
これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。
実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。
一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。
中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。
撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。





< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >
解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ
結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。
ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。
それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。
こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。
一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開
しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。
やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。
それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。
初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。
まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。


文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。
文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.
文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。






Sunday, November 22, 2015

I visited colored leaves of Nara prefecture 1


奈良の紅葉を訪ねて 1



 
*1

I went to see colored leaves of Nara on November 19.
Today, I introduce the colored leaves of Shoryakuji temple in Nara prefecture.

この11月19日に奈良県の紅葉を見に行きました。
今日は奈良市菩提山町の正暦寺の紅葉を紹介します。


< 2.  Main hall and bell house >
< 2. 本堂と鐘堂 >

It was cloudy unfortunately.
The colored leaves in here seem to be at their best around this time yearly, but it in this year was not very good because it was warm.
However, I enjoyed red and yellow autumnal scenery.
I used a sightseeing tour.

この日はあいにくの曇りで、今にも雨が降って来そうでした。
寺のある谷間の紅葉は例年今頃が盛りなのですが、暖かいせいか良くないそうです。
今回は、四国発の日帰り観光ツアーに便乗しました。
1年1度の紅葉見物では当たり外れがあり、少し残念でした。
それでも赤や黄色の秋色を楽しみました。




< 3.  Bell house >
< 3. 鐘堂 >



< 4.  Memorial towers >
< 4. 供養塔 >

There are these memorial towers below the open space of the main hall.
It seems to be the priest’s grave of this temple.

この供養塔は本堂の広場を降りた所にあります。
この寺の僧侶の墓だそうです。




< 5. An approach >
< 5. 参道 >





< 6,7,8.  Views from the gardens of a reception of the temple >
< 6、7、8. 福寿院客殿の庭先から >



< 9.  Colored leaves and a small stream >
< 9. 紅葉とせせらぎ >



< 10.  Colored leaves of Ginkgo
< 10. 銀杏と紅葉 >

Next time, I introduce Chogakuji temple.

次回は、長岳寺を紹介します。








Saturday, November 21, 2015

社会と情報 63: 戦った報道 20




< 1.青島の居留地 >

記事の投稿順序を間違いましたので、差し替えします。

前回、国内の窮状を見ました。
しかし、なぜ国内問題の解決が満州侵攻だったのかが明確ではありません。
今回、その背景を経済的側面から見ます。

はじめに
私は、これから大陸侵攻の経済的側面、特に植民地化と産業貿易について見ていきます。

ところで、あなたは台湾人が日本の植民地統治をどのように見ていると思いますか?
参考に台湾大学の歴史学科教授のコメントを記します。文献1.

「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史過程を経験した。一般的に植民地化は完全にマイナスの経験とされ、近代化と言えば、プラスの評価が強調されることが多い。しかし、・・これは二重奏のようなもので、・・この両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さを理解することは出来ないだろう」



< 2. 関東軍参謀の石原莞爾 >

満州事変前後の代表的な発言
最初に、当時の人々は1931年の満州事変をどのように捉えていたのかを見ます。
六つの意見を要約しました。

A: 1929年、満州事変の首謀者石原莞爾の「満蒙問題解決案」より 文献2.
「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者を救済することが出来る」

B: 1931年10月、大企業を中心とした財界4団体の申し合わせより 文献2.
「協同一致排日行為の絶滅、対支懸念および満州問題の根本的解決を期す」
この年の9月の満州事変を受けての反応です。



< 3. 1935、36年、上海の抗日運動を報じる新聞 >

C: 1931年11月、山形県のある軍人後援会の設立趣意書より 文献2.
「今やわが国は空前の難局に際し、満蒙はおろか全支にわたり武器を採って先陣を進めつつあり、・・本村から出征している軍人は6名の多数に上っているのであります。この我等村民は挙村一致してこれら軍人を後援し・・・億兆一心義勇奉公の誠を表したいと思います」

D: 1932年8月、日本中小商工会連盟の決議より 文献2.
「中小商工業者の満州移民進出のために政府は急遽積極的方策を確立すべし」


E: 1932年6月の第62帝国議会への誓願活動の要約、自治農民協議会による 文献2.
「農家の負債を3カ年据え置くこと。肥料資金として反当たり一円の補助を出すこと。満蒙移住費として5千万円の補助をだすこと。」

F: 1937年元旦、貴族院議長近衛文麿(後に首相)の発言記事より 文献3.
「天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友人として開発をなさんとするものである」
この年の7月に日中戦争の戦端を開くことになるが、上記は中国のことを指す。



< 4. 満州開拓の夢と現実 >

説明
農家や中小企業、大企業、政府を代表し国論を牽引した人々は満州事変を契機にして、移民の増大、現地の排日行為根絶、中国からの干渉阻止、中国の資源開発を訴えた。
そして多くの人が横暴で未熟な現地を軍事で制圧することに賛成した。

軍部や政府は大陸の情報を捏造し続けていたので、国民はそうだと思うようになっていた。注釈1.
この態度はFのように近衛の発言にも現れている。
一方、末端の人々はCのように政府や軍に対して従順であった。
実は、Cは在郷軍人会、Dは左翼、Eは右翼が関わっていた。
こうして左翼も右翼もこぞって戦争に足を突っ込んだ。
まだ満州事変の段階では、日本政府は戦線不拡大の方針のはずだったが、既にCの発言には中国侵攻が謳われていた。

次回は、具体的に経済的な背景を見ます。


文献1:「図説台湾の歴史」周著、平凡社刊、p123。
文献2:「集英社版日本の歴史20」p22、27、28、31、77。
文献3:「図説日中戦争」河出書房新社刊、p9。

注釈1: 満蒙で起きていた1928年の張作霖爆殺事件、1931年の中村大尉事件、万宝山事件、満州事変などが典型です。
どれも政府、特に軍部が国民に事実を知らせないだけなく、敵意を煽るために情報を捏造していた。
国民が真実を知るのは戦後になってからでした。




Thursday, November 19, 2015

Went around Croatia and Slovenia 12:  Seafaring country Dubrovnik 2


クロアチア・スロベニアを巡って 12: 海洋都市ドゥブロブニク 2



< 1. Viewpoint A. I overlook the old port from rampart >
< 1.視点A。城壁から旧港を見下ろす >

Today, I introduce a walking on the rampart of Dubrovnik.
Unfortunately I didn’t go all the way around it, but even part of it was worth seeing.

今日は、ドゥブロブニクの城壁の散策を紹介します。
残念ながら一周はしていませんが、その一部でも見応えのある景観でした。




< 2.  Whole view of Dubrovnik from Mt. Srd >
< 2.スルジ山から見たドゥブロブニク >

We walked the promenade of rampart of the near side from the left side to the right side.
I wanted to walk the rampart of the seaside, but couldn’t go on the grounds of our tour.
We walked it from 10:00 to 10:20.

私達は手前側(山側)の城壁の遊歩道を左側から右側に歩きました。
私は海側の城壁を歩きたかったのですが、ツアーの都合でいけませんでした。
城壁を歩いたのは10:00~10:20でした。



< 3. Our sightseeing route >
< 3.私達の観光ルート >

Legend:
A yellow line shows a walking route of the rampart.
Yellow arrows and alphabets indicate approximate photography point and direction.
Red stars are main sightseeing spots seen from the rampart.
Blue lines are our sightseeing routes.

凡例:
黄色線は私達の城壁の散策ルートです。
黄色の矢印とアルファベットはおおよその撮影地点と方向を示しています。
赤の星印は、城壁から見える主な観光スポットです。
青線は私達の観光ルートです。



< 4.  Viewpoint A >
< 4.視点A >

I saw the old port from the top of the stairs that I had climbed up to.
The stone wall of the left hand is a part of Revelin fortress surrounding an east gate.

階段を登り詰めた所から旧港を望む。
左手の石垣は東の門を囲んでいるレヴリン要塞の一部です。



< 5.  Viewpoint B >
< 5.視点B >

Upper photo:  Saint Ivan fortress on the left end was a cornerstone of protection for old port.
There is Lokrum Island in the back.
Lower photo:  Dominikanski monastery and bell tower are near the entrance of the rampart.

上の写真: 左端にあるのが聖イヴァン要塞で旧港の守りの要だった。
その奥に見えるのがロクルム島です。
下の写真: 城壁の上り口のすぐ隣にあるドミニコ修道院と鐘楼。



< 6.  Viewpoint C, D, E are arranged in order from the top >
< 6. 上から順に視点C, D, E >

Upper photo: Two gray dome roofs seen in the center are Saint Blaise church and Dubrovnik Cathedral from the near side.
The thin tower on the left side is a bell tower in Luža Square.

Lower photo: The brown square roofs and bell tower in the center are Franciscan monastery.
There is Pile Gate that we entered through the rampart on the right side.
Furthermore, there is Lovrijenac fortress beyond an inlet on the right side.

上の写真: 中央に見える二つのドーム状の灰色屋根は、手前から聖ヴラホ教会、大聖堂です。
その左側の細く高い塔はルジャ広場にある鐘楼です。

下の写真: 中央の方形をなす茶色屋根と尖塔はフランシスコ修道院です。
その右側の城壁に私達が入って来たピレ門があります。
さらに右の入江を挟んでロヴリイェナツ要塞が見えます。




7. Viewpoint F,G >
7.  視点F, G >

Upper photo:  Minčeta Tower from the promenade of the rampart.
It was built in the 14thcentury and was rebuilt in the 15th century.
I didn’t climb it because I need to move forward fast.
A regret!

Lower photo:  There is Pila Gate in the center of the rampart, and Fort Bokar in the back.


上の写真: 城壁の遊歩道から見たミンチェタ要塞。
これは14世紀に造られ15世紀に再建された。
この上からの眺めは期待出来たのですが、先を急いで行かなかった。残念!

下の写真: 城壁の中央にピレ門、その向こうにボーカル要塞が見える。



< 8.  Viewpoint H
< 8.視点H >

The left side is the rampart that we just walked on.
There is the Adriatic Sea beyond the old port, and furthermore the Mediterranean Sea in the back.

左側が今歩いて来た城壁で、旧港の向こうにアドリア海、さらにその向こうに地中海がある。




< 9. Viewpoint I >
< 9.視点I >
I look down Placa street from the top of Pila Gate.
A church and Franciscan monastery lined up on the left side from the near side.
There is a bell tower of Luža Square at the end of the street.

ピレ門の上から、プラツア通りを見下ろす。
通りの左側、手前から救世主教会、フランシスコ修道院と並ぶ。
通りの突き当たりにルジャ広場の鐘楼が見える。



< 10.  Viewpoint I >
< 10.視点I >

I look down the right side of Placa street from the top of Pila Gate.
The dome structure of the lower right is the upper part of Big Onofrio's fountain.

ピレ門の上から、プラツァ通りの右側を見下ろす。
右下のドーム状の構造物はオノフリオの大噴水の上部です。

About the rampart
It is the about 8th century when this old town was born that this rampart surrounding it was built.
After that, it was expanded and became its current form in the about 16th century.
The max height is 25 m, the width of the sea side is 1.5 – 3 m, and it of the mountain side is 4 – 6 m.
Walking on the promenade of the rampart takes one hour by making a circuit.
The entrances are four, and four fortresses are established at four corners.
At the entrance of the Lovrijenac fortress (viewpoint E, G) on the western outside, the following message had been carved on the castle wall.
" It isn’t in the right that we sell our freedom for even every gold "
Here is the spirit of a seafaring country that traded over the world of the Middle Ages.


城壁について
旧市街を取り囲む城壁が築かれたのは町が誕生した8世紀頃です。
その後、拡張され16世紀頃に現在のような姿になった。
城壁の高さは最高25m、巾は海側で1.5~3m、陸側で4~6mもある。
城壁の上の遊歩道は一周約2kmでゆっくり歩いて1時間です。
入口は4ヵ所、要塞は4つの角に設けられている。
城壁の外、西側のロヴリイェナツ要塞(視点E,G)の入口に
「あらゆる黄金をもってしても自由を売るは正しからず」と刻まれている。

まさに中世、世界を股に掛けた海洋国家の心意気が見えます。

Afterword
My dream was to look at a city of seafaring country that thrust in the sea.
This city was an independent nation once, and was a perfect city that had left a feature of the Middle Ages.
How could such small country continue with the independent nation between large countries for approximately seven centuries?
Phoenicia and Miletos must have been similar, too.
This history romance tempts me into next meditation.

This continues next time.


あとがき
私はこのような海に突き出した海洋都市国家を見ることが夢でした。
ここは独立した海洋国家で、中世の面影を残している申し分のない都市でした。
このような小国が如何に大国の狭間で約7世紀もの間、存続出来たのだろうか?
かつてのフェニキア、ミレトスも同様だったに違いない。
歴史ロマンは私を次へと誘う。

次回に続きます。








Monday, November 16, 2015

社会と情報 62: 戦った報道 19



< 1.日露戦争の凱旋 >

今回は、1900年代から1930年代、明治末期から昭和初期にかけての国民の窮状を具体的に見ます。


三つの時期について窮状を見ます



< 2. 傷痍軍人 >

1900年代を中心に 文献1.
日清・日露の戦役が世の中を変えた。

廃兵(傷痍軍人)
日露戦争(1904、05年)によって、死傷病者は出征兵士の49%、46万に上った。
当時、人口4600万人、就業者2500万人の66%が農林業従事者で農家数540万戸であった。
特に農家の場合、彼らは主要な働き手であったので、その家族は路頭に迷うことになる。

苛税
国民総生産に占める全政府支出は1890年に11%であったが、1900年19%、日露戦役以降の1910年に38%に上昇してから、1920年25%、1930年38%となった。
1910年、国の一般会計歳入の内訳は、直接税の所得税・営業税が8.5%にしか過ぎなかった。
地租税11%と残り間接税の類80.5%が多いため、低所得層(庶民と農民)の負担が大きく、益々生活は苦しくなっていく。 注釈1.
累進性の無い税制、間接税中心の当時の税制は富裕層や企業には有利だった。 
これは当時の選挙民は一握りの富裕層だったので直接税導入が猛烈な反対に合い困難だったことによる。

この上、戦時公債の引受、「愛国心」を計られる半強制的な軍資献納金が追い討ちをかけた。
その結果、税金を払えないことによる財産の差し押さえは1900年代の10年で約10倍に増加した。


< 3. 村の身売り相談 >

1920年代前半を中心に  文献2.
第一次世界大戦の好景気の反動による戦後恐慌が世の中を変えた。 

農民の困窮
1922年頃、自作農家で32戸中11戸、小作農家で35戸中14戸が、赤字に陥っていた。
小作人は小作料と高利の借金に喘いでいた。
農民は寄生虫やトラホームに罹患し健康者は1割しかいなかったし、小学児童の弁当の副食は8割が梅干しだけであった。
こうして小作争議は1918年に全国で256件であったのが、1926年には2751件と膨れあがった。

農家の苦境の背景に何があったのか。
1910~40年の自作農は約30%に過ぎず、他は小作(一部自作も含む)であった。
またこの時期、米の反収が伸びない上に、1920年の戦後恐慌から1930年の間に米価は60%下落した。
この間、消費者物価は26%下落した。
1918年の米騒動以降1930年代前半までに、朝鮮米の徴発量は日本の産出量の約4%から14%に増え、昭和東北大凶作(1931~1932年)では不足分の7割を賄った。
しかしこれが日本の長期米価低下を招き、朝鮮半島の人は40%もの消費減に耐えなければならなかった。
彼らは満州に脱出するか、満州からの稗や粟でしのいだ。

もっとも、第一次世界大戦の好景気では、米価の高騰で農村は潤ったこともあった。
同時に、都市部では大正デモクラシーを謳歌し、労働者の賃金は上昇し、1920年代前半はまだ賃金水準が維持されたので恐慌の影響が少なかった。
むしろ都市部ではインフレ時に苦しむことになった。



< 4. 昭和恐慌、銀行の取り付け騒ぎ >

1930年代前半を中心に 文献3.
1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌、1930年の昭和恐慌が続き社会は悪化の一途を辿った。

失業
企業の利益率は半分になり、賃金も2割減となり、会社の倒産が相次ぎ、賃金の不払いも増加し、大量解雇が発生した。
失業者は1930年から増え始め、31年に280万人、失業率8.9%でピークに達した。
労働争議は1925年に全国で293件だったのが、1931年998件とピークを迎えた。
この膨大な失業者のうち、工場労働者の約4割、鉱山労働者の約2割が帰農した。
ただでさえ貧しい農村に人が溢れ、困窮は極限に達した。
こうして農村部で人口過剰が問題となり、移民が説かれた。

農村の窮乏
都市部の購買力減はさらに農作物の価格を1929年から31年かけてさらに約60%低下させた(32年にかけてほぼボトム)。
さらに1931年、34年に東北・北海道が凶作に見舞われ、自作農で60%、小作農で75%が赤字農家に転落した。
税金が納められず、土地や収穫物を差し押さえられる農家が続出した。

こうして昼食抜きの児童が増え、東京へ娼婦として売られる娘が続出した。
1934年の身売りは約2万人で、娘を一人売ると親は約1年分の所得を得ることが出来た。
小作争議はこの年に更に最大を更新し6824件となった。


< 5. 所得格差 >
解説: 日本(赤線)は明治から太平洋戦争が始まるまで所得格差は高いままだった。
ドイツ(青線)では第一次世界大戦以後の社会主義政権で所得格差は是正されたが、ヒトラーの独裁が始まってから所得格差が急増したが、それでも日本よりもましだった。


まとめ
満州事変に至る約30年間の庶民の困窮状態を見ました。

この間、農家は日本の一人当たり実質成長1.3倍(注釈2)の経済発展から取り残され、さらに悪化し、豪農と貧農の格差も開いていた。
一方、都市と工業は大きな発展を遂げたが、第一次世界大戦の好景気と戦後恐慌を経て、経済格差が広がった。
労働者では熟練度や企業規模(産業の二重構造)などによって賃金格差が生じ、また軍需産業重視の施政によって財閥化が進んだ。
肥大化する財政と累進性の無い税制(注釈3)は低所得者を益々追い詰めた。
こうして欧米先進国と比べて所得格差は群を抜いて高くなった。

さらに政府と軍需産業との癒着、疑獄事件、大企業や財閥優先の経済政策は国民の怒りと失望を買った。
こうした不満の爆発から、1931年に満州事変が起こり、日本は戦争への道を突き進んだ。

次回は、経済的な謎、なぜ国民は満州侵攻を受け入れたのかを探ります。


注釈1: 上記間接税の類には郵便電信収入なども含めている。1910年一般会計歳入の公債・借入金は0.5%に過ぎないが、特別会計の規模は一般会計の1.7倍あった。この特別会計でさらに莫大な軍事費が支出され、収入は公債・借入金が大半であった。いずれこの支払いも国民の税金とならざるを得なかった。日清戦争だけは賠償金で国民の負担は減った。また個人消費が国民総生産に占める割合は90~70%なので、庶民の税負担率はさらに増す計算になる。

注釈2: 「世界経済の成長史 1820~1992年」マディソン著、(p77、p143)によると1913~50年の一人当たり実質GDPの平均複利成長率は0.9%、人口は1.6倍となる。つまり30年間で実質GDPは一人当たり1.3倍、全体で2.1倍になる。この一人当たりの成長率は同期間のアジア11カ国(台湾、タイ、韓国、中国など)の中で群を抜いて良かった。

注釈3: 高所得に比例する所得税などの直接税が低く、酒税などの消費に比例した間接税が高かったので、低所得者ほど税率が高くなり貧富の差は開くことになる。
 
文献1:「集英社版日本の歴史18」p202~210。「日本経済史」石井寛治著p193~196.「数字でみる日本の100年」国勢社刊、p276~。

文献2:「数字で見る日本の100年」国勢社刊、p116,p270。「経済学大系7 日本経済史」学文社刊、p147、p159。「日本経済史」放送大学教育、p100、p150。振興会刊。図説日本史、東京書籍刊、p201、p221。