Friday, February 7, 2014

社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3

 戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

戦場は真実を嫌う
ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。
63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。
記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。
告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。
これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。
これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。
その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。
秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。
すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。
むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。


戦場カメラマンの石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

記者の葛藤
私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。
彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。
私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。
最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。
彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。
とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。
しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。



戦場カメラマンの岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

戦後、特派員が振り返って
前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。
「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。
そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。
『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。
なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

ある老齢の記者は言う。
「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。
ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」


ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。
一時は最大700名に上る特派員がいた。
検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。
しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。
爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。
さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

極論すれば
記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。
またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

次回、真実の報道と国民の関係を追います。












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