Wednesday, February 5, 2020

中国の外縁を一周して 18: 開封博物館と開封






*1

これから数回に分けて八大古都の一つ開封を紹介します。
この地は日本が平安時代の頃に世界最大の都市になっていた。
私は当時の面影を求めてやって来ました。
ちょうど開封市挙げての菊花展が行われていました。


開封について
ここは宋(北宋)の首都(東京開封府と呼ばれた)でした。
宋は日本人にとってあまり馴染みが無いかもしれません。
しかし宋時代には興味の尽きないものがたくさんあり、この開封で宋時代の全盛期が生まれました。

宋時代の代表的なもの
文治主義による統治、中国最長の王朝。
商業と海外貿易、貨幣経済の発達。
三大発明、火薬・羅針盤・印刷術が生まれた。
朱子学や浄土宗が誕生した。

実は、私達に身近な物語「水滸伝」は宋時代を題材としたものです。
この時代に庶民文化が花開き、「三国志演義」の元となる講談が人気を博していた。
(この二つの物語が完成したのは明時代)


 
< 2. 宋時代の人気者 >

これらは人気テレビドラマのタイトルで、下二つは日本でも放映され、私も見ました。
水滸伝、岳飛、包拯が中国では絶大な人気を博しています.

水滸伝は多くの梁山泊に集い、国の為に戦う物語です。
岳飛は南宋時代、異民族の侵略を食い止めた勇猛な武将でしたが、宰相に謀殺され悲劇の人となった。
包拯は北宋時代、清廉潔白で名裁判官と評され、大岡越前と似ている。






 
< 3. 北宋の開封 >

なぜ開封なのか?

上: 北宋時代(960~1127年)の領域。
黒四角が開封(東京開封府)です。
この後、北方騎馬民族の金が南下し、宋は開封を捨てた。
その領域(南宋)はおおよそ長江流域から南側とし、勢力は衰えた。

下: これは当時の水運ルートを示した地図(博物館より)。
青線が自然の川で、赤線が運河です。
このことにより北部(北京や西安、洛陽)と南部(上海、南京)が黄河と長江を介して直結されていた。
隋王朝が大運河を造ったことが画期となった。

開封は黄河沿いにあったので古くから発展していたが、唐が滅んだ後の1世紀は内乱が続き、かっての首都長安や洛陽は荒廃していた。
そして運河を利用出来た開封が宋王朝の首都になったのでしょう。



 
< 4. 開封城 >

上: 開封城。
この図が何時の時代を表しているかは不明。
現在、開封の城壁や城門の一部が残っているのは内城のものです。
この地は幾たびも戦火と黄河の氾濫に遭い、遺跡は地下に眠っています。
現在見られる城郭は清代に建設されたものです。

下: 梁山泊の位置を示したもの。
開封を赤四角、梁山泊を赤矢印で示す。


 
< 5. 開封博物館の位置 >

上: 赤四角が開封の位置。
左(西)に鄭州、洛陽、西安、右に商丘、徐州がある。
これらは古代より名を馳せた地でした。

中: 今回、私が訪れた所です。
Sが開封北駅、Mが開封博物館、赤枠が開封の内城です。
多くの観光スポットがこの赤枠内にあります。
赤枠内の三つの黄色の円が、私の観光した所です。
Hが二泊したホテルです。

開封博物館へは開封北駅からタクシーに乗りました。
博物館からホテルまでは、公共バスを一度乗り継いで行きました。
黒線がそのおおよそのルートです。

下: 開封北駅の全景(借用)。
ここも相変わらず駅前広場が広すぎて、タクシ―乗場に向かうのが一苦労でした。
タクシー乗場は広場前方にあり、標識で分かります。
タクシーは次から次とやって来るのですぐ乗れました。


 
< 6. 開封博物館 >

ここは数年前に出来たようで、それまでの開封の内城内からこちらに移転して来た。
実に、巨大です。
この日は2019年10月20日の日曜日でもあり、見学者は多かった。
ここはパスポートを見せれば無料です。

上: この写真は博物館の西側を撮影したものです。
タクシーがこの西側で下ろしてくれた。

この入り口の右側の建物に入り、パスポートを見せてチケットをお貰いました。
私達は大きなスーツケースを持っていたので、別のカウンターに行き、荷物預けを頼みました。
カウンターの若い女性係員の一人と英語でやり取りが出来き、こころよく預かってくれた。

下: 荷物を預けて、一度建物(チケット窓口)をでて、本館の入り口に向かう途中。
外側を見ている。


 
< 7. 館内へ >

上: 入館したばかりの所。
至るところで工事中か模様替えを行っていた。

中: 当時の開封の街並みを描いた絵。
眼下に街並みの賑わいが伺える。

下: 唐三彩。


 
< 8. 開封城の復元模型 >

上: おそらく外城、内城、王宮の全体を復元したものでしょう。
何時の時代かは不明。
内城、中央の奥に王宮らしきものがあり、その右手前に大相国寺らしいものが見える。

当時、この狭い城内に百万人が暮らし、凄い人口密度だった。
内城の一辺は約4kmです。

下: 内城の時代ごとの変遷図。


 
< 9. 開封の賑わい >

上: 当時の夜市が描かれている。
当時の開封の賑わいを知るには『清明上河図』が良いのですが、博物館にこの絵がありました。

実は、夜市は宋時代から始まり、この絵のような街並みも宋時代からなのです。
それ以前、例えば唐時代では市(商取引)は城内の限られた広場で限られた時間に行われ、官吏が厳重に監視していました。
しかし宋時代になると、商取引は通りで常時行われ、更に夜市も許されるようになりました。
これにより通りの様式が様変わりしました。

唐の長安では門を抜け大通りを行くと、左右は屋敷の壁で囲まれていた。
しかし、開封ではこのように町家の軒先が通りに面し、人が自由に往来出来たのです。
柳が町や湖畔を植えられるようになったのも宋時代からだそうです。

こうして経済が発展し、大衆文化が花開いたのです。


中: オペラの舞台のようなものです。
開封の夜市に行った時、道路に面したこのような舞台で一人の女性が朗々と歌っていました。

下: 店舗。


 
< 10. その他の展示 >

上: 薬屋でしょうか。

下: このような近代の街並みも再現されています。

写真は撮っていないのですが、驚いた展示もありました。
それは日中戦争に関わるものでした。
日本軍がこの地に侵攻していたのです。
1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が南京を占領した後、徐州作戦で開封を占領したのはその1年後でした。

中国人に交じって一人、侵略する日本軍の状況を見るのは嫌なものです。
とは言っても、中国や朝鮮半島各地を観光していると大概、戦禍を知ることになりますが。

旅行先で色々知ることができました。
桂林のような山奥でも日本軍が進攻していました。
北京の盧溝橋の傍にある中国人民抗日戦争紀念館では、日本軍の残虐行為を示す写真が並んでいます。
蘭州でも日本軍が鉄橋を爆撃したと聞いた。
これらはすべて日中戦争での出来事です。

また廈門の奥、山間部にある客家土楼では、かつて倭寇が攻めて来たと書かれていた。
この倭寇は日本人が主体ではないかもしれないが。


 
< 11. バスで開封の中心部に向かう >

上: 開封博物館の全景。

中: 開封博物館の西側。
この奥の方に開封北駅がある。

下: 開封博物館の横を東西に走る道路。
道は非常に広いが車は少ない。

タクシーとバスから外を見ていると開封の発展に驚かされました。
開封北駅から開封の中心部(内城)までは高々ここ数年間の大規模な都市開発で出来たようです(開封北駅の開業は2016年)。
原野のようなところに忽然と高層のマンションが林立し、また途切れます。
その規模の壮大さに圧倒されます。
実は、これから巡る奥地でも同様かそれ以上でした。


 
< 12. 途中の景観 1 >

バスの乗車で注意すべき事を一つ。
今回、途中で1回バスを乗り替えたのですが、バス停の名前が紛らわしい。
バスの路線によって乗り換えるバス停の名前が違うのですが、実は同じバス停に違う二つの名前がついていたのです。
スマホの百度地図アプリを使用しGPSで位置確認していたので間違うことは無かったが、バスが来るまでは不安でした。
バス停の名前には注意してください。


 
< 13. 途中の景観 2 >


 
< 14. 開封の中心部 >

鼓楼通りと交わる交差点に降り立ちました。
ここからホテルは直ぐです。


次回に続きます。




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